3日ぶりの更新だが、今日の史跡も残念ながら地味である。しかも、その歴史は凄惨である。
上月城跡は、城山という山の上にある。
麓には、土日祝日に開いている上月歴史資料館があるが、私が訪れたのは平日だったので、開いていなかった。
上月城は、鎌倉時代末期に、上月景盛が築いた城である。以後、上月氏の居城となった。
上月景盛は、赤松氏の祖先でもある宇野則景の息である。
城山は、登山口から頂上まで然程距離はなく、登りやすい。
上月氏は、南北朝時代には、赤松氏の支配に服するが、嘉吉の乱で赤松氏が一度滅亡した時に、上月城も陥落し、播磨は山陰の守護大名・山名氏の支配下に置かれる。
その後、赤松政則が応仁の乱で細川方につき、播州を支配していた山名氏が京に戦力を集中している隙を見計らって、播州に侵攻し、たちどころに播州一円を制圧する。
赤松氏の播磨支配回復後、上月城には、赤松氏の支族が入り、城主となる。
天正五年、秀吉を大将とする織田軍が播磨に侵攻し、上月城を攻撃する。この時の城主は、赤松政範である。政範は、置塩城の赤松惣家から独立し、毛利方について秀吉に抵抗した。
秀吉軍15,000人は、上月城に総攻撃をかける。上月城側は、降伏を申し出るが、秀吉は受け入れなかった。上月城は落城した。政範は自刃し、城内の武士の首は全て刎ねられ、女子供は串刺しか磔にされ、備前美作との国境にさらされた。
上月城には、石垣がほとんど見当たらない。防御機構の大半を土塁で造ったのだろう。上月城の資材は、廃城後、利神城の建設に転用されたそうだから、残っていないのかもしれない。
曲輪の跡として、削平地が残っている。本丸跡の削平地が最も広い。
本丸跡には、赤松政範の慰霊碑が建っている。この慰霊碑は、上月城落城の時の守将の末裔大谷義章が、文政八年(1825年)、政範の250回忌の際に建立したものである。
壮絶な戦いの跡を思わせる慰霊碑である。
しかし、上月城の悲惨な歴史はこれで終わらなかった。
秀吉は上月城落城後、尼子勝久と山中鹿助にこれを守らせた。天正六年(1578年)、毛利軍3万は、上月城を包囲した。秀吉軍は救援に駆けつけるが、三木城の別所氏が秀吉に反旗を翻したため、秀吉軍は三木に転進する。見捨てられた上月城は落城し、尼子勝久は自刃し、山中鹿助は捕えられ、毛利領内を護送中に斬殺される。
この天正年間の上月城を巡る攻防を総称して上月合戦という。何とも凄惨な戦いである。
さて、城山から下りて、車を北に走らせる。佐用町の上三河という集落に、国指定重要文化財の上三河農村舞台がある。
この農村舞台は、天保十二年(1841年)の建築であり、明治29年(1896年)に現在地に移された。
皿廻し式廻り舞台、小屋裏回転機構、床面拡張装置、取り付け式の花道などの舞台機構を具備し、特に屋根から吊り下げられた小屋裏回転機構が珍しいらしい。
茅葺入母屋造りの、農村舞台らしい造りである。
昭和60年の上演を最後に、一度この舞台での歌舞伎上演は途絶えたが、ここ最近町内の小学生による子ども歌舞伎が行われており、現役の舞台として今も使い続けられているという。
古い建物が、若い人たちによって使い続けられることはいいことだ。
上月城跡を訪れて暗い気持ちになっていたが、少し救われた気になった。