私は今までの史跡巡りで、播磨、備前、美作、摂津、但馬、因幡の6カ国に足を踏み入れたが、今度で七つ目の国となる丹波を訪れたことになる。
丹波国は、現在の行政区分で言えば、東側は京都府、西側は兵庫県に属する。紀伊国の一部が三重県になっている例があるが、かつての行政単位である国の中で、丁度真ん中辺りで2つの府県に分かれているのは、全国的に丹波国しかない。
兵庫県丹波市は、平成16年に氷上郡氷上町、柏原町、春日町、山南町、市島町、青垣町の6つの自治体が合併して出来た市である。
今回は、旧山南町の史跡を訪れた。
常勝寺は、背後に聳える観音山の山麓にある寺院である。
大化年間(645~650年)に、法道仙人が開いた寺だと言われている。法道仙人は、インドから渡って来て、白鳳時代に東播磨の数多くの寺院を開いた僧侶だが、実は丹波にも法道仙人を開基とする寺は多い。
しかも、寺が開かれた年代は、各寺の伝承によれば、東播磨よりも丹波の寺々の方が古いのである。法道仙人は、まず丹波から寺院整備の事業を始めたと思われる。
恐らくだが、法道仙人は、大化の改新後に孝徳天皇から仏教寺院整備を依頼され、大和から北西に旅立ち、丹波から東播磨にかけて次々と寺院を開いていったのだろう。
寺の手前にかかる石橋から真っ直ぐ伸びる石段が、仁王門の下を通り、奥の本堂まで続いている。その左右に堂宇が存在している。
仁王門には二体の仁王像が安置されているが、一体の首の周りにスズメバチが巣を作っていて、周囲を蜂が飛び交っていた。おそれをなしてすぐ離れた。
仁王門を潜ると、石段が更に続いて行く。
石段を上って行くと、右手に縁側が空中に迫り出した楼閣が見えてくる。慈眼閣である。
あの縁側に上れば、かなり眺めが良さそうだ。
慈眼閣は、庫裏の隣にある建物だが、私が訪れると、丁度庫裏の前をお寺のご婦人と思われる方が掃除しておられた。ご婦人は非常に元気で溌剌としたお方だった。
丹波の社寺は、11月になるとどこも境内の木々が紅葉して、一挙に観光シーズンを迎える。
私が訪れたのは、11月の末であり、紅葉はあらかた落ちてしまっていた。ご婦人は、「残念ですが紅葉が終ってしまいましてねえ。よければ慈眼閣を見学なさって下さい。あと、このお寺は中井権次の彫刻が見事ですよ。本堂の彫刻も立派ですが、あそこにも中井権次の彫刻がありますよ」とおっしゃって、庫裏の蟇股の龍の彫刻を指し示した。
中井権次(ごんじ)は、徳川家康お召し抱えの京大工師・中井正清の血統を受け継ぐ彫物師の一統である。
元和のころ(1615~1619年)に、柏原藩織田家二代藩主織田信則が、今の丹波市柏原町にある柏原八幡神社の三重塔を再建するに際し、中井家の兄弟を京都から呼び寄せた。彼らは三重塔再建後、そのまま柏原に住み着き、その後子孫代々が、江戸時代中期から昭和にかけて、丹波、播磨、但馬、丹後の神社仏閣に龍や霊獣の彫り物作品を残していった。
六代目正貞から権次を名乗り、今では柏原中井一統は中井権次一統と呼ばれている。現代も十一代目中井光夫氏が彫刻店を開いておられるそうだ。
当ブログ令和元年10月5日の記事で紹介した、笠形神社の見事な彫刻群が、中井権次一統のものである。
ご婦人から、中井権次一統の彫り物作品を紹介したパンフレットを受け取った。丹波、播磨、但馬、丹後の100の寺社に彫られた作品が紹介してあった。近畿地方北部に、このように一つの一族が造り続けた彫刻群が存在するのである。
さて、私は御厚意に甘えて四方を開け放した慈眼閣に上らせてもらった。予想通り、縁側からの眺めはよかった。
紅葉のシーズンや、桜が咲く季節にここを訪れたら、さぞかし美しい景色を堪能できたことだろう。
慈眼閣奥の伝教大師最澄の肖像をかけた床の脇の欄間にも、竹と鳥の彫刻があった。新しいものと思われるが、ご婦人によれば、この作品も中井権次一統のものであるという。
微細に彫られた名作だ。
庫裏の上には、名前は分からぬが、小さなお堂があった。
このお堂の蟇股の龍の彫刻も、中井権次一統のものであろう。彫が深く、なかなか迫力のあるものだった。
更に石段を登っていく。石段の左右を高い鉾杉が挟み、縹緲たる雰囲気である。
石段を登っていくと、本堂の手前に、ユニークな石仏が沢山置いてあった。
常勝寺は今は天台宗の寺院だが、弘法大師空海の石仏も境内にある。これらの石仏の由来は分らぬが、かつて真言宗寺院定番のミニ四国八十八所の巡礼道がこの寺院の周辺にあって、その道端に置かれていた石仏群ではないか。
この石段奥には常勝寺の本堂等があるが、そこに彫られた中井権次一統の見事な彫刻は、また次回紹介したい。