姫路市飾磨区亀山にある亀山本徳寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。元々英賀城内にあった一向宗の寺院、英賀御堂の後身である。
英賀の地は、15世紀の蓮如の時代に、一向宗の信仰が広がり、城主の三木氏も門徒となった。土塁に囲まれた英賀城は、城というより一向宗門徒が自治する都市であった。その中にあった寺院が英賀御堂である。
信長は、大坂の石山本願寺を中心とする一向宗門徒との間で、10年に渡る全面戦争を行った。播磨の一向宗の拠点英賀城も、信長軍の攻撃するところとなった。天正八年(1580年)の秀吉の英賀城攻略により、英賀の一向宗門徒は信長に降伏した。
秀吉は、英賀御堂を解体し、寺を亀山の地に移した。それが現在の亀山本徳寺である。
徳川の治世になり、本願寺が東西に分裂した時、東本願寺派は、姫路市船場に船場本徳寺を建てた。亀山本徳寺は、西本願寺派である。
ここは広壮な寺である。まず、大門から境内に入る。
大門から這入ると、まず右手に太鼓楼がある。この太鼓楼は、17世紀中葉の建築と言われている。
太鼓楼は、元々、外敵を素早く発見し、味方に知らせるための太鼓を備えた見張り台である。英賀城にもこれに似た太鼓楼が備え付けられ、近づく敵を見張っていたことだろう。
太鼓楼は、平成に入って修復され、今の鮮やかな姿になった。
境内の南端には、経堂がある。様々なお経を収めた建物だったのだろう。
亀山本徳寺の本堂は、兵庫県下最大の寺院建築物である。その巨大な伽藍には息を呑む。
亀山本徳寺本堂は、18世紀中葉の建築である。元々は、京都の西本願寺の北集会所の建物だったのを、明治6年(1873年)にこの地に移築したものらしい。
この建物は、西本願寺北集会所時代には、新撰組が屯所として使っていた。実は新撰組ゆかりの建物だ。
廊下も広々として涼しい。本堂の周囲を巡る廊下を進むと、新撰組隊士がつけたとされる、刀傷のある柱がある。
本堂の室内は、広い座敷である。奥に内陣がある。
内陣の前面の彫刻は、極彩色である。
内陣奥には、ご本尊の阿弥陀如来像が祀られている。
秀吉は、一向宗門徒の自治都市だった英賀城を解体し、中心勢力だった英賀御堂を亀山に移した。黒田官兵衛から姫路城を得た秀吉は、城下町姫路を作り、一向宗門徒も城下町の機能の一部に組み入れた。そう思えば、秀吉は、今の姫路の元を作った人なのかも知れない。