文英の石仏群 後編 大崎廃寺跡

 岡山市北区三手の集落にある臨済宗の寺院、真福寺にも、四体の文英の石仏がある。

真福寺

本堂

 真福寺の山門を潜ると、正面に本堂がある。山門から入って左に行くと、無縁仏の墓石が多数ある。

 この墓石群の左側に、文英の石仏がある。

無縁仏の墓石

四体の文英の石仏

 これらの石仏は、今まで見た文英の石仏と比べ、小さな石仏である。

 近寄ってみると、どれも個性豊かな表情をしている。

文英の石仏

 覚えずこちらも微笑みたくなるような表情だ。

 三手の集落から北上して、低山の間にある大崎の集落に行く。

 大崎の集落の田の中に、浮島のように残された大崎廃寺跡がある。

大崎廃寺跡

 大崎廃寺跡からは、白鳳時代の寺院の瓦と基壇の一部が発掘されている。どうやら南向きの伽藍配置だったようだ。

 この辺りは、奈良時代の楢見里に比定されているため、楢見廃寺とも呼ばれている。

大崎廃寺跡

 この大崎廃寺跡には、一体の大きな文英石仏がある。

文英の石仏

説明板

文英の石仏

 肉眼では判別できないが、この文英石仏には、右側に「念仏講 文英筆」、左側に「天文四年乙未五月日」と刻んであるらしい。

 大きな延命地蔵仏である。お顔が後光と同じようにまん丸である。

 大崎廃寺跡の基壇跡と思われる台形の土地が、南北に2つ並んでいるが、その上に、小さな祠が祀られている。

基壇跡と祠

基壇跡

 この辺りは、秀吉の備中高松城水攻めに際して、水没した地域である。

 ひょっとしたら、文英もこの戦乱で亡くなったのかも知れない。

大崎廃寺跡にあった宝篋印塔の残欠

 文英は、戦火に遭っても水没しても後世に残る石仏を刻んだ。

 大崎廃寺跡の上を風が渡っている。石仏が刻まれた頃と同じような風だろう。

 この風を受けていると、文英の願いも、石仏群と一緒にまだ生きていると感じる。