英賀神社

 JR姫路駅の西隣の駅は、JR英賀保(あがほ)駅である。英賀保駅の南側は、英賀と呼ばれる地域である。

 「播磨国風土記」によれば、播磨国ヤマト王権支配下に入る前の同国の支配者は、伊和大神という神様であった。伊和大神の御子である英賀彦、英賀姫は、伊和大神の命により、現在の英賀地区を本拠とし、播磨灘沿岸地域の開拓を行った。伊和大神は、出雲大社の祭神・大国主命と同一神とも言われるが、よく分かっていない。英賀の地名の由来は、英賀彦、英賀姫の名前から来ている。

 英賀神社は、英賀彦神、英賀姫神を祭神とする神社である。

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英賀神社鳥居と神門

 英賀の地域が発展するきっかけとなったのは、赤松氏が室町時代初期に英賀城を建ててからである。赤松氏の跡を継いで英賀城主となった三木通近は、嘉吉三年(1443年)に、英賀神社に天満天神、八幡大神春日大神を勧請し、合祀した。その後、英賀神社は、歴代英賀城主三木氏の崇敬が厚かった。

 三木氏は、英賀城を整備拡張した。英賀城は、一時御着城、三木城と共に、播磨三大城と称された。英賀神社は、今はなき英賀城の最北端に位置し、神社境内には、英賀城の土塁跡が残る。

 私が訪問した時は、拝殿が新築中であった。一度拝殿が完成してしまえば、あと数百年はこんな光景も見られない訳だから、幸運だったのかも知れない。

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新築中の拝殿。

 英賀神社には、国指定重要文化財である、正中二年(1325年)銘の梵鐘がある。公開はされていない。

 本殿の横には、司馬遼太郎歴史小説播磨灘物語」の文学碑が建っている。「播磨灘物語」は、黒田官兵衛を主役にした小説である。数年前のNHK大河ドラマ軍師官兵衛」の原作になった。

 天正五年(1577年)、英賀の地で、毛利方の三木氏を応援する毛利軍と、織田方の小寺孝高(黒田官兵衛)の間で合戦が行われた。英賀合戦である。黒田官兵衛は、奇襲攻撃を行い、自軍の10倍の兵力を持つ毛利軍を撃退した。これが、英賀城滅亡の呼び水になった。

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司馬遼太郎播磨灘物語」文学碑

 英賀城は、天正八年(1580年)に信長麾下の羽柴秀吉軍により攻略される。この時に、英賀神社も英賀城と共に焼亡する。しかし、地元の人の崇敬厚く、すぐに復興される。

 この時、英賀城主三木通秋の弟が林田に逃亡して、林田の大庄屋になったのは、「林田」の記事で書いたとおりである。

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英賀神社本殿

 城が滅んでも、昔から崇敬されている神社は残るものである。英賀神社も、時代時代の支配者に関わらず、地元の崇敬を集め続けている。

 境内北側には、英賀城の土塁跡がある。

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英賀城土塁跡

 神社の境内を抜けて、北に行くと、矢倉公園がある。公園には、英賀城の石塁が復元されている。矢倉公園は、かつての英賀城の土塁の外にある。この場所に城があったわけではない。

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英賀城石塁の復元

 英賀保駅から東に行くと、付城という地名がある。三木通秋が、秀吉軍に対抗するため、英賀城の東に付城(出城のようなものか)を作ったという説と、秀吉が英賀城攻略のために付城を作ったという説と、2つの説がある。

 JR英賀保駅の東側にある、付城交差点から東南に行くと、付城の関門西堀之跡がある。

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関門西堀之跡のある地蔵尊

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 関門西堀之跡の背後の巨岩が気になる。当時の石垣の名残だろうか。

 英賀の地域は、本願寺教団が一向宗の信仰を広めた地域である。英賀城主の三木氏も一向宗門徒であり、毛利氏と同盟関係にあった石山本願寺顕如が、信長追討の檄を飛ばした時、呼応して織田軍と戦い、滅ぼされた。

 当時の英賀城内は、一向宗門徒による一大宗教都市の様相を呈していた。今となっては、JR英賀保駅周辺は、主に神戸大阪方面に新快速で通勤する人たちのベッドタウンとなっている。

 英賀地区で、当時の血みどろの時代から現代まで残ってる施設は、英賀神社くらいなものだろう。

 やはり、地元の神社は大事にすべきである。