天神山城南の段から太鼓丸方向に歩く。南の段のすぐ下に、「堀切り」と呼ばれる空堀の跡がある。山城には空堀を掘って防御設備とした。
参考までに、前期天神山城である太鼓丸城の鳥瞰図を掲げる。
堀切りを過ぎると、すぐに亀の甲と呼ばれる石積みのある場所に至る。
これは、下から斜面をよじ登って攻めてきた敵に落とすための石を積んだ場所である。
さらに進むと石門跡がある。太鼓丸城郭に至るまで、石門が2つある。
石門を過ぎ、狼煙台があった場所に至った。
鳥瞰図に狼煙台と書いてある場所に、天神山城の鳥瞰図と太鼓丸城の説明板が立っていたので、ついついここが太鼓丸城の本丸跡だと思ってしまった。後で、実はこの奥に本丸跡があったことを知った。
太鼓丸城は、室町時代以前に日笠氏が築城したそうだ。浦上宗景も、当初はここを本拠としたが、天文二年(1533年)に天津社のあった場所に天神山城の本丸を築くと、太鼓丸城跡は、見張りのための物見櫓としての役割と、家臣団に集合をかけるための太鼓櫓としての役割を担った。
私は、狼煙台から元来た道へ引き返した。天神山城本丸跡のあたりから、武家屋敷跡に下りる道が分岐している。
ここから九十九折りの道を下りていく。武家屋敷跡には、当然建物は残っていなくて、所々に石垣が残っているのみである。
武家屋敷跡は、天神山の南麓にある。石垣を巡らした武家屋敷群も、城の防御機構の一部であったろう。
長い登山が終わった。天神山城跡は、岡山県指定文化財(県史跡)となっている。
さて、麓に下りて、和気町岩戸にある「佐伯町ふるさと会館」を訪れる。
佐伯町ふるさと会館は、旧和気郡山田村役場庁舎である。昭和7年築の鉄筋コンクリート製の建物で、和気町に残る初期洋風建築としては、貴重なものである。国登録有形文化財である。
中には地元の歴史を伝える展示品があるのだろうが、事前連絡しないと開館しないようだ。写真を撮っただけで立ち去った。
それにしても、昭和初期の学校や役場の建物は、なぜこうも味があるのだろう。平成や令和の建物で、後世に文化財として残るものがあるのかと考えてしまう。
佐伯町ふるさと会館から東に行くと、山の麓に浦上与次郎の墓がある。
浦上与次郎宗辰は、浦上宗景の子である。天文十八年(1549年)に生まれ、宇喜多直家の娘を嫁にもらった。
与次郎は、天正五年(1577年)5月、宇喜多直家の居城に招待されたが、直家から毒酒を用いられ、体調を崩す。天神山城に帰城後、死去した。29歳であった。
天正五年には、既に宇喜多直家は浦上家から離反し、浦上宇喜多両者は合戦の最中であった。直家に呼ばれた与次郎は、いかに敵対しているとは言え、娘婿の自分に毒酒が用いられるとは思わなかっただろう。
宇喜多直家は、ライバル関係にある武将には、娘を嫁がせるなどして縁戚関係を築き、油断させたところで暗殺したり毒殺したりして勢力を拡大した。このため、直家を斎藤道三、松永久秀に並ぶ戦国時代三大梟雄の一人とする者もいる。
その直家も、最後は織田に服従し、秀吉の天下になってからは、息子の秀家が五大老の一人となる。
戦国時代は、裏切りと謀略の時代であった。直家は、一説によると、自らの謀略で殺害した相手を手厚く葬ったという。ひょっとして、この墓は与次郎を謀殺した宇喜多直家自身が建てたのではないかと想像してみた。
浦上宗景が直家によって天神山城から追放される前にこの墓が建てられたのか、その後に建てられたかは分からない。
しかし、天神山城周辺の支配者となった直家が、少なくともこの浦上与次郎の墓には手をつけずに残したとだけは言えそうだ。