児島下の町の史跡

 由加山の参拝を終えて、港町児島の市街に入った。

 今回は、現在児島下の町と呼ばれる地区の史跡を紹介する。

 先ず最初に紹介するのは、岡山県倉敷市児島下の町7丁目にある鴻八幡宮である。

八幡宮

 鴻八幡宮は、由加山系の西端の宮山という丘の上に鎮座する。

 鳥居から宮山の坂を上り、随身門に至る。随身門は、昭和56年に再建されたものである。

 随身門には風鈴がかかっていた。酷暑の中で、海からの風を受けて涼しげな音を響かせている。

随身

 鴻八幡宮の創建は、大宝元年(701年)とされている。祭神は誉田別尊である。宇佐八幡宮から祭神を勧請したという。児島上の町、下の町、田ノ口、琴浦の総氏神である。

 その昔この宮に大蛇が棲んでいて、参拝客を恐れさせていた。氏子の祈りに応えて、宮山に巣を作って住んでいたコウノトリが大蛇と闘い、突き殺した。

 それからこの宮は鴻の宮と呼ばれるようになったらしい。

拝殿

 拝殿は昭和51年に再建されたものである。銅板葺の屋根と、朱色に塗られた柱と梁を有する。

向拝の彫刻

手挟みの彫刻

 本殿は、安永年間(1772~1781年)に改築されたものである。

本殿

本殿蟇股の彫刻

 鴻八幡宮では、毎年10月第2週の土日に秋季例大祭が行われる。

 この祭りでは、氏子の各町から出された「だんじり」が、お宮に向かって曳かれていく。この「だんじり」の壮麗さは、比類がないものだという。

 この時に奏でられる祭り囃子は「しゃぎり」と呼ばれている。「しゃぎり」の由来は分かっていないが、江戸時代から伝わる七曲を氏子たちが太鼓を叩くなどして演奏する。岡山県無形民俗文化財に指定されている。

 鴻八幡宮からは、児島の町の向こうに広がる瀬戸内海を一望出来る。

八幡宮からの眺望

 四国も見える。下津井から四国まで連なる瀬戸大橋も見える。

 当ブログが、あの橋を渡って四国に上陸するようになるのは、少なくとも今から2年以上後のことになるだろう。

 さて、次に児島下の町2丁目の村山家住宅主屋を訪ねた。

村山家住宅主屋

 訪ねた、と言っても非公開なので、外観を眺めただけである。

 この建物は、明治24年に、地元で塩業・紡績業で財を成した高田家の邸宅として建築された。

村山家住宅主屋

 昭和10年から昭和61年までは、村山外科医院の建物として使用され、その後は村山家の居宅として利用されている。

 屋根は寄棟造り、桟瓦葺きで、2階の吹き抜けバルコニーに6本の円柱を配置したコロニアル様式である。

 白漆喰の壁が、港町の陽光に映えて美しい。村山家住宅主屋は、国登録有形文化財である。

 ここから北上し、倉敷市琴浦西小学校から少し北にある石造総願寺跡宝塔を見学した。

王子権現社

 この宝塔は、王子権現社という小祠の境内に残っている。総願寺は、王子権現社の別当寺で、寛文八年(1668年)に廃寺となったそうだ。

石造総願寺跡宝塔

 石造総願寺跡宝塔は、建仁三年(1203年)の銘があり、在年銘のある宝塔としては、全国で2番目に古いものである。

 花崗岩製で高さは約2.8メートル、伏鉢より上部の宝珠まで一石で形成され、その下の塔身には、四面に仏像が薄肉彫りされている。

石造総願寺跡宝塔

 南面には多宝如来と釈迦如来の二仏、東面に阿弥陀如来、西面に弥勒菩薩、北面に不動明王が彫られている。

多宝如来と釈迦如来

西面の弥勒菩薩

東面の阿弥陀如来

北面の不動明王

 それにしても、古い石仏を見ると、不思議と心に充足感を覚える。鎌倉時代初期に遡るような古い石仏は珍しいものである。

 この宝塔を築いた人の気持ちが、現代人の心を動かしている。史跡巡りをすると、古えの人と対話をしているような気分になる。大いなる時間の中で自分が生きていることを実感できる。

 それが、私が史跡巡りを続ける上での原動力になっている。

由加山蓮台寺 由加神社本宮 その7

 権現堂の参拝を終え、客殿の前を通過し、蓮台寺総本殿に向かった。

 その途中、インド製の自動車、アンバサダーが展示してあった。

アンバサダー

 この車は、岡山県新見市出身の真言僧で、現在もインドで布教活動中の佐々井秀嶺氏から、由加山に贈られたものである。

 インドでは、仏教はヒンドゥー教に押されて徐々に衰退し、イスラム教の侵入により一旦滅亡した。

 インドでは、長年ヒンドゥー教カースト制度の下、不可触民と呼ばれる人々が差別を受けてきた。  

 戦後のインド独立と共に、不可触民階級出身者で、インド憲法の起草者の一人であるアンベードカル博士が、全ての人を平等に扱う仏教の復興運動に乗り出した。

 博士の尽力により、ヒンドゥー教の文化の中で差別されてきた不可触民を中心に、仏教に改宗する者が増えた。アンベードカル博士は、不可触民の父と呼ばれるようになった。

 佐々井秀嶺氏は、真言宗高尾山薬王院で出家得度した後、留学僧として単身インドに渡り、ラージギルの日本山妙法寺で八木天摂に師事した。アンベードカル博士の死後10年経った昭和41年のことである。

 渡印した佐々井氏の夢に、大乗仏教創始者龍樹菩薩(ナーガールジュナ)が現れた。龍樹菩薩は佐々井氏に、「我は龍樹なり。汝すみやかに南天竜宮へ行け」と告げた。

 佐々井氏は、啓示されたとおり、インド中央部のナーグプール(龍の都)に向かった。ナーグプールは、アンベードカル博士が仏教復興運動の拠点とした場所だった。

 佐々井氏は、その地でアンベードカル博士の遺志を継いで、インドでの仏教の布教に励むようになった。氏は現在もインドの仏教徒と共に仏教復興運動に心血を注ぎ、カースト制度の廃絶を目指している。

 佐々井氏は資金難と闘いながら、ナーグプール近郊のマンセル仏教遺跡の発掘に取り組んでいる。そこは、龍樹菩薩の根本道場跡と目されている。

 ところで龍樹菩薩は、真言八祖の第一祖・龍猛菩薩と同一人物とされている。

 真言密教の伝説では、法身大日如来の教えを受けた金剛薩埵が、「大日経」「金剛頂経」という密教の根本経典を著して南天鉄塔に収め、そこで龍猛菩薩に両経典を授けたという。

 佐々井氏は、マンセル仏教遺跡こそ、龍猛菩薩が真言密教の経典を授かった南天鉄塔のあった場所だと確信し、発掘を続けている。

 真言密教は、第八祖弘法大師空海が唐から日本に伝えたが、その日本の真言僧が、密教の発祥地インドに渡って、仏教復興に取り組み、この21世紀に伝説の南天鉄塔を発掘しようとしている。

 何とも壮大なドラマではないか。私も佐々井氏を応援したい。

 さて、平成10年に瑜伽大権現、本尊十一面観音菩薩弘法大師の瑜伽三尊を祀るために建設されたのが、総本殿である。

総本殿

 それまでは、瑜伽大権現は権現堂、十一面観音菩薩観音堂弘法大師は御影堂に祀られていたが、これらの古い建物を文化財として保護するために、瑜伽三尊を新本殿に遷して祀ることにしたそうだ。

 この瑜伽三尊は、総本殿の2階に祀られている。2階には非常に広い座敷があり、その奥に瑜伽大権現が祀られていたが、2階は写真撮影禁止だった。

 1階中央には、瑜伽大権現のお前立として、木造の不動明王像としては日本一の大きさを誇る由加山厄除大不動が祀られている。

由加山厄除大不動

 像高約8メートルの巨大な不動明王坐像である。この大不動は、瑜伽大権現の御使隷として、大権現の威光と救いの力を広めるために姿を現したのだという。

 大不動の向かって左側には、愛染明王が祀られている。

愛染明王

 愛染明王は、人間の煩悩の中でも最も強い愛欲の情の凄まじいパワーを、悟りを求める菩提心に高め、救いを齎す明王とされている。

 世のあらゆるものを大日如来の現れとみなす真言密教では、愛欲をも唾棄せず、菩提の因とする。

 人間の基本的な生存欲を一度受け入れる真言密教は、実は極めて現実的な教えなのである。

 大不動に向かって右には、「おすがり堂」という釈迦如来坐像を祀る部屋がある。

おすがり堂

釈迦如来

 この仏像の由来はこうである。

 臨済宗国泰寺管長の勝平大喜老師が、大正時代にビルマに渡り、ビルマ王室に伝わっていた2体の釈迦如来像を持ち帰った。

 その内1体は松江市大庄米原伊之助が譲り受けた。仏像は昭和6年の松江大火に遭遇したが、不思議と焼失を免れた。伊之助の子孫の巌が、災難除けの御利益を多くの人に分け与えられるよう、釈迦如来像を由加山に奉納した。それがこの釈迦如来像である。

 もう1体の釈迦如来像は、兵庫県たつの市の醬油屋に祀られているという。

 おすがり堂の右手には、厄除三十三観音が祀られている。

厄除三十三観音

 ところで、平成10年に建った総本殿は、恐らく鉄筋製であり、由加山蓮台寺の本殿に相応しい木造建築物ではない。

 総本殿の更に奥に、木造の巨大な本堂が建築中であった。

建築中の新本堂

 この本堂が落成した暁には、総本殿に祀られている瑜伽三尊はこちらに遷されることだろう。

 由加山は、行基菩薩による開山から長い歴史を経て現在に至っているが、これからも新しい歴史を堂々と刻んで行きそうである。

由加山蓮台寺 由加神社本宮 その6

 客殿の先には、八十八段の石段があり、その上に蓮台寺奥の院権現堂がある。

奥の院権現堂の参道

 石段の手前には、鐘楼堂があり、巨大な梵鐘がかかっている。

鐘楼堂

鐘楼堂の龍の彫刻

梵鐘

 新型コロナウイルス感染防止のため、鐘楼堂内への立ち入りは出来なかった。

 さて、鐘楼堂を過ぎると、明治時代になって築かれた八十八段の石段がある。

八十八段の石段

 石段の上の権現堂には、瑜伽大権現不動明王が祀られている。

 この石段を踏みしめながら登り始めた時、突然世界の底が抜けるような感覚に襲われた。何というか、石段を踏む自分の足元がそのまま宇宙の果てに繋がっているような感覚。自分の周囲の世界が、コンピューターが作り出した実体のない幻影のように思えて、その底にある真の実在が一瞬見えたような感覚。禅の見性体験のようなものだろうか。

 だがこんな感覚は一瞬で、すぐに消えてしまった。ただの思い過ごしだったのかも知れない。思わず権現堂を見上げる。

権現堂

 私が感じた感覚は、仏教でいう悟りとは違うだろう。仏教では、悟りを開いて自己の存在への執着がなくなれば、自分や世界の根底にある智慧が表面に現れてくるという。「般若波羅蜜多心経」の波羅蜜多とは、仏の智慧のことを指す。世界を成立させている智慧である。そういうものは見えてこなかった。

 妄想だったにしても、不思議な感覚だった。私はこの奥の院権現堂に登る石段を、終生忘れることがないだろう。

 権現堂と客殿は、八十八回廊と呼ばれる屋根付き階段でつながっている。客殿からなら、回廊を伝って権現堂の中に入り参拝できる。

客殿から権現堂までの八十八回廊

客殿から登る屋根付き階段

 権現堂は、明治時代になって建てられた。神仏分離令で、瑜伽大権現を祀っていた蓮台寺本殿が由加神社本宮として独立してしまったので、蓮台寺として新たに瑜伽大権現を祀る建物として建てられた。

 瑜伽大権現は、現在蓮台寺総本殿にも祀られている。権現堂はその奥の院という位置づけである。

権現堂内部

お前立の不動明像立像

 瑜伽大権現を祀る本殿の前に、お前立の不動明王が祀られている。不動明王立像の両脇には、小さいが蔵王権現の像が祀られている。

 不動明王の隣には、蓮台寺中興の増吽僧正の座像が祀られている。

増吽僧正

 増吽僧正は、室町時代に讃岐に生まれ、幼い時から神童の誉高く、「弘法大師の再来」とまで言われた真言僧である。

 高野山で修行して、更に全国の諸山を経めぐって真言の奥義を究めた。後小松天皇に重用され、宮中でも加持祈祷を行ったが、後半生は地位を捨てて各地の寺院の復興に尽力したという。

 由加山蓮台寺も増吽僧正によって復興された寺院の一つだ。

 真言宗は、秘密仏教である故に、出家して僧侶になり、阿闍梨の指導を受けながら修行しなければ、教えの奥義に入ることが出来ない。

 私は出家してまで教えの深みに入ろうとは思わないが、どこかに教えに対する憧れがある。

 四国八十八ヶ所霊場もそうだが、各地の寺院は、在家信徒のためには心の支えになるものである。

由加山蓮台寺 由加神社本宮 その5

 蓮台寺客殿の拝観客用入り口から建物内に入る。黒光りのする床板が敷かれた広々とした空間が広がる。

拝観客用入り口

 入り口から奥に進むと薬師如来座像が出迎えてくれる。

薬師如来坐像

 客殿内には、見事な障壁画で飾られた座敷が複数ある。中には、江戸時代を代表する画家・円山応挙の障壁画で囲まれた座敷があった。

 だが応挙の障壁画の間は、照明もなく、暗すぎて写真には写せなかった。

 薬師如来の前を過ぎると、不動明王立像を祀った部屋がある。その部屋の壁には、能面が数多く掲げられている。

能面の間

飾られた能面

不動明王立像

 不動明王を見ると、いつも力を与えられる気がする。最近、自宅の庭に不動明王の石像を祀ろうかと考えているくらいである。お不動様には、嘘もごまかしも通じない気がする。

 客殿には、由加山に参拝に来た岡山藩主や家臣たちが宿泊したが、藩主が宿泊した部屋が、「群仙の間」である。

群仙の間

群仙の図

 群仙の間は、柴田義董が描いた「群仙の図」という障壁画で飾られている。

 この部屋は、客殿の中でも最も簡素な部屋である。

 藩主は家臣たちに金箔の襖の入った部屋を与え、自身はこの部屋で休んだという。歴代岡山藩主の人柄が偲ばれる部屋だ。

 確かに落ち着く部屋だ。夏の盛りなのに、開け放されたこの部屋は、割合涼しい。こんな部屋で寝てみたいものだ。

 様々な座敷の周囲を板敷の廊下が巡っている。

客殿廊下

 廊下にも様々な展示物がある。弘安二年(1279年)に鋳造された梵鐘は、岡山県指定重要文化財である。

梵鐘

 この味のある古鐘は、大坂四天王寺三昧院領本庄の観音寺の鐘として鋳造されたが、文和四年(1355年)に備前国室山満願寺の鐘になり、天保年間(1830~1844年)に蓮台寺が入手したという。

 その古鐘の隣には、藩主が使用した湯殿のレプリカが展示されている。

湯殿

 この湯殿より、現代の一般民家の風呂の方が確実に快適である。現代の庶民の暮らしは、かつての藩主の暮らしを遥かにしのぐほど豪華で快適になった。

 なんだかんだ言って、人類は時代と共に着実に豊かになっている。

 次は、幅二間半(約5メートル)の大床がある大床の間である。

大床の間

 この大床の間は、藩主が宿泊した時に、家臣たちが茶の間として使用した部屋である。

 床の間に掛けられているのは、狩野派の絵師・法橋周得が描いた「八方睨みの獅子図」である。

八方睨みの獅子図

 どこから見てもこちらを睨んでいるように見えるという画法で描かれている。

 大床の間の障壁画は、狩野派の絵師、菅蘭林斎が描いた「垂綸の会」である。

周の文王

太公望

 周の文王が馬車から下りて、釣りに余念のない太公望を軍師として招聘する場面を描いたものである。

 岡山藩には、池田光政以来、賢臣を重用する伝統があるが、家臣がお茶の間に使う部屋の障壁画に文王と太公望の絵を選んだというのが、岡山藩らしい。

 家臣に、太公望のような賢臣になってもらいたいというメッセージも込められているのだろう。

 次の孔雀の間は、30畳の大広間で、藩主参拝時に家臣たちの集会所として利用された。

孔雀の間

 天井も高く二重の欄間が付いている。

 障壁画は、大床の間と同じく菅蘭林斎作の「松、桜、牡丹に孔雀図」である。

松、桜、牡丹に孔雀図

 孔雀は仏法守護の霊鳥とされている。孔雀だけでなく、松も桜も牡丹も細密に描かれた見事な襖絵である。

 孔雀の間の前の廊下に展示されている「祈りの綱」は、客殿建築当時に女性たちが由加山に奉納した黒髪で編まれた綱である。

祈りの綱

 この綱は、客殿建築のための資材の運搬や吊り上げに使われたそうだ。当時の地元女性たちにとって、如何に由加山が心の支えになっていたかが分かる。

 次の八仙の間は、池田家付きの医者や郡奉行が利用した部屋である。

八仙の間

仙境の八賢人図

 この部屋の障壁画の「仙境の八賢人図」も菅蘭林斎の作だ。

 また廊下の板戸に描かれていた鹿の絵が、本物の鹿のように細密に描かれていた。

板戸の鹿の絵

 今にも動き出しそうな絵だ。

 客殿で最も格式の高い部屋は、「御成の間」である。この部屋は撮影禁止であった。

 御成の間は、藩主が家臣を謁見する間だが、部屋はL字型になっていて、藩主の座る間の隣に、藩主の間よりも一段高い間がある。そこは、家臣達の間からは見えないようになっている。

 この間は、藩主よりも身分の高い皇族や貴族が臨場した時に座る間である。

御成の間の火頭窓

 この最高所の間の火頭窓に、狩野派の絵師・安井春調斎作の「梅に禽鳥図」が描かれている。

 日本では、人の高貴さは、花や鳥に象徴されている。

 客殿の上には、不動明王を祀る奥の院権現堂があるが、客殿から権現堂までの斜面に庭園が築かれている。

庭園

 客殿は、建築から200年以上経過しているが、由加山で最も見どころの多い建物である。

 岡山城御殿は明治維新後に破壊され、岡山城天守も戦災で焼け落ちた。現代に岡山藩の威風を伝える建物として残っているのは、由加山蓮台寺客殿くらいなものだろう。

 その当時の技術の粋を集めて築かれた建物は、長い間残るものである。

由加山蓮台寺 由加神社本宮 その4

 御影堂から南に歩き、石段を上がっていくと、蓮台寺多宝塔がある。

多宝塔への石段

多宝塔

 蓮台寺多宝塔は、私が史跡巡りで訪れた9番目の多宝塔である。

 この多宝塔は、天保十四年(1843年)に再建されたものである。この前に建っていた多宝塔は、寛文十年(1670年)に暴風雨で倒壊した。

 現在の多宝塔は、岡山県下最大の多宝塔であるらしい。岡山県指定重要文化財である。

多宝塔

多宝塔下層

多宝塔上層

多宝塔尾垂木

 宝形造りの屋根の上に載る相輪は、刻銘から、百済市郎右衛門が文政十一年(1828年)に由加山で鋳造したものだと分かっている。

相輪

 内部は非公開だが、下層内部の四天柱には金箔が貼られているらしい。

 多宝塔は、下層が方形で、上層が円形であり、その上に長い相輪が載るという優美な姿をしている。由加山の建物群の中では、最も美しい建物だ。

 多宝塔から由加山の山上まで続く道がある。途中道が二股に分かれるが、右の道を進むと妙見宮に至る。

この道を右に行く

 妙見宮には、北斗七星を神格化した妙見大菩薩を祀る。由加山全体の奥宮という位置づけである。

妙見宮への道

 由加山の参拝客は多いが、この妙見宮をわざわざ訪れる人は稀だろう。私が訪れた時も、周囲には誰もいなかった。

妙見宮の社殿

妙見宮本殿

 妙見宮は静かな空気に包まれていた。ただ蝉の声が響くのみである。

 妙見宮から再び賑やかな蓮台寺の境内に戻った。

 次に見学するのは、岡山県下最大級の木造建築物であり、岡山県指定重要文化財となっている蓮台寺客殿である。

蓮台寺客殿

客殿東側の門

 客殿は、享和元年(1801年)に再建された。

 桁行九間(18.8メートル)、梁間五間(10.9メートル)の重層入母屋造り、本瓦葺という大建築である。

 岡山藩主が由加山参拝時に宿泊した建物で、皇族などの身分の高い参拝者を出迎えるのにも使われた。

客殿

 蓮台寺権現殿(奥の院)に登る石段から見下ろすと、客殿から蓮台寺総本殿、現在建築中の新本殿まで続く甍の連なりを眺めることが出来る。なかなかの壮観である。

客殿からつらなる甍

 これだけの建物を維持する苦労は馬鹿にならないだろう。

 客殿の手前には、表門がある。表門を過ぎれば、客殿の玄関があるが、通常は閉じられている。身分の高い人物のために作られた玄関だろう。

表門

客殿玄関

 玄関の脇に、拝観客用の入り口がある。400円で客殿内部を見学できる。

拝観客用入り口

 客殿内部は、障壁画に飾られた多数の座敷がある荘厳な空間であった。古く暗い日本の木造建築の味わいはいいものである。

 次回は客殿内部を紹介する。

由加山蓮台寺 由加神社本宮 その3

 由加神社本宮の東側には、真言宗の宗祖・弘法大師空海を祀る御影堂がある。御影堂に祀られていた弘法大師像は、今は蓮台寺総本殿に祀られている。

御影堂

 由加山の伽藍は、元禄十三年(1700年)の大火で、今の由加神社本宮の本殿以外全て焼けてしまったので、この御影堂も大火後の再建であろう。

 この蓮台寺は、空海誕生以前の創建である。今まで史跡巡りで訪れた奈良時代以前に創建された寺院の大半は、真言宗の寺院である。

御影堂蟇股の彫刻

 これは何も私の家の宗派が真言宗だから、そんな寺院ばかりを選んで訪ねているというわけではない。

 山川出版社の「歴史散歩シリーズ」に載っている史跡全てを回るという方針で史跡巡りをしたところ、訪問する寺院の約5割が真言宗の寺院になったのである。

御影堂内部

 鎌倉仏教と呼ばれる浄土宗、浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗は、日本仏教の宗派の中では歴史が浅い。必然的にこれらの宗派の寺院は新しく、歴史が古い奈良時代南都六宗天台宗真言宗といった平安仏教の寺院の方が文化財が多く残っている。

 それにしても、奈良時代以前の創建にかかる歴史ある寺院では、天台宗の寺院より真言宗の寺院の方が多いのはなぜだろう。

 嵯峨天皇以降、歴代天皇真言宗に帰依したというのが大きな理由なのだろうか。弘法大師空海の人間離れした伝説が影響力を持ったのだろうか。どうなのだろう。

 御影堂の横には、たった一つの願いを叶える一願地蔵がある。

一願地蔵

 私はここでも史跡巡りの無事を祈った。

 御影堂から坂を上がると、女人厄除大師のお清大師の石像が祀られているお堂がある。

女人厄除大師 お清大師

 お清大師は、平教経の後裔平田常右衛門の娘で、江戸時代中期の備前に生きた女性である。

 常右衛門は、日頃から弘法大師を深く信仰しており、お清も幼いときから信心深く育った。

 お清は、19才の時に大病を患い、お大師様に、病気平癒した暁には四国霊場を21回巡拝しますと祈願した。
 お大師様の加護によってか、全快したお清は、22才から29才までの間に、四国霊場を23回巡拝した。

 21回目の巡拝の際、23番目の札所、日和佐の薬王寺で、旅の出家僧から一本の杖と七足のわらじを授かった。その出家僧は、それらを授けた後、かき消すように姿が見えなくなった。驚いたお清はこれらはお大師様からつかわされたものと信じ、より信仰を深めたという。

 若い身で苦しい修行を重ねたお清は、いつしか生大師として仰がれるようになり、近郷近在からの参拝者が増えはじめた。
 ある夜、弘法大師がお清の夢枕に立ち、「これからは、汝に授けた杖によって諸人を助け得べし」というお告げがあった。それ以来お清はこの杖を、大師の身代りとして信仰を重ねた。

 お清は、岡山藩主池田家や藩士からも迎えられて、加持祈祷に出かけるほどになったという。お清は、死後もお清大師と呼ばれて信仰された。
 明治時代の末年に、淡路島に生まれた私の祖母も、若いころ四国霊場を巡拝したという。弘法大師への信仰は、民衆の中に生きている。

 真言宗は、宇宙全体を包摂する深淵な教理を持つ一方、このような地方の民間信仰にも溶け込んでいる。

 それが、先ほど疑問に感じた真言宗の寺院の多さにつながっている理由なのかも知れない。

 さて、お清大師の前には、観音堂がある。

観音堂

八角形の霊堂

観音堂

 観音堂には、蓮台寺本尊の十一面観音菩薩像が祀られていた。本尊も、今は蓮台寺総本殿に祀られている。蓮台寺は建物保存のためと説明している。

 今は蓮台寺総本殿に、瑜伽大権現、十一面観音菩薩弘法大師がまとめて祀られている。

 由加神社本宮が独立するまでは、瑜伽大権現は由加神社本殿に、本尊十一面観音菩薩観音堂に、弘法大師は御影堂に祀られていた。

 この方が、由加山の伝統に則っていて、安定した祀り方と感じる。

観音堂明治12年に奉納された漆喰の孔雀図

観音堂向拝

蟇股の彫刻

木鼻の彫刻

 現代の教育を受けた者は、信仰というと胡散臭いもののように感じて蓋をしてしまう。

 しかし信仰なき世界で、人間が何を頼りに生きていくのか、19世紀以来その答えは未だ見つかっていない。

 信仰なき世界で、人間が守るべきものは最終的には「公共の福祉」になる。他人に迷惑をかけてはいけないという教えが、信仰の代わりになる。

 それでも人間は、他人に気を遣うことよりも偉大なものを人生に求めるものである。宗教がこの世からなくならないのも、そのためであると思われる。

由加山蓮台寺 由加神社本宮 その2

 由加神社本宮の拝殿の下には、縁結びの神様を祀っている。拝殿下に回廊があり、そこを巡れば、誰かと縁を結ぶことが出来るそうだ。

 私は縁結びではなく、史跡巡りの無事を祈った。

拝殿下の回廊

縁結び獅子

 回廊には、男性用と女性用の縁結び獅子が2体設置されている。

 男性用縁結び獅子の横には、瑜伽大権現の神使の白狐75体の像がある。

白狐の像

 由加神社本宮社殿に向かって左には、稲荷大明神が祀られているが、お稲荷さんだけでなく、瑜伽大権現の神使も白狐らしい。

 回廊の中央には、縁結びの神様が祀られている。どうやら祀られているのは、素戔嗚尊のようだ。

縁結びの神様

 拝殿の向かって左側には、思わず息を吞むほどに壮大な巨石群があり、その前に菅原道真公の石像がある。

巨石群と由加天満宮

 延喜元年(901年)、九州大宰府に左遷となった菅原道真公は、児島唐琴の浦に数日間滞在したそうだ。

 道真公はここで、

船とめて 波にただよう 琴の浦 通うは山の 松風の音

風により 波の緒かけて 夜もすがら しおや引くらむ 唐琴の浦

という二首の歌を詠んだ。道真公一行は、ここで潮待をしたようだ。

 道真公が宿泊した家には、美しい姫がいた。姫は別れを惜しんだが、道真公はいつかこの地に帰ることを誓って出帆した。

 道真公の死後、この地に光明が差し、瑞雲が現れた。地元の人は、道真公の魂魄が戻ってきたと信じ、天神様をここに祀ったという。

 菅原道真公の石像の上には巨石があり、その右側に赤い社殿の稲荷大明神がある。

巨石と稲荷大明神

 この巨石群は、太古からここにあって、人々から崇められてきたことだろう。太古の人々は、巨大な石に神々しさを感じ、畏れ敬った。これが原初の日本人の信仰の姿だ。

 修験道の山には、必ず巨石がある。修験道は、太古の巨石信仰の系譜を引いている。

 巨石のある場所は、その後神社になったり寺院になったりした例が多い。由加山もそうである。

 行基菩薩は、阿弥陀如来薬師如来瑜伽大権現として祀ったというが、太古からここにあるこの巨石こそが、行基菩薩がこの地を訪れる前から崇められていたものだろう。ひょっとしたら、瑜伽大権現の由来もこの巨石にあるのではないか。

 いわば、由加山の核心がこの巨石にあると言ってもいいと思う。

 さて、巨石の脇には、岡山県指定文化財の由加神社本宮本殿がある。

本殿

 この本殿は、延宝二年(1674年)に岡山藩により建てられたものである。元々は鮮やかな朱色に彩色されていたのだろう。今は色が大分はげている。桃山時代の様式を残している。

 由加神社本宮の本殿は高所にあるが、蓮台寺観音堂の建つ場所からなら、同一の高さから眺めることが出来る。

本殿

 この本殿は、入母屋造りを2つ連結した比翼入母屋造りという非常に珍しい形をしている。

 同じ岡山県内に、国宝の比翼入母屋造り本殿を持つ吉備津神社があるが、岡山藩吉備津神社本殿を手本として、由加神社本宮の本殿を建てたことだろう。

 上の写真の本殿の手前にある赤い社は、三宝荒神である。

 本殿を下から見上げると、本殿の背後にも巨石があるのが見える。

 仏教到来以前の神社には、建物はなく、ただ巨石や山や瀧や樹木を御神体として祀っていた。仏教と同時に仏教建築が到来したので、神道も仏教への対抗上、社殿を建て始めた。

 そう思うと、由加神社本宮付近の巨石群は、蓮台寺や由加神社の建物が出来る前から祀られてきた、聖物だろう。やはりこれが由加山の核心だ。

 太古の日本人の信仰心を思い浮かべると、蓮台寺や由加神社の立派な建物群も、あらずもがなの飾りのように思えてくる。