神戸らんぷミュージアム 中編

 昔使われた照明具として思い浮かぶのはロウソクだが、実は江戸時代までロウソクは非常に高価で、庶民にはとても手が出せるものではなかった。

 今では石油パラフィンを使った安価なロウソクが大量生産されているが、昭和初期まで作られていた和ろうそくは、ハゼノキの実から搾り取った木蝋を溶かして、灯芯の周りに手でかけて、乾燥してから更にかけるという作業を繰り返して作られた。

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和ろうそく

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 江戸時代後期になると、ロウソクの値段は下がったが、それでも富裕な武家や町家に人が多く集まる場合でないと使われなかった。

 例外は遊郭や料亭で、吉原遊郭では惜しげもなくロウソクが使われたそうだ。

 江戸時代には、燭台や提灯に残った溶けた蝋をかき集めて販売する「ロウソクの流れ買い」が商売として成立していたという。それほどロウソクは貴重品だったのだ。

 私は昨年、勝新太郎主演の映画「座頭市」シリーズをよく観たが、映画の中でそう豊かでない家の照明としてロウソクが出て来ていた。ロウソクの希少性を考えれば、時代考証としては少しおかしいことになる。

 高い支柱の上の台にロウソクを差して部屋の照明に使われたのが燭台である。

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燭台

 燭台は鎌倉時代には登場していたそうだが、普及しだしたのはロウソクの値が下がった江戸時代になってからである。

 燭台を手にもって携行できる形にしたのが手燭である。手燭は、屋内を移動する際の灯りとして使われた。

 行灯のように、ロウソクの周りを火袋で覆ったものを雪洞(ぼんぼり)という。雪洞の語は、「ほんのり」から来ているらしい。雪洞がほんのりした灯りを漏らしたからだろう。

 雪洞には、室内設置用の雪洞燭台と、携行用の雪洞手燭があった。

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手前に手燭、奥に雪洞手燭や雪洞燭台がある

 江戸時代後期には、西洋渡来のギヤマン(ガラス)を利用したギヤマン雪洞燭台なども登場した。

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ヤマン雪洞燭台

 上の写真のギヤマン雪洞燭台は、外国製のガラス燭台に、象牙の枠と鼈甲の透かし彫りを配した火袋を載せている。

 これなど、江戸時代後期には超高級品だったことだろう。

 また、細い割竹の枠に紙を張って作った伸縮自在な火袋の底に、ロウソクを立てて用いた携行用の照明器具が提灯である。

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提灯

 さて、幕末になって西洋から日本に上陸してきたのがランプである。

 油槽に溜められた油を灯芯に供給し、火のついた灯芯をガラス製の火屋(ほや)で覆って保護した照明器具である。

 完全燃焼させるには上昇気流を発生させなければならないため、火屋の形はくびれていて、上は開いている。

 石油ランプ登場以前は、西洋では植物油を用いたランプが使われた。

 植物油は、石油製の灯油よりも粘着性が高いので、重力を利用したり、ネジとゼンマイで動くポンプを利用して、灯芯に油を供給するランプが作られた。

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植物油を用いたランプ

 石油から灯油が作られるようになると、植物油よりも流動性があり、熱量も高いため、石油を用いたランプがたちまち主流となった。

 初めて石油ランプが日本に上陸したのは、万延元年(1860年)に幕府医官林洞海が渡米した友人からランプを譲り受けた時だというのが通説である。

 横浜、長崎、函館、神戸の開港に伴い、西洋から石油ランプが上陸し、明治になって大変な勢いで日本中に普及した。

 石油ランプは、文明開化の象徴になった。

 西洋の石油ランプは、油壷が陶器で作られ、火屋がガラスで作られた。油壷にも火屋にも華麗な装飾が施されていた。

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華麗な西洋の卓上ランプ

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ユーゲントシュティール模様の卓上ランプ

 石油ランプの油壷と火屋の間にはネジがついている。このネジをひねって、灯芯の露出を調節し、明るさを調整した。

 森鷗外の「追儺」には、以下の描写がある。

どうして何を書いたら好からうか。役所から帰つて来た時にはへとへとになつてゐる。人は晩酌でもして愉快に翌朝まで寐るのであらう。それを僕はランプを細くして置いて、直ぐ起きる覚悟をして一寸寐る。十二時に目を醒ます。頭が少し回復してゐる。それから二時まで起きてゐて書く。

 明治のランプの使い方がよく分かる。

 石油ランプは、卓上に置いて使用するものの他に、天井から吊るして使用するものや、壁に設置して使用するブランケット形状のものもあった。

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吊りランプ

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ブランケット型ランプ

 また、西洋の邸宅のフロアでは、丈の高いフロアランプが使われた。

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フロアランプ

 上の写真のフロアランプは、ガラス工芸品のようなガラス製の支柱や油槽や火屋を、ブロンズの装飾金具を用いて飾った精巧なランプである。

 石油ランプが上陸してから、まず火屋が国産化されるようになった。

 明治6,7年には、純国産ランプが出回るようになった。明治14,15年には、本格的に国産ランプが生産されるようになった。明治20年代には、国産ランプが輸出されるようになった。

 日本でのランプ使用は、まず畳を敷いた座敷での利用から始まった。

 江戸時代の灯台のように、座敷で利用しやすいようにランプの台が工夫された。

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日本化された座敷用ランプ

 吊りランプも西洋のように豪華な装飾を施したものではなく、亜鉛引きの鉄線の枠に簡素な火屋をつけただけの素朴なものが普及した。

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国産吊りランプ

 確かに和風建築には、簡素な吊りランプの方がよく似合う。

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国産卓上ランプ

 ランプは、燃料である灯油を供給しなければならないが、便利な電気の照明よりも、揺らめく炎に味があるように思う。

 美しいランプを観て、我が書斎の艸玄書屋にも、古い卓上ランプを置いてみたくなった。

神戸らんぷミュージアム 前編

 東遊園地から歩いて神戸市中央区京町に戻り、神戸らんぷミュージアムに赴いた。

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神戸らんぷミュージアムのあるクリエイト神戸ビル

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神戸らんぷミュージアムの看板

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神戸らんぷミュージアムの入口

 神戸らんぷミュージアムは、関西電力が経営していた灯りに関する資料館である。令和4年2月28日をもって閉館した。

 私が訪問したのは、閉館前の2月20日であった。当ブログの記事が、神戸らんぷミュージアムの最後の姿を伝えるものとなるだろう。

 神戸らんぷミュージアムは、神戸市中央区北野町にあった北野らんぷミュージアムを受け継ぐ形で、平成11年に開館した。

 近年のコロナ禍による客の減少により、閉館することになった。

 ランプだけでなく、歴史上の様々な照明器具を展示する見応えのある資料館であった。

 間もなく閉館するのを惜しんでか、来館者がかなり多かった。

 人類が人為的に火を起こして使うようになったのは、原人のころからと言われている。

 石器時代の人類は、木の摩擦を利用して火を起こしていた。

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木材の摩擦による発火法

 それが次第に、火打ち石や火打ち金を打ち合わせ、火花を発生させて発火するようになった。

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火打ち石と火打ち金

 火打ち石には火花が発生しやすい石英が主に使われた。火打ち金は鋼鉄片が使用された。

 こうした発火具によって得た火を他に移すために使われたのが火口(ほくち)である。

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火口(ほくち)

 火口は、古くは枯れ枝や杉の葉が使われたが、江戸時代になるとススキ、ガマなどの穂に硝石、焼酎を加えて煮て、更に着色したものが商品として販売された。

 鎌倉時代室町時代の武士は、火打ち石、火打ち金や火口を入れた火打ち袋を刀に下げて携行した。

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火打ち袋

 江戸時代になると、武士だけでなく庶民も火打ち袋を携行した。発火装置を持つことは、人を安堵させるのか。

 古くから、夜間の携行用の照明として使われたのが松明である。

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様々な松明

 松明は、燃えやすい松、竹、樺などを手ごろな太さに束ね、先端に火を点けて手にもって周囲を照らすための道具である。

 屋外に設置された灯りとしては、篝(かがり)という鉄で編んだ籠に木片を載せて燃やす篝火が使われた。

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篝火

 屋内照明の火元としてよく使われたのがヒデである。

 ヒデは、松の木の中でも松脂の多い部分を細かく割って作った木片である。

 江戸時代の庶民の家などでは、鉄の皿に足をつけたマツトウガイ、鉄の皿を吊るした吊りトウガイ、石皿などの上にヒデを置いて火を点け、照明にした。

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ヒデを用いた屋内照明

 平安時代から貴族の邸宅などで屋内照明として使われ出したのが灯台である。

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灯台の説明

 灯台は、台架に載せた火皿に灯油を満たして、そこに灯芯を浸し、灯芯に着火して周囲を照らしたものである。

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様々な灯台

 高さ1メートル以上の灯台を高灯台、50センチメートル以下のものを切り灯台と言った。

 灯台の真下はどうしても暗くなる。灯台下暗しという諺はここから来ている。

 高灯台は室内全体を照らす道具として、切り灯台は書見用に使われた。

 風除けのため、火皿の周りを紙で覆い、携行できるようにしたのが行灯(あんどん)である。

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行灯(携行用)

 行灯は、鎌倉時代には登場していた。江戸時代には、行灯を室内に置いて照明として使う置き行灯が広く用いられるようになった。

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置き行灯

 置き行灯は、最初は火袋(火覆いの紙)の底板に火皿を置いただけの簡素な造りだったが、次第に火袋の中央に横板を付け、その上に火皿を載せるくも手を付けたり、くも手を吊るしてその上に火皿を置いたりするようになった。

 また火袋の一面を開けられるようにして、灯油や灯芯の補給をしやすくした。

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火袋の一面が戸になった置き行灯

 また、行灯の台に引き出しを付けて、灯芯や点火具を入れられるように工夫した。

 江戸時代後期には、火袋の一面を凸レンズやガラスにして、集光して読み書きし易いようにした書見用行灯が学者の間などで使われた。

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書見用行灯

 我が国に仏教と共に伝来し、古くから神社仏閣や宮殿などで常夜灯として使われたのが灯籠である。

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灯籠

 照明器具というより、装飾として用いられたものである。

 江戸時代後期には、円形の火袋を二重にし、外側の火袋を回転させたら火袋が180度開く円周行灯が人気となった。

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円周行灯

 江戸時代には水運が盛んで、江戸や大坂では河や運河が四通八達し、川船が人々を乗せて動いた。

 そんな川船の舳先に付けられたのが、船行灯である。

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船行灯

 こうして見ると、火皿に灯油を満たして灯芯を浸した灯台、行灯、灯籠が、1000年近く日本の照明の主力として使われたことがわかる。

 思えば世の中に照明がなければ、人間は日の出日の入りに従って生活するしかない。野生動物に近い生活である。

 神戸らんぷミュージアムを見学して、照明というものが文明の第一の要素であることがよく分かった。

海軍操練所跡 東遊園地

 神戸市立博物館を出て、京町筋を南に歩くと、京橋に至る手前の左側に、史跡海軍操練所跡の碑が建っているのが見えてくる。ここは神戸市中央区海岸通17番地になる。

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史跡海軍操練所跡の碑

 文久三年(1863年)、摂津の海岸防備の準備のため、この地方を巡視した14代将軍徳川家茂随行した軍艦奉行勝海舟は、家茂にこの神戸の地が国防上の要港であることを力説し、海軍操練所設置の必要性を説いた。

 その意見が容れられて、元治元年(1864年)に、この地に海軍操練所が開設された。

 海軍操練所は、海軍兵学校、機関学校、海軍工廠を有する大組織で、施設はこの石碑のある場所から現在の神戸税関本館のあたりまで広がっていた。

 勝海舟は、ここに天下の逸材を集めて育成した。坂本龍馬陸奥宗光も、海軍操練所で教育を受けた。

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神戸海軍操練所の鬼瓦

 元治元年に発生した禁門の変に海軍操練所の出身者も参加していたため、幕府は慶応元年(1865年)三月に海軍操練所を閉鎖した。

 開設された期間は短かったとは言え、神戸の海軍操練所は、日本海軍発祥の地と言ってもよい。日本海軍の後を受け継いだ海上自衛隊は、世界有数の実力を有し、今この瞬間も日本の海を守っている。

 島国日本にとって、海防は国家の死命を制する。勝海舟は、今の日本人にとっても恩人である。

 さて、ここからフラワーロードに向かって歩き、神戸市中央区加納町にある東遊園地を訪れた。

 JR三ノ宮駅から南に延びる通称フラワーロードは、江戸時代まで流れていた旧生田川の跡である。

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フラワーロード

 旧生田川が、少しの大雨で氾濫を起こしていたため、明治に入って居留地側から河川の改修の要望が出された。

 明治4年に、神戸の商人の加納宗七が生田川の付け替え工事を行った。生田川はここから東に約800メートルの場所を流れるようになった。

 加納町の地名は、この加納宗七の名から来ている。

 明治8年に、居留地に住む外国人のために、この旧生田川の河川敷に造られたのが、内外人公園であった。

 内外人公園は、その後幾多の名称変更を経たが、大正11年には、今に続く東遊園地という名称になった。

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東遊園地案内図

 明治時代の内外人公園では、外国人がラグビーやサッカー、テニス、野球などに興じた。

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東遊園地の光景

 そのため、ここは日本における各スポーツの発祥地のような場所になった。

 東遊園地の南側には、東遊園地を象徴するこうべ花時計がある。

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こうべ花時計

 こうべ花時計は、昭和32年に設置された。平成19年には、設置から50年ぶりに時計内部の機械が更新された。

 こうべ花時計の背後に見える建物は、今年3月にオープンした、子ども本の森神戸という図書館である。

 東遊園地には、加納宗七の像や、ボーリング発祥の地の碑、外国人スポーツクラブKRACの創設者であるイギリス人A.C.シムの記念碑、日本に移住したポルトガル人の文学者モラエスの胸像、日本近代洋服発祥の地の碑など、様々なモニュメントがあるようだが、私が訪れた時は大規模な改修工事中で、公園内に立ち入ることが出来なかった。

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工事中の東遊園地

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 公園の一角に、そこだけ工事現場になっていない場所があった。

 煉瓦が重ねられ、その上に水が滾り落ちる噴水が設置されている。

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慰霊と復興のモニュメント

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 最初は、ここがどういう場所なのか分からなかった。とりあえず、煉瓦に囲まれた地下に通ずる階段を下りて行った。

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地下に通ずる階段

 地下に下りると、円形の地下室があり、ガラスの天井の上に、さきほどの噴水の水が落ちて静かに音を立てていた。

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円形の地下室

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ガラスの天井に落ちる水

 この部屋に入った途端に、不思議なことに知らず知らず目から涙が噴き出そうになった。

 この部屋の壁を見て理解した。ここは阪神淡路大震災で亡くなった方々の名前を刻んだプレートが設置された慰霊のための部屋だった。

 ここは、慰霊と復興のモニュメントという場所であった。

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阪神淡路大震災の物故者のネームプレート

 この部屋のガラスの天井に落ちる水は、震災の犠牲者のために永久に流し続ける涙を象徴しているように思えた。

 それにしても、知らず知らず涙が噴き出そうになる経験を初めてした。

 東遊園地の周辺で、明治の痕跡を探したが、あったのは「明治二十一年七月」と刻まれた石の杭のようなものだけだった。

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明治21年の石の杭

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 この石の杭のようなものが何を意味するのかは分からなかった。

 東遊園地は、今は改修工事中で、中に入れなかったが、ここは神戸市民にとって、神戸の歴史を回顧することが出来る場所だろう。

 自分たちが住む町が、どういう歩みを歩んで今に至ったかを知ることは、豊かな精神生活を送る上でも、必要なことのように思う。

神戸市立博物館 後編

 神戸市立博物館の1階に降りると、無料で見学できる神戸の歴史展示室がある。

 古代から戦後までの神戸の歩みを学ぶことが出来る。特にジオラマの展示が見応えがある。

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五色塚古墳の模型

 神戸市垂水区にある兵庫県内最大の前方後円墳五色塚古墳の模型は、かなり精密に作られている。

 この五色塚古墳の墳丘上に並べられていた鰭付円筒埴輪も展示されている。こんな大きな円筒埴輪が出土した古墳は、全国的に見ても珍しいのではないか。

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鰭付円筒埴輪

 縄文時代弥生時代古墳時代の石器や土器の展示のなかで、神戸独特のものはなかった。

 考えようによっては、統一国家が成立していない縄文時代弥生時代でも、日本各地の文化様式がほとんど同じだったということになる。これはこれで不思議だ。

 神戸港の起源は、奈良時代に僧行基が築いた大輪田泊である。

 その後平清盛が、大輪田泊日宋貿易の拠点にするため、大規模に改修した。

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平清盛のブロンズ像

 神戸市立博物館の1階には、平清盛のブロンズ像が置かれている。平清盛は、日本の歴史の中では悪役のような扱いだが、神戸にとっては恩人である。

 清盛の死と平家の滅亡によって、大輪田泊の改修工事は一時中断となった。

 明治初期に浮世絵師歌川芳藤が描いた、「摂州一の谷鵯越ヨリ義経平家ヲ攻ムル図」と題した浮世絵は、極彩色で躍動感に溢れた名画だった。

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摂州一の谷鵯越ヨリ義経平家ヲ攻ムル図

 鎌倉時代に入って、僧重源が大輪田泊を修築し、港の基礎が出来た。

 重源は、平家によって焼き払われた東大寺の再建の責任者である大勧進職(だいかんじんしき)に任命された人物で、土木建築に特異な才能を見せた僧である。

 室町時代に入ると、大輪田泊は兵庫津と呼ばれるようになり、日明貿易の拠点になった。

 応仁の乱の戦火で兵庫津は大損害を受けたが、江戸時代に入って尼崎藩領となり、その庇護の下復興した。

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江戸時代初期の兵庫津

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江戸時代後期の兵庫津の模型

 江戸時代の交通の主力は船である。兵庫津は、日本有数の寄港地となった。

 江戸時代の海運の主力となったのは、弁才船と呼ばれる木造帆船である。

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弁才船の模型

 兵庫津では造船業も盛んで、船大工や碇鍛冶など造船に携わる職人も多く住んでいた。

 神戸市兵庫区には、今でも船大工町という地名が残っている。かつて船大工が多く住んでいた町なのだろう。

 明治時代に入り、兵庫津の東側の神戸村に新たな港が出来て、外国に開放された。

 神戸には外国人が居住する居留地が出来た。

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明治時代中期の現神戸市立博物館周辺の様子

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明治時代の居留地の様子

 洋館が立ち並び、西洋人が行き来する居留地は、幕末を生きてきた日本人からすると、目を白黒させるような光景だったろう。

 明治32年居留地は廃止されたが、その後神戸港の貿易量は増大し、神戸に海運会社や金融機関、商社の支店が続々と出来た。

 大正時代には、栄町通、旧居留地を中心に、重厚な石造やレンガ造りのビルが立ち並ぶようになる。

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昭和初期の旧居留地。手前の建物は当時の神戸水上警察署

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大正時代の旧居留地

 神戸は、レジャーも盛んな地域になった。須磨、舞子の海岸には、夏ともなれば、海水浴客が多く訪れた

 イギリス人のA.C.グルームが別荘を建てたことで開発が始まった六甲山は、市民が登山やゴルフ、スケートを楽しむ憩いの場になった。

 また、湊川が付け替えられた後、旧湊川を埋め立てて出来た新開地には、映画館や劇場が立ち並び、娯楽の街として発展した。新開地は、戦前では神戸最大の繁華街であった。

 昭和5年には、「観艦式記念海港博覧会」が、昭和8年には「第1回神戸みなとの祭」が開催された。

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第1回神戸みなとの祭のポスター(真ん中の男性のモデルは詩人の竹中郁

 神戸は、モダンな都市として順調に発展した。

 昭和13年には、神戸は阪神大水害に襲われる。大雨のため六甲山で大規模な土砂崩れが起こり、土石流が町に流れ込んだ。数多くの死者、行方不明者が出た。

 谷崎潤一郎の「細雪」は、昭和10年代の神戸阪神間の中上流階級の人々の生活空間が舞台だが、昭和13年阪神大水害の場面は、手に汗を握る迫真の描写である。ここが小説全編のクライマックスになっている。

 その後、昭和20年の神戸大空襲で、兵庫や新開地の町はほぼ全焼した。

 平成7年の阪神淡路大震災で神戸が受けた被害の大きさは記憶に新しい。

 神戸は、数々の戦火や災害を乗り越えて、時代をリードしながら発展してきた。

 これからも、時代の先端を切り開いて発展してもらいたい街だ。

神戸市立博物館 中編

 コレクション展示室の古地図や名所図会(ずえ)のコーナーに入った。

 目につくのは、17世紀に作成された「大坂から長崎迄航路図」である。

 「大坂から長崎迄航路図」には、紀伊から淡路、四国を通って鹿児島経由で長崎に行く南側ルートと、瀬戸内海から玄界灘を通って長崎に行く北側ルートの2つの航路図がある。

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「大阪から長崎迄航路図」(南側)

 瀬戸内航路の図は、私にとって親しみのある地域なので、見ていて興味深い。 

 この図が描かれた年代は、図の中にヒントがあるという。

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17世紀の大坂

 大坂の図を見ると、大坂城の西側に島があって、島の中を水路が十字型に通り、その中心部に四つの橋が架かっているのが分る。これが今の四ツ橋交差点である。今は橋はなくなり、東西の水路が長堀通になっている。交差点名に四ツ橋が架かっていたころの名残があるだけである。

 その西側に九条島がある。貞享元年(1684年)から4年間かけて九条島を割って安治川を通す工事が行われた。

 図の九条島はまだ割れていないから、この図は貞享元年(1684年)以前に描かれたことになる。

 また、上の図には写っていないが、尼崎城の西側に、寛文九年(1669年)に開拓された、道意新田が載っている。

 これらの情報から、この図が、寛文九年から貞享元年にかけて描かれたものであることが分かる。

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西播磨の図

 西播磨地方を見ると、姫路城と赤穂城の間に、「室」と大きく書かれている。今の兵庫県たつの市御津町室津のことである。

 当時は室津が瀬戸内海航路の重要な拠点だったことが分かる。

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備前の図

 備前の図を見ると、児島半島がまだ島であることが分かる。以前「藤田神社」「興除神社」の記事で児島湾干拓のことを書いたが、この時代はまだ湾にすらなっていない。

 また、コレクション展示室には、神戸市在住で古地図、地誌史料の収集家・川口辰郎氏から寄贈を受けた名所図会が多数展示されている。

 名所図会とは、江戸時代後半に出版された、絵入りの旅行案内書である。

 私が史跡巡りに使っている「歴史散歩シリーズ」の原型のようなものだろう。

 例えば、文化十一年(1814年)に出版された「阿波名所図会」では、鳴門の渦潮の紹介ページが開かれている。 

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「阿波名所図会」の鳴門の渦潮紹介ページ

 文化九年(1812年)出版の「紀伊国名所図会」第三編では、高野山奥の院の紹介ページが開かれている。

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紀伊国名所図会」

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高野山奥の院の紹介ページ

 名所図会と題した旅行案内書は、安永九年(1780年)に出版された「都名所図会」が最初のものとされる。

 江戸時代後半には、お伊勢参りや、四国八十八ヶ所参りといった巡礼の旅を、庶民たちも行うようになった。

 江戸時代後半になって、ようやく旅行に行く経済力を持つ人が出て来たのだろう。

 名所図会の登場も、そういった世相を反映している。

 ところで名所図会シリーズは、江戸時代の通俗的な旅行案内書で、数多く出版されたためか、今でもそれほど古書価が高いわけではない。買えないものではない。

 現代の史跡と比べるため、図書館にある復刻版でもいいから、読んでみたいものだ。

 さて、神戸市立博物館の収蔵品で、最も貴重と言っていいのが、国宝の桜ヶ丘銅鐸銅戈群である。

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桜ヶ丘銅鐸

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桜ヶ丘銅戈

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 昭和39年12月10日に、神戸市灘区桜ヶ丘町の山中で土取りの作業中、偶然発見されたのが、桜ヶ丘銅鐸銅戈群である。
 まとめて14個の銅鐸と7本の銅戈が発見されたが、銅鐸の内4個は、絵画が刻まれた銅鐸であった。

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4号銅鐸

 上の4号銅鐸は、左上にトンボ、左下にイモリ、右上にカマキリとクモ、右下にスッポンが描かれている。 

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五号銅鐸

 上の5号銅鐸は、左上に蛙と蛇と人間、左下に3人の人間、右上にカマキリとクモと蛙、右下に鹿を狩る人間が描かれている。

 銅鐸は、弥生時代の日本で広まっていた祭器である。この銅鐸に描かれているものを見ると、当時の人々の精神世界が垣間見える気がする。

 当時の人々にとって、虫や動物が関心の対象だったようだ。

 これら絵画銅鐸の価値が評価され、昭和45年に桜ヶ丘銅鐸銅戈群は国宝に指定された。

 航路図や名所図会や銅鐸銅戈を見ると、古くから少しづつ地誌も人間の関心の対象も変化していることが分かる。

 現代人は、自分たちが生きている今現在が、人類の歴史の最終形態と思いがちだが、我々も通過点を生きているに過ぎない。

 西暦4100年の人間からすれば、西暦2022年の世界は通過点に過ぎない。

 しかし、4100年の人間の中には、2022年の日本の地誌がどうで、人が何に関心を持っていたかについて興味を持つ者もいるだろう。

 そう思うと、今自分がやっている史跡巡りも、記録として残れば、それなりに意味があるような気がする。 

神戸市立博物館 前編

 旧居留地のほぼ中心に位置する神戸市中央区京町にあるのが、神戸市立博物館である。

 ここは、神戸市内から発掘された考古資料や、南蛮美術、古地図のコレクションなどを数多く収蔵し、展示する博物館である。

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神戸市立博物館

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 神戸市立博物館の建物は、昭和10年横浜正金銀行神戸支店として建設された。

 外装は全て御影石からなる重厚感ある建物で、特に東側正面の、ギリシア神殿のような円柱が立ち並ぶ姿は壮観である。

 戦後は東京銀行神戸支店として使用されたが、昭和57年に内部を改装して西側に増築部分を加え、神戸市立博物館として開館した。

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西側増築部分

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西側にある帆船のレリーフ

 神戸市灘区にあった神戸市立南蛮美術館と、須磨離宮公園内にあった神戸市立考古館を合併して新たに作られた博物館である。

 兵庫県内で大規模な美術展覧会を催す会場としては、兵庫県立美術館と神戸市立博物館が双璧である。

 私も今まで何度かここで開催された展覧会を観に足を運んだことがある。

 私が訪れた時は、丁度「大英博物館ミイラ展」が開催されていた。

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大英博物館ミイラ展の案内

 これはこれで面白そうだが、当ブログのテーマは日本の史跡巡りなので、この展示は見なかった。

 神戸市立博物館の1階には、無料で見学できる神戸の歴史展示室があり、2階では、同館のコレクションを展示するコレクション展が開かれている。

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神戸の歴史見学室とコレクション展の案内

 私は、神戸の歴史展示室とコレクション展示室を見学することにした。

 博物館内部は、天井に天窓のある開放的な空間である。

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博物館内部

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天井

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ガラスのドーム天井

 まずは2階のコレクション展示室を見学した。
 神戸市立博物館は、神戸市兵庫区出身の教育家、池長孟(はじめ)が昭和初期に収集した南蛮美術を収蔵している。

 その中で最も有名なのは、日本史の教科書や資料集にもよく載っていて、ほとんどの日本人が目にしたことがあると思われる、絹本著色フランシスコ・ザビエル像である。

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絹本著色フランシスコ・ザビエル像(レプリカ)

 フランシスコ・ザビエルは、天文十八年(1549年)に日本に来航し、我が国に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師である。

 ザビエルは日本に来た3年後に死去するが、元和八年(1622年)に列聖された。

 この像は、ザビエルの列聖以降に制作されたものだろう。

 慶長十八年(1613年)には、幕府によってキリスト教の禁教令が出されているので、この画像は秘密裏に制作され、幕府の役人の目に触れないように秘かに掲示されていたことだろう。

 寛永二年(1625年)には、ザビエル像を持ったイエズス会士が、天草の漁師を訪れたという記録があるそうだ。

 天草、島原で発生した島原の乱は、寛永十四年(1637年)の出来事である。

 大正9年、大阪府三島郡清渓村の東藤次郎宅に、このフランシスコ・ザビエル像を含むキリシタン遺物が秘匿されていたことが判明する。

 池長孟は、昭和10年にこのザビエル像を入手し、昭和15年に開館した池長美術館で展示したが、昭和26年に池長美術館と所蔵する南蛮コレクションを神戸市に寄贈した。

 平成12年、フランシスコ・ザビエル像は、国指定重要文化財となった。

 南蛮美術の展示室には、この他に戦国時代のキリシタンが胸にかけていたメダイが展示されていた。

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メダイ

 メダイの多くは、聖母マリア像か磔刑されたキリスト像を刻んだものである。

 神戸市立博物館が所蔵する南蛮美術には、この他に、国指定重要文化財の紙本金地著色泰西王侯騎馬図四曲屏風や紙本金地著色南蛮人渡来図六曲屏風がある。

 南蛮文化とは、日本に渡来したスペイン、ポルトガルの文化のことである。南蛮文化が日本に流入したのは、ザビエル来航から秀吉によるキリスト教禁教の間の約40年間ほどだろうが、当時の日本人は貪欲に南蛮の文化文物を吸収した。

 日本人は、自分たちより進んだ文化や文明に対する好奇心が強い民族だと思うが、自分たちが世界で最も優れていると思った途端に失敗するという歴史を繰り返してきた。

 バブル経済の時代に、日本人は日本経済と日本の技術と日本式経営が世界一だという自信を持ったが、その後の低迷を見ると、やはり自惚れがあったように思う。

 日本が輝く秘訣は、自分たちより優れた海外のものを貪欲に吸収する好奇心にあるように思う。

 

旧居留地 後編

 明治32年(1899年)の条約改正で外国人居留地は廃止されたが、大正から昭和にかけて、旧居留地地域には、ビルが数多く建設された。

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昭和初期の旧居留地の模型

 震災で打撃を受けたが、今でも旧居留地には、大正から昭和初期に建設されたレトロビルが多数残っている。

 そんな中で今日紹介するのは、神戸市中央区海岸通に並んでいる海岸ビルと商船三井ビルディングである。

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海岸ビル(手前)と商船三井ビルディング(奥)

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海岸ビル

 海岸ビルは、大正7年(1918年)に竣工したビルで、かつて三井物産神戸支店だった建物である。

 設計者は、河合浩蔵だ。

 阪神淡路大震災で全壊したが、ビルの外壁だけは撤去され保管された。

 その後、海岸ビルが建っていた場所に新しいビルが新築されたが、平成10年に新ビルの低層部の周囲に海岸ビルの旧外壁を再建築した。

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新ビルと海岸ビルの外壁

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海岸ビル正面玄関

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海岸ビルの東側

 直線的な幾何学模様を多用した、モダンなビルである。

 内部に入ると、エスカレーターがあり、近代的なビルの内部と同様で、外観だけがレトロビルだというのが分る。

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海岸ビルの1階

 内部にはお洒落なお店が入っている。海岸ビルは、現在はシップ神戸海岸ビルという名称で呼ばれていて、オフィスと商業施設が多数入っている。

 海岸ビルの東隣には、旧居留地を代表するレトロビルの商船三井ビルディングが建つ。

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商船三井ビルディング

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 商船三井ビルディングは、大正11年(1922年)に旧大阪商船神戸支店ビルとして竣工した。

 近畿を中心に商業ビルを設計した建築家渡辺節の設計である。

 当時としては珍しい7階建ての高層ビルである。

 東京の旧丸の内ビルや大坂の旧大阪ビルヂングがなき今となっては、大正時代に建設された大型商業ビルの中では、唯一現存するものだそうである。

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商船三井ビルの意匠

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 商船三井ビルの1階には、ゴルフ用品の店が入っている。約20年前に訪れた時は、西洋のアンティーク家具を置く店が入っていた。

 このビルは作りが堅牢だったのか、震災を生き残ったようだ。

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ビル北側の店舗

 旧居留地のビルの中には、海外の高級ブランド店など敷居の高そうな店が入っている。

 私のような人間には入るのが躊躇われる店ばかりだ。ビルの外観だけを楽しんだ。

 旧居留地を歩いていると、ランボルギーニやマセラッティ、ポルシェといった高級外車がよく通り抜ける。

 それにしても、古いビルが、人に高級なものとの結びつきを思わせるのは不思議なことである。

 旧居留地は、西洋の文物への憧れを生み出す町としては、今も現役のようだ。