生田神社境内の北東には、生田稲荷大明神がある。
奉納された赤鳥居が、社殿までずらりと並んでいる。
お稲荷さんは、日本全国に隈なく祀られている神様だが、どうも他の神様とは棲んでいる世界が違うような気がする。
お稲荷さんと言えば狐だが、狐はお稲荷さんそのものではなく、お稲荷さんの眷属である。
お稲荷さんの神名である宇迦之御魂(うかのみたま)神の別名を、御饌津(みけつ)神と言う。狐はかつて「けつね」とも言われていたため、いつしか御饌津神の使いが、音の通ずる狐になったとされている。
また、仏教系の稲荷である豊川稲荷は、荼枳尼天(だきにてん)という天部の神様を祀っている。
荼枳尼天は、人の死肉を喰らうヒンズー教の神様だが、密教のパンテオンの中に取り入れられた。
古代インドでは、コヨーテが墓場をうろつき、人の死肉を喰らうことが多かったため、荼枳尼天はコヨーテに乗る姿で表現された。
日本に渡って来た荼枳尼天は、狐に似たコヨーテに乗っていたことから、稲荷神と習合され、コヨーテが白狐と見做されるようになった。
生田稲荷大明神の西側には、史跡生田の森が広がる。
生田の森は、かつてはこの辺り一帯を覆う森であった。
一の谷の合戦や湊川の合戦の主戦場となった場所である。古くは「枕草子」に「森は生田」と書かれるほどの名所であったようだ。
生田の森には、数多くの楠の巨木が生えている。入口から入って直ぐ右手には、神功皇后を祀る生田森坐(いくたのもりにいます)社がある。
春日造の鮮やかな朱色の社殿だ。静かな森の中に、今も神功皇后はおわしますのだ。
生田の森には、何故だが「かまぼこの発祥地」の石碑が建っている。
神功皇后が三韓征伐で生田の森に立ち寄った際、魚のすり身を鉾の先に刺して、火で焙って食べたのが、本邦の蒲鉾の発祥だと言う説話から、この地が蒲鉾の発祥地だとみなされているらしい。意外なことである。
また、生田の森には、折鳥居とその礎石が置かれている。
安政元年(1854年)に発生した安政の大地震で倒壊するまで、この石鳥居は、今の生田ロードに建つ赤鳥居の場所に建っていた。
倒壊後もこの鳥居は原位置に置かれて生田の折鳥居として信仰されたが、昭和25年3月に現在の赤鳥居が起工されるに伴い、生田の森に移された。
生田の森は、謡曲「生田敦盛」の舞台でもある。
法然上人が賀茂明神に参詣の折、男の捨て子を拾って養育した。
男子が10歳余りになった際、たまたま法然上人の説法を聴きに来ていた女性が、男子の母親であることを名乗り出る。男子は、母親から自分の父親が平敦盛であることを聞く。
死んだ父親を恋い慕う男子は、賀茂明神に17日間参詣して、父親に会いたいと願い続ける。満願の日、「父に会わんとせば、生田の森に下れ」との託宣が下りる。
男子は生田の森で、亡き父親の敦盛の亡霊に会い、父の生前の栄華と、死後の地獄の責め苦を知る。
中世には、生田の森は、死者の霊魂が立ち寄る場所と認識されていたのだろうか。
生田の森は、今は市街地の中の僅かな区画の中にしかない。少し窮屈そうである。
諸行無常と言う通り、この世界に永遠に続くものは存在しない。神戸の市街地も、いずれは無くなるものである。
その時は、生田の森が広がり、再びこの辺り一帯を覆うようになるだろう。
遥か遠い将来、生田の森が再び繁茂し、この辺りが無人になっても、稚日女尊は変わらずにこの場所におられることだろう。そして、無人の中で自足して、自然の移り行きを楽しんでおられることだろう。