岡山後楽園 その2

 岡山後楽園は、苔ではなく芝生を大量に使った日本で初めての庭園である。

 後楽園の作られた場所は、元々旭川の中洲であり、地盤は砂質で、湿度が不足していた。

 そのため苔が自生せず、代わりに日本に広く自生している野芝を使うことになった。

 日本の芝は、西洋の芝よりも繊細で、維持が難しい。この庭園の美しさを維持するのは、並大抵のことではあるまい。

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後楽園と岡山城天守

 松林を抜けて、広い芝を見晴らすと、彼方に岡山城天守が聳えている。郭沫若が来日した時には再建されていなかった天守だ。

 戦後に建てられた鉄筋コンクリート製の天守とは言え、後楽園の借景の一つとして外すことが出来ない。

 冬の間、芝は枯れている。この芝が鮮やかな緑色になると、本来の後楽園の景色が現れるのだろうが、芝が枯れた冬の後楽園も、これはこれで味があるものだ。

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芝が枯れた後楽園

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 岡山城天守、唯心山、沢の池、借景の操山という、後楽園を代表する景物が一望できる。

 岡山後楽園にある鶴鳴館(かくめいかん)は、昭和24年に山口県岩国市にあった吉川邸を移築したものである。

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鶴鳴館

 吉川家は、毛利家の家臣の家で、代々岩国藩主を務めた家である。

 岩国藩第13代藩主で維新後は岩国県知事を務めた吉川経健が、明治25年(1892年)に棟上げした吉川邸が、この鶴鳴館である。

 岡山後楽園の建物の大半は、岡山空襲で焼失してしまった。戦後になって、後楽園復興のため、岩国にあった吉川邸がここに移築された。

 吉川家と岡山藩の間に所縁があったのかは分らぬが、今では鶴鳴館は、後楽園での様々な催しものに使用される重要な建物になっている。

 私が訪れた日は、振袖を着た女性たちを撮影する振袖撮影会が催されていた。

 さて、鶴鳴館の隣に建っているのが延養亭である。

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延養亭

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延養亭前の曲水

 延養亭は、岡山藩主が後楽園を訪れた時、居間として使用したり、賓客をもてなすのに使った建物で、後楽園の中では最も重要な建物である。

 しかし昭和20年の空襲で焼失してしまった。今ある延養亭は、昭和35年に当時第一級の木材と技術で、築庭当時の間取りで再建されたものである。

 茅葺入母屋造りの、侘びの精神を感じさせる建物だ。

 延養亭は一般公開されていないが、ここからは唯心山、沢の池、借景の操山を眺めることが出来る。

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延養亭から眺める沢の池

 さて疏水にかかる石橋を越えて、延養亭の南側に回る。

 この石橋が、砥石のような形の石を用いている。

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砥石型石橋

 石橋を越えると、左の地面に巨きく平らな石が埋め込まれている。よくもこんな平らな巨石を探し出してここまで運んだものだ。

 和風庭園を楽しむには、石を楽しまなければならないと思う。石には表情がある。

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石橋脇の巨石

 実はこの巨石の下を曲水が流れていて、延養亭の南側の花葉の池まで水が流れ込んでいる。

 石橋を越えると、右手に延養亭の奥に建つ栄唱の間が見えてくる。

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延養亭と奥の栄唱の間

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栄唱の間

 栄唱の間は、その奥に建つ能舞台で演じられる能を見学するための座敷である。栄唱の間の奥に、能舞台が見える。

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能舞台

 池田綱政は、優れた能の舞手で、この能舞台で自ら能を舞う姿を、家臣のみならず領民にも見せたという。

 能舞台も栄唱の間も空襲で焼失したが、能舞台は昭和33年に、栄唱の間は昭和42年に再建された。

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花葉の池越しに眺める栄唱の間

 殿様が領民に自らの舞姿を見せるというのは、なかなか乙なものだが、領民を大切にした岡山藩らしい計らいだ。

 満月の夜に能舞台の前で篝火が焚かれ、栄唱の間に座った領民たちの前で藩主が能を舞う。

 岡山藩は、津田永忠の土木工事によって、広大な新田を開発し、収穫力を上げた。その収入の上に、岡山藩の豊かな精神生活が築かれたのではないかと思われる。

岡山後楽園 その1

 岡山市北区後楽園にある岡山藩が築いた庭園、後楽園は、国指定特別名勝であり、水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並んで日本三名園に数えられている。

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岡山後楽園入口

 岡山後楽園の入り口前には、岡山県立博物館があるが、改修工事中で、令和4年まで開館せぬようだ。

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岡山県立博物館(改装工事中)

 岡山県立博物館には、国宝・赤韋威(あかがわおどし)鎧兜大袖付や国指定重要文化財・絹本着色宇喜多能家画像などの文化財が収蔵されている。

 特に赤韋威鎧兜大袖付は、平安時代後期に作られた鎧兜だが、後世の修復が少なく、平安時代当時の姿を残す鎧としては、全国的に珍しいらしい。

 拝観出来なかったのは残念だ。

 岡山後楽園を築いたのは、岡山藩の二代目藩主池田綱政である。

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池田綱政の肖像画

 池田綱政は、寛永十五年(1638年)に、名君と呼ばれた初代藩主池田光政の嫡子として江戸で生まれた。 

 この綱政も、光政に劣らぬ名君だったらしく、家臣からは「英断の君」「仁愛の君」と呼ばれたそうだ。

 その一方、能や和歌、書画にも巧みで、風流を解した。

 綱政は、家臣の津田永忠に命じて、岡山城天守から見下ろせる旭川の中洲に庭園を築かせた。それが現在の岡山後楽園である。

 貞享四年(1687年)に着工し、元禄十三年(1700年)に完成した。

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岡山後楽園見取図

 津田永忠は、当ブログで幾度も紹介してきた江戸時代を代表する大土木建築家である。

 この岡山後楽園も津田永忠の偉大な事績の一つであるのだ。

 後楽園は、江戸時代には岡山城の後ろにあるということで、御後園と呼ばれていた。

 「先憂後楽」の精神から作られた庭園ということで、明治4年(1871年)に後楽園と改称された。

 明治17年1884年)に後楽園は池田家から岡山県に譲渡され、一般公開されるようになった。

 昔岡山藩の殿様が楽しんだ庭園を、今は一般市民が散策しているわけだ。

 後楽園に入って先ず目につくのは、丈高い「平四郎の松」である。

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平四郎の松

 伝説では、後楽園が築かれる前、この地に住んでいた平四郎という人の庭先に生えていた松を残したものだという。

 とは言え、初代の平四郎の松は枯れてしまい、今植えてあるのは二代目の松だと言う。

 順路に従って進むと松林があり、松に囲まれて藩主が家臣の弓射の腕前を見学した観射亭や、タンチョウを飼育している鶴舎がある。

 松林の周囲の地面には苔が生えており、その上に白い椿がはたと落ちていた。

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苔の上の椿

 後楽園には、戦前までタンチョウが生息していたが、戦後絶滅した。鶴舎には、戦後中国や釧路市から送られた鶴の子孫が飼われている。

 鶴舎の近くに、中国の政治家、文学者の郭沫若の詩碑があった。

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郭沫若の詩碑

 郭沫若は、1892年に中国四川省に生まれた。若いころ日本に留学し、第一高等学校予科を経て、岡山第六高等学校(現岡山大学)第三部医科に入る。

 その後九州大学医学部に入学した郭沫若は、日本にしばらく滞在したが、中国に戻り中国国民党中国共産党に入党し、文学作品執筆と並行して政治活動を行った。

 郭沫若は、中国科学院院長として昭和30年に来日し、若いころによく訪れた後楽園にもやって来た。郭沫若が留学していたころの後楽園からは、岡山城天守が見え、天然の鶴もいた。しかし、戦時中の空襲で岡山城天守や後楽園の建物群は焼失し、鶴の鳴き声も絶えてしまった。郭沫若が訪れた昭和30年には、まだ岡山城天守は再建されていない。

 詩碑には、郭沫若が来日時に第六高等学校の同窓生に渡した詩が刻まれている。

後楽園仍在
烏城不可尋願
将丹頂鶴作
対立梅林
 一九五五年 冬
 郭沫若

 「後楽園はなおあれど、烏城(岡山城)は今になし。せめて丹頂鶴を放して、梅林に配してみたい」という意味の詩であるそうだ。

 郭沫若は、日本と中国が全面戦争をしている時には重慶にいたが、青春を過ごした日本のことは忘れられなかったようだ。

 郭沫若は、留学時代に親しんだ後楽園の風景がなくなってしまったことを悲しみ、中国に戻ってから後楽園に丹頂鶴一つがいを送った。

 松林を抜けると、透明な水が流れる疏水がある。旭川の伏流水を後楽園に引いているらしい。

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園内の疏水

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透明度の高い水

 疏水の水は透明で、底の石には藻が生えている。眺めるだけで心落ち着く。メルヴィルの「白鯨」にも書いていたが、体のほとんどが水で出来ている人間は、水を見ると落ち着くように出来ているのか。確かに人は海や湖や川を見るのが好きである。

 疏水に架かる石橋は、石の形そのままである。

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疏水にかかる石橋

 後楽園には、名石も数多く配されている。

 石橋を渡ると、正面に鶴鳴館と延養亭が見える。

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鶴鳴館と延養亭

 延養亭は、藩主が滞在した建物で、後楽園の中で最も重要な建物である。

 これからしばらく、岡山藩の遺産であるこの名園を紹介していきたい。

夢二郷土美術館

 東山墓地から岡山の市街地に入っていく。

 岡山市中区浜2丁目にある夢二郷土美術館を訪れた。

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夢二郷土美術館

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 夢二郷土美術館は、岡山が生んだ詩画人・竹久夢二の作品を収蔵展示する美術館である。

 竹久夢二は、明治17年1884年)に岡山県邑久郡邑久町で生まれた。邑久町本庄にある夢二の生家は、現在夢二郷土美術館分館として保存公開されている。昨年1月15日の当ブログ「横尾山静円寺 竹久夢二生家」の記事で紹介した。

 夢二は、画家になるため、17歳の時に家出をして東京に出た。その後早稲田実業学校で学ぶ。

 童話雑誌や少女雑誌の挿絵を描き始め、その傍ら抒情詩も書いた。夢二の描いた作品は、多くが、というよりほぼ全部が若い女性を描いた美人画である。

 夢二が描いた抒情的な美人画は、中原淳一蕗谷虹児内藤ルネといった後続の挿絵画家、イラストレーターに受け継がれた。

 夢二は大正ロマンの時代を形成した文化人の一人と言ってよいと思う。

 夢二郷土美術館は、夢二の作品や資料3000点以上を所蔵し、その内常時100点以上を展示している。

 私が訪れた時は、夢二郷土館の創設者で初代館長だった松田基(もとい)のコレクションを展示していた。松田基は、西大寺鉄道(現両備ホールディングス)の社長を務めた人物で、西大寺鉄道後楽園駅の跡地に夢二郷土美術館をオープンさせた。

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夢二名品展松田基コレクションX

 ガラス工芸家藤田喬平のガラス作品も展示していた。

 展示作品は、当然ながら写真撮影出来なかった。一抹の哀しさを感じさせる抒情的な作品が並んでいた。

 ところで夢二郷土美術館の名物が、美術館お庭番の黒の助という黒猫である。

 黒の助は、写真撮影可能な第五展示室のガラスケースの中でゆったりしていた。

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黒の助がくつろぐガラスケース

 ガラスケースの中で眠っている黒猫を見て、最初はぬいぐるみかと思ったが、近寄るとこちらを見て目を光らせた。

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目を覚ました黒の助

 確か夢二の作品に、黒猫を抱いた女の絵があったと思うが、その絵から抜け出てきたような猫だった。

 夢二郷土美術館の中庭には立派な枝垂桜がある。見ると既に花が散っている。いつ開花したのだろう。満開の時は、さぞかし美しかったことだろう。

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中庭の枝垂桜

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 中庭を通ると、アートカフェ夢二というカフェ&ミュージアムがある。

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アートカフェ夢二

 店内には、夢二の版画作品などが展示販売されている。また夢二や黒の助に関する商品も販売されている。

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夢二作「砂時計」の版画

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夢二作品「立田姫」の版画

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アートカフェ夢二の店内

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ラデック・プレディゲェル作の「プレート夢二」シリーズ

 中には、ポーランドの画家ラデック・プレディゲェルが、竹久夢二に着想を得て描いた染付の絵皿などもあった。

 美術作品は、国境や人種を容易に超えて影響を与える。これもその一例だろう。

 夢二郷土美術館を出て蓬莱橋を渡ると、岡山後楽園の外苑前に至る。岡山後楽園から岡山市街に入るには、鶴見橋を渡らねばならない。

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鶴見橋

 この鶴見橋の東詰に、旭川に面して竹久夢二の抒情詩「宵待草」を刻んだ詩碑が建っている。 

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宵待草の詩碑

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 竹久夢二が27歳だった明治43年(1910年)夏、元妻と息子を連れて房総半島犬吠埼を訪れた時に、海岸で出会った19歳の女性長谷川カタと短い逢瀬を重ねた。

 しかし夢二の恋は実らず、カタとは別れ別れとなった。翌年同じ海岸を訪れた夢二は、カタが別の男性と結婚したことを知り、もはやいくら待っても現れぬ女性を思い、実らぬ恋の悩ましさを宵待草に例えて、

まてど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな 

という詩にした。

 この詩に多忠亮が曲を付け、日本中で歌われるようになった。

 また、岡山後楽園外苑には、竹久夢二の友人で、播州飾磨出身の詩人有本芳水の詩碑が建っている。

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有本芳水の詩碑

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 この詩碑は、フランスの世界的な建築家ル・コルビジェに学んだ日本の建築家前川國男の作品でもある。

 ここには、有本の「小とりよ」という詩が刻まれている。

小鳥よ小鳥 うらやまし 生まれ故郷の 恋しさよ
小とりとなりて 春の日を 声はりあげて うたひたや 

 有本芳水は、晩年を夫人の生家に近い岡山の地で過ごした。有本芳水の詩集の挿絵を竹久夢二が描いている。有本も大正ロマンの立役者の一人だ。

 大正時代は、明治と昭和の狭間の夢のような時代で、古く暗い日本とモダンな西洋文化が合わさった時代だ。

 その後の日本は、年々モダンな要素が強くなり、高度成長期の到来と共に普段着として着物を着る人が激減し、文化状況は今の日本に近づいた。

 竹久夢二も、当時は時代をぶち壊す先端の芸術を描いているつもりだったろうが、時が経つと夢二の作品はその時代を象徴する芸術になってしまった。芸術作品の評価も、時の経過を俟たないと定まらないようだ。

岡山市 東山墓地 後編

 地味な墓巡りの記事が続いているが、今回が最終回である。

 野村尚赫の墓の東側に、明治期の岡山の国立銀行、第二十二国立銀行の頭取だった村上長毅(ちょうぎ)の墓がある。

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村上家の墓所

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村上長毅の墓

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 この人物の事績は、あまりよく知らないが、金融を通して岡山の産業の発展に貢献した人物だったのだろう。

 村上長毅の墓所の東側には、明治時代に岡山県権令、岡山市長を務めた新庄厚信の墓がある。

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新庄家の墓所

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新庄厚信の墓

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新庄厚信の墓誌

 新庄厚信は、天保五年(1834年)に岡山藩士の子として生まれ、同藩士新庄直虎の養子となった。

 新庄厚信は、岡山藩の外交掛となって長州藩との交渉を担当したようだ。維新後は、岡山県権令(県の長官)に任じられたり、岡山紡績所を設立したり、2代目岡山市長を務めたりした。

 真面目な実務家だったのではないか。明治36年没。享年70。

 さて、東山斎場のすぐ東側に広い南北道があるが、その更に東側に細い南北道が一本通っている。その細い南北道を北に上っていくと、右手に陸軍少将野中勝明の墓がある。

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野中家の墓

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野中勝明墓

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 野中勝明は、文久三年(1863年)に岡山県士族小林村夫の次男に生まれ、後岡山県士族野中銀蔵の養子になった。

 陸軍に入り、明治44年には陸軍少将になった。昭和13年没。享年76。

 野中家の墓には、真新しい花が供えられていた。

 実は野中勝明の四男で、親戚の家に養子に行った野中四郎が、二・二六事件を起こした青年将校の一人であった。

 毎年2月26日に、東山墓地にある野中四郎の墓前で神式の慰霊祭が行われているが、その際に野中勝明一族の墓にも花が供えられたのだろう。

 その野中四郎の墓は、野中勝明の墓所の東側の高台の中にある。

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野中四郎の墓

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野中四郎墓

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 野中四郎は、明治36年1903年)に野中勝明の四男として生まれた。叔父野中類三郎の養子となった。

 大正13年陸軍士官学校を卒業し、大正14年には後に二・二六事件を起こした陸軍歩兵第三聯隊に入隊する。

 昭和11年(1936年)2月26日の二・二六事件発生の時は、陸軍歩兵大尉となっており、歩兵第三聯隊第七中隊長だった。

 野中の率いる部隊は、事件勃発と共に警視庁を襲撃し、警視庁と皇居桜田門を占拠した。

 事件から3日経った2月29日には、昭和天皇が事件に激怒し、蹶起部隊を叛乱軍として鎮圧する意向を示していることが明らかとなり、蹶起部隊は解散し、原隊復帰した。

 事件を起こした青年将校の大半は、身柄を拘束されて、軍法会議で死刑が言い渡され、後に銃殺されるが、野中四郎は、2月29日に陸相官邸で拳銃自決した。享年34。

 野中は遺書で、実父と養父に先に死にゆく不孝を詫びている。

 二・二六事件に対して今評価を下すのは難しい。歴史はこの事件にまだ審判を下していないと思われる。

 今日の記事でこの事件を論ずることは出来ない。ただ一つ言えるとしたら、純粋な思想だけで政治を動かすことは出来ないということである。

 次に訪れたのは、今年2月27日の「宝積山能福寺 前編」の記事で紹介した滝善三郎の墓である。

 ネット上にて、この滝善三郎の墓を探したが見つけることが出来なかったという方の記事を読んだ。後続の掃苔家のために、滝善三郎墓の位置をここに書いておく。

 東山斎場のすぐ東側の南北道を、東山斎場南側を通る東西道と交差する場所から北に約150メートル歩くと、右手(東側)に石段がある。

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滝善三郎の墓に至る石段

 この石段を登り、東に少し歩くと、左手に滝家の墓所が見えてくる。

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滝家の墓所

 この墓所の奥に、善三郎の墓がある。

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滝善三郎(誠岩良忠居士)の墓

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 滝善三郎の墓の正面には、誠岩良忠居士という戒名が刻まれている。

 滝善三郎は、今年2月27日の記事でも書いたように、慶応四年(1868年)1月に神戸三宮で発生した神戸事件のきっかけを作った人物である。

 備前藩士だった滝が、備前藩部隊の隊列を横切ったフランス水兵を槍で突いたことで、両者の間に衝突が起こった事件だ。

 善三郎は事件の責任を負って、慶応四年2月9日(旧暦)に兵庫港永福寺で外国代表の前で割腹自決した。享年32。

 滝の墓から東を見ると、墓地の最も高い場所に十字架が架かったタイル張りの建物がある。

 ここがアリス・ペティ・アダムス女史の墓である。

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アリス・ペティ・アダムス女史の墓

 タイル張りの建物の前に、墓石が建っている。アダムス女史の墓石だ。

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アリス・ペティ・アダムス女史の墓石

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 アリス・ペティ・アダムスは、1866年にアメリカで生まれた。宣教師として来日し、岡山に私立小学校や幼稚園を建て、市民に浴場を開放し、無料の施療所を開設した。

 明治45年(1912年)には、アダムスが設立した財団法人岡山博愛会が認可された。同会は、現在も社会福祉法人として存続しており、岡山博愛病院などの病院を運営している。

 アダムスには、昭和11年に日本政府から勲六等瑞宝章が送られている。翌年の1937年、アダムスはアメリカにて死去した。享年72。

 アダムスは、岡山四聖人の一人とされているそうだ。

 今回、東山墓地の様々な人物の墓を参った。フランス水兵に斬りかかった人物、攘夷派を取り締まった人物、フランスに外交使節として行って交渉した人物、フランスに留学して当地で客死した軍人、キリスト教の博愛思想を基に教育に力を入れた人物、皇道維新のためクーデター事件に参加した人物など様々であった。

 概ね近代史の中で、西洋と日本との間で揺れ動いた人物たちだったが、共通するのは、それぞれ抱いた思想に違いがあるが、日本を良くしようと思っていたことである。

 ここに眠る人たちは、今の日本を見てどういう感想を抱いているだろうか。

岡山市 東山墓地 中編

 大西祝の墓から東側は、ちょっとした高台になっている。

 その高台の上にあるのが、池田長発(ながおき)の墓である。

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池田長発墓

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池田長発墓誌

 池田長発は、天保八年(1837年)に幕府直参旗本家の池田長休の四男として江戸にて出生した。

 長発は、備中国井原の領主池田長溥の養子となった。幕府直轄の学問所昌平黌(しょうへいこう)にて学び抜群の成績をおさめた。

 長発は、文久三年(1863年)には、満26歳で外国と交渉を行う外国奉行に抜擢される。

 当時の幕府は、横浜港を含む5港を開港していたが、国内で攘夷派が巻き返しつつあった。長発が外国奉行になって直ぐに、攘夷派浪士が横浜でフランス人士官を殺害する井土ヶ谷事件が起こった。

 幕府はフランスに謝罪すると共に、攘夷派の怒りを鎮めるためにフランスに横浜港の鎖港を求めることとし、パリに遣欧使節団を派遣した。その団長に長発が抜擢された。

 遣欧使節団は、途中エジプトに立ち寄り、ピラミッドを見学した。長発らは初めてピラミッドを見た日本人となった。

 さて、遣欧使節団はパリでフランスと交渉し謝罪と賠償を行ったが、結局横浜港閉鎖の条件は飲ませることが出来なかった。

 長発はヨーロッパ文明が圧倒的に進んでいることを実感して、日本に帰ってから、幕府に対しむしろ開国することを建白した。

 このため、長発は職を解かれ、蟄居を命ぜられた。

 しかし慶応三年(1867年)、長発は幕府から赦され、勝海舟と共に幕府海軍奉行に就任した。だが健康不良のため数か月で職を辞し、領地の井原にて隠棲した。

 長発は、明治12年(1879年)、井原にて没した。享年42。

 長発の墓の隣には、長発の妻蜂谷氏の墓石がある。南側には、長発の子孫の墓石が並んでいる。

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池田長春、長世墓

 池田長発は非常に優秀な人物だったろうが、このような人物がいても幕府の滅亡は防げなかった。

 攘夷すべしという世論を、幕府の力では抑えられなかったのである。

 今から考えれば、外国人に日本の土を踏ませないという攘夷の思想は、日本の発展を阻害する有害な思想としか考えられない。当時の幕閣の有識者もそれは分かっていたが、開国策を正面から実行すると井伊直弼のように暗殺されたりするのでなかなか出来なかった。

 後世から見れば、どう考えても誤った思想であっても、その時代には世の中に大きな影響力を持つことがある。こういう事は、現代にも将来にも起こり得ることである。

 さて、次に手代木勝任(てしろぎかつとう)の墓を訪れた。勝任の墓は、東山斎場のすぐ西側の高台の上のブロック塀に囲まれた一角にある。

 手代木勝任は、文久九年(1826年)、会津に生まれた。

 勝任は、幕末の会津藩主で京都守護職となった松平容保重臣であった。京都奉行、京都所司代新選組を指揮し、京都を跋扈する攘夷派を取り締まった人物である。

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手代木勝任夫婦の墓

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手代木勝任墓誌

 会津戦争では、会津若松城に立て籠もって官軍に抵抗した。会津若松城が陥落したとき城から脱出し、以後は東北諸藩の降伏交渉を行った。

 勝任は、戊辰戦争後、明治政府により蟄居を命ぜられたが、有為の人物だったのだろう、明治5年には赦され、明治政府に仕官することとなった。

 明治11年には岡山区長となり、明治37年、岡山にて没した。享年78。

 なお、勝任は死に臨んで、実弟京都見廻組隊長だった佐々木只三郎坂本龍馬を暗殺したと告白した。

 次に野村小三郎尚赫(しょうかく)の墓を訪れた。野村小三郎は、岡山藩士野村尚志の子として生まれた。

 小三郎の生年は不詳だが、おそらく嘉永七年(1855年)である。明治3年(1870年)、数え年16歳にして陸軍省兵学寮の留学生に抜擢され、フランスに留学し、軍事学を学んだ。

 しかし明治9年(1876年)、留学先のフランス・アメリーレバンにて22歳で病没した。

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野村尚赫墓

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 私は東山墓地を訪れる前に、ある程度目的の墓石の位置を知っておこうと、ネットで検索したが、この野村尚赫の墓を探すのに非常に苦労した方の記事を目にした。

 私も現地で発見するまで少し苦労したので、参考までに尚赫の墓の位置を書いておく。

 東山斎場の東側に、広い南北道がある。この南北道を北に向かって歩き始めると、すぐ右手に、南北道側に向いている野村尚赫の墓が見える。ただし尚赫の墓の手前に別の新しい墓があるので、少し分かりにくい。

 尚赫の墓の側には、父尚志の墓もある。

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野村尚志の墓

 尚赫の墓石の側面には、「明治九年六月二十六日於仏蘭西国卒享年二十有二」と彫られている。

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尚赫墓石側面の銘

 実は、尚赫の墓は、死没したフランス・アメリーレバンにもあるそうだ。尚赫がもし日本に帰ってきていたら、日本陸軍を支える人物になっていただろう。返す返すも残念である。

 尚赫の墓の隣には、阿井千賀之墓と刻まれた墓石がある。すぐ隣にあるので、尚赫と何らかの所縁のある人物なのだと思われるが、今のところ何人だか分かっていないそうだ。尚赫の母親の名でもないらしい。今となっては、もはや野村家の子孫もこの人が誰だったか知らないだろう。
 プルーストの「失われた時を求めて」ではないが、大いなる時の力は、あらゆるものを風化させていく。
 死んで100年もしたら、誰からも思い出されることもなくなる人生、生ある間は、せいぜい思い切り生きるべきではないかと思う。

岡山市 東山墓地 前編

 コロナ特措法に基づく兵庫県の緊急事態宣言が明けたので、久々に史跡巡りに出かけた。

 今日は岡山市最大の墓地である東山墓地に眠る3名の人物の墓を紹介する。

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東山墓地

 東山墓地は、岡山市街の東にある平井山の上に広がる。地名で言えば、岡山市中区平井1丁目になる。

 非常に広大な墓地で、見渡す限り墓ばかりである。

 ここには、幕末から近代にかけて、岡山が輩出した、或いは岡山で活躍した人たちが多く眠っている。

 私は山川出版社の「歴史散歩」シリーズを杖にして史跡巡りを続けているが、東山墓地に数ある墓の中でも、「岡山県の歴史散歩」に載っている墓を訪ねることにする。

 最初に訪ねたのは、上代淑(かじろよし)の墓である。

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上代淑墓(向かって右隣りが炭谷小梅の墓)

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 今まで史跡巡りをする中で、広い墓地の中を墓を捜し歩いて難儀したことがある。特に真夏の炎天下の墓地巡りは苦痛である。「歴史散歩」シリーズの文章だけを頼りに探しても、なかなか目当ての墓に辿り着けない。

 いつも決め手になるのは、やはりスマートフォンでの検索である。先人がネット上にアップした墓の写真の背景の山や木の形、背後に写っている建物の屋根の色や形と現地の風景を見比べながら、目当ての墓の位置を特定していく。

 そうやって苦労の果てに目当ての墓の前に立った時の達成感たるや、なかなかのものである。

 歴史上の偉人や著名人の墓参りをする人を掃苔家と言うが、最近では墓マイラーとも呼ばれている。

 私も、後続の墓マイラー達が目当ての墓を探しやすくするため、ヒントとなる写真と文章を残しておくことにする。

 東山墓地の中心には、東山斎場の建物が建っている。東山斎場の南側には駐車場があり、その駐車場の東側の細い道を南に下れば、上代淑の墓がある。

 上の写真の、上代淑の墓石の真後ろに写っている建物が、東山斎場である。

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上代淑墓の墓誌

 上代淑は、松山藩上代知新の娘として、愛媛県松山市にて明治4年(1871年)に出生した。

 父の上代知新が大阪で新島襄と出会い、洗礼を受けてキリスト教徒となった時、淑も洗礼を受けた。

 淑は、梅花女学校で教育を受けて教師となり、岡山市の山陽女学校に赴任した。

 淑は、生涯を同校での女子教育に捧げた。山陽高等女学校の校長を何と51年務め、岡山の女子教育に貢献した実績のため、岡山市名誉市民となった。昭和34年没。享年89。

 淑の墓の隣には、父親の知新の墓もある。上代家の墓石には、十字架が浮き彫りにされている。

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上代家の墓

 そういえば、この辺りの墓石には、十字架が刻まれているものが多い。岡山のキリスト教徒がこの一角に墓を多く建てたのだろうか。

 上代家の墓の東隣にあるのが、炭谷小梅の墓である。

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炭谷小梅の墓

 炭谷小梅は、嘉永三年(1850年)に岡山城下に生まれた。岡山県の教育・衛生の近代化に努めた中川横太郎の愛人となった。中川がキリスト教の布教に熱心だったので、その影響を受けて受洗した。

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炭谷小梅墓

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炭谷小梅の説明板

 炭谷小梅は、受洗後キリスト教の布教に努めたが、明治20年(1887年)に中川横太郎と離別し、石井十次の孤児院事業に協力した。
 石井十次については、丁度1年前の令和2年3月7日の当ブログ「岡山孤児院発祥地 安仁神社 紅岸寺跡」の記事で紹介した。岡山市孤児院を開設した医師である。

 炭谷小梅は、石井夫妻の孤児院事業を助け、「岡山孤児院の母」と呼ばれたという。大正9年没。享年69。この墓は岡山孤児院の有志が建てたが、いつ建てられた墓かは分からない。

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 炭谷小梅の墓は、長い間存在が忘れ去られていた。隣の上代淑の墓は、今でも山陽女子高等学校の生徒が清掃活動に訪れている。平成11年、上代淑の墓の掃除に訪れた女子生徒が、隣にある墓石が炭谷小梅の墓であることに気づいた。炭谷小梅の墓の「発見」である。 

 上代淑が没したのは、炭谷小梅から遅れること39年である。同じキリスト教徒で、子供の教育に携わった上代淑が、孤児の救済に尽くした炭谷小梅の墓の隣に眠ることを選んだのかも知れない。

 上代家の墓のすぐ南にあるのが、大西祝(はじめ)の墓である。

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大西家の墓

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大西祝の墓

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 大西祝は、元治元年(1864年)に岡山藩士木全正脩の息子として生まれ、母方の実家大西家に養子に入った。

 大西は、同志社英学校に入学し、新島襄の下で受洗し、キリスト教徒となった。明治22年(1889年)、帝国大学文科大学哲学科(現東京大学文学部)を首席で卒業し、東京専門学校(現早稲田大学)、東京高等師範学校(現筑波大学)で教鞭を取った。

 大西祝は、日本哲学の父と呼ばれた。明治33年没。享年36。京都帝国大学文科大学の設立のために奔走している途中であった。

 まあとんでもない才人だ。

 大西祝は、同じキリスト教徒である内村鑑三が不敬事件で第一高等学校の教職を追われた時、内村鑑三の味方に立った。

 内村が、第一高等学校の教育勅語奉読式の時に、勅語に書かれた明治天皇宸筆の御名に対し最敬礼をしなかったことが不敬とされた事件である。

 事の是非は別にして、当時は不敬を犯せば非難囂々となって職を辞さなければ収拾がつかなくなるような社会情勢であった。

 そんな世間一般の常識の中、非難された内村の味方に立った大西祝は、単なる才人というだけでなく、気骨のある人物だったのだろう。

 大西の墓石に文学博士と誇らかに刻まれているが、当時博士号を取るのは至難の業で、その分野の日本有数の権威でなければ取れなかった。

 森鷗外は医学博士、文学博士の両方を持っていて、それを名刺に態々刷らせている。

 ただし鷗外は、死別とともに生前の交際や権威は全て意味をなさなくなると分かっていたので、遺言により墓石には自分の名前以外は彫らせなかった。

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大西絹の墓

 大西祝の墓の隣には、妹の大西絹の墓がある。大西絹は、山陽女学校の舎監を務めた人である。上代淑とも縁のあった人物だ。

 今日紹介した3名の人物については、私自身今まで何も知らなかった。墓参りをきっかけに、調べてみて3名の事績を初めて知った。

 「歴史散歩」シリーズに載っている史跡は、興味のあるなしに関せず全て訪れるという当ブログの方針のおかげで、上代淑の父の名ではないが、新たに知ることが多い。

 今まで興味を持たなかった人物の墓を訪れるのも、新たな発見があっていいものだが、やはり自分が関心を持つ人物の墓に行ってみたい。

 私は掃苔家ではないが、いつか東京三鷹禅林寺にある、尊敬する森鷗外の墓は拝したいものである。

湊川隧道

 神戸市を代表する河川である現在の新湊川は、六甲山系の再度山麓から発した天王谷川と石井川が合流する菊水橋付近を始まりとし、そこから南西に流れ、会下山(えげやま)下の新湊川トンネルを通って神戸市長田区に至り、苅藻川に合流して大阪湾に流れている。

 明治34年までの湊川は、菊水橋から南に流れ、現在の新開地本通が通る場所を流れて、今川崎重工業神戸工場のある場所から大阪湾に注いでいた。

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湊川と新湊川湊川隧道のホームページより)

 旧湊川は、ひとたび大雨が降ると、六甲山から流れ出た土砂とともに氾濫を繰り返し、流域に大きな被害がもたらしていた。

 当時の湊川は、洪水の危険性が非常に高く、洪水から市街を守るため、両側に高さ8メートルの堤防を備えていた。

 上の図のように、明治時代には神戸市街のど真ん中に、高さ8メートルの堤防を有する旧湊川が流れていたのである。     

 神戸市の交通は、旧湊川のために東西に分断されていた。鉄道も神戸駅から西にはつながっていなかった。

 そのため、古くから、湊川の流路を変える土木工事を行う必要性が叫ばれていた。

 明治29年(1896年)に発生した旧湊川の洪水により、流域は大きな被害を受けた。そのため湊川付け替え工事の機運が高まり、ついに工事が開始された。

 明治34年(1901年)に付け替え工事は完成した。湊川は、上の図のとおり、菊水橋から西に流路を変え、会下山(えげやま)の下を通る湊川隧道内を流れ、苅藻川に合流してそのまま海に流れるようになった。

 旧湊川の河川跡と堤防は削平され、その上に新しい町が出来た。これが現在の新開地である。

 新開地は神戸と兵庫港の間に位置し、土地が広く、立地条件が良いため、映画館や劇場や芝居小屋などが軒を並べ、「西の浅草」と呼ばれて繁栄した。

 だが神戸大空襲によって新開地の街並みは焼失し、戦後は神戸の中心が新開地から三宮に移った。

 この湊川の付け替え工事の際に、会下山の下に掘削されたのが、近代土木技術を用いた日本最初の河川トンネル、湊川隧道である。

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湊川隧道吞口側(上流側)の坑門跡

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 当初は会下山の南側の平地に新湊川を流すことが計画されていたが、洪水を恐れる地元住民の反対で計画変更し、会下山の下に隧道を掘って、そこに川を流すことになった。 

 湊川隧道の内部は、円形断面の煉瓦覆工であった。湊川隧道は、平成31年に国登録有形文化財に指定された。

 平成7年1月17日の阪神淡路大震災で、湊川隧道も内部に罅が入るなどの損害を被った。

 震災後、復興事業として、湊川隧道の2倍の断面積を有する新湊川トンネルが建設され、新湊川は新湊川トンネルの中を流れるようになった。

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湊川トンネル上流側坑門

 新湊川トンネルは、湊川隧道の北側に掘削された。しかし、新トンネルが出来てからも、明治時代の土木遺産である湊川隧道はそのまま残された。

 現在でも、湊川隧道内部は定期的に一般公開されている。湊川隧道上流側坑門から隧道内を覗くことができるが、坑門側はコンクリートで覆われていて、煉瓦は見えない。

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湊川隧道の上流側坑門内

 さらに奥に進めば、煉瓦で覆われた明治時代の坑道を見学することが出来る。

 昭和3年(1928年)に湊川隧道を上流側に延伸させることになり、元の上流側坑門は地中に埋まった。

 震災後の新湊川トンネル建設工事に際し、地中に埋まった旧上流側坑門は撤去されたが、坑門最上部に嵌め込まれていた要石は、現在の上流側坑門前に展示されることになった。

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旧上流側坑門の要石

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 要石は、明治期の湊川隧道を今に伝える石材である。

 さて、湊川隧道の下流側に行くと、下流側坑門がほぼ明治時代当時のままの姿で残っている。

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湊川隧道下流側坑門

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 震災後に新しく作られた新湊川トンネルは、下流側坑門前で旧湊川隧道と合流している。下流側坑門のトンネル断面積は、旧湊川隧道時代よりも拡大されている。

 しかし、煉瓦と石で積まれた坑門の姿は、明治時代のままである。

 坑門には、「老子」から引用された「天長地久」の文字が刻まれた石が嵌められている。

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湊川隧道(新湊川トンネル)下流側坑門

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天長地久の文字

 天地の悠久の営みを畏れる気持ちを表している。

 私は長い間兵庫県に住んでいるが、まさか今ある新開地に、明治時代まで川が流れていたとは知らなかった。

 湊川付け替え工事にしても、兵庫運河掘削にしても、明治時代の神戸は都市改造を大胆に進めていた。

 神戸市は、戦後になっても、須磨区垂水区の山を削って出た土砂を用いて埋め立て工事を行い、ポートアイランド六甲アイランドなどの人工島を作り、山を削った場所にはニュータウンを作った。

 そんな神戸市の在り方の是非はともかくとして、都市の変化の歴史というものも、辿っていけば面白いものだと思われる。