神戸市長田区東尻池町2丁目にある金剛山宝満寺は、臨済宗の寺院である。
寺伝によれば、大同三年(808年)に当地を訪れた弘法大師空海が開山したという。
当初は、現在の神戸市兵庫区和田山通の辺りに寺があったとされるが、治承四年(1180年)に平清盛が福原内裏を築造する際に、現在地に移されたという。
寿永三年(1184年)の一の谷の合戦で、伽藍の大部分が焼失したが、文永三年(1266年)に亀山天皇の勅命で、円明国師が禅寺として再建したそうだ。
天正七年(1579年)には、信長の武将荒木村重により寺領を没収され、伽藍は焼き討ちに遭った。寺は衰退したが、細々と存続した。
昭和20年6月5日の米軍による空襲で、伽藍は再び焼亡する。
この時、寺宝の木造大日如来坐像は、枯れ井戸に隠されて無事であった。
平成7年の阪神淡路大震災でも、伽藍は損傷を受けたが、幸い火災は発生せず、大日如来坐像は無事だった。
私が宝満寺を訪れた時、寺門は閉ざされ、境内に入ることが出来なかった。
寺宝の木造大日如来坐像は、国指定重要文化財である。現在非公開の仏像である。
この像は、胎内の銘から、永仁四年(1296年)に大仏師法眼定運ら4名の仏師が制作したことが分かっている。
内刳り前部を総金箔で、後部を総銀箔で覆って仕上げており、非常に珍しい像内荘厳の例なのだそうだ。
鎌倉時代後期に造られたこの像が、南北朝争乱、戦国乱世や神戸大空襲、阪神淡路大震災を経て、よく現在まで生き残ったものだ。
さて、ここから長田区五番町に行き、神戸村野工業高等学校のすぐ西側にある源平勇士の墓を訪れた。
ここは、一の谷の合戦で敵味方となって戦った源平の武者の墓石が一緒に並んで祀られている珍しい場所である。
ここには、平氏方の平知章、平通盛と、源氏方の木村源吾重章、猪俣小平六の4人の墓石が祀られている。
平知章は、生田の森を守っていた平氏方の大将で父親の平知盛を逃すため、家臣の監物太郎頼賢と共に戦い、長田区明泉寺附近で討ち死にした。
北城戸を守っていた平通盛は、源氏方の木村源吾重章と相討ちになった。
また、平盛俊と戦った源氏方の猪俣小平六もこの辺りで戦死した。
平知章の墓石は、元々明泉寺附近にあったが、享保年間に「摂津志」の著者である並河誠所が知章を孝子として顕彰するため、西国街道に近い現在地に移したという。
平通盛、木村源吾、猪俣小平六の墓石も、西国街道沿いに建っていたが、道路拡張工事に伴い現在地に移転され、結果敵同士が並んで祀られるようになった。
長田区四番町の、神戸村野工業高等学校の東側の路地には、知章と共に戦った監物太郎頼賢の碑が建っている。
近寄ると、線香のいい香りがして、墓前には綺麗な花が供えられ、近隣の住民が香華を絶やさないようにしているのがよく分かった。
平知盛が息子の知章と家臣の監物太郎の3名で渚目指して落ちのびる途中、源氏の児玉党10騎が駆け寄り、知盛に組み付いた。
知章は、知盛を討たすまじと敵兵の一人に組み付いて討ち取り、首を取って立ち上がろうとしたが、そこを周囲の敵兵に討たれた。
監物太郎は、知章を討った敵兵の内、一人の首を取ったが、多勢に無勢、ついに討ち取られた。
知章と監物太郎が戦う間に、知盛は逃げ延びることができた。
監物太郎の墓も、知章の墓と同じく、戦死した明泉寺附近にあったが、並河誠所が監物太郎の忠義を称えて顕彰するため、知章の墓と共に西国街道沿いのこの地に移したという。
思えば一の谷の合戦の後は、生田の森から一の谷のあたりまで、死屍累々たる有様だったろう。
神戸市は日本有数の大都市であるが、その大都市が誕生する遥か昔に、ここで一族の存亡を賭けた戦いがあったことは、記憶に留めておくべきだろう。