神戸市長田区長田町3丁目にある長田神社は、神戸市を代表する神社の一つである。
創建は古く、神功皇后摂政元年と言われている。神功皇后の率いる艦隊が、三韓征伐の帰路に長田沖を航行中、悪天候で進み難くなった。
その時、大国主神の子の事代主(ことしろぬし)神が、神功皇后に「我を長田に祀れ」と託宣した。
お告げを受けた神功皇后が、長田に事代主神を祀り、長田神社を創建したとされている。
神功皇后が実在していたとすれば、「日本書紀」の紀年は別にして、応神天皇の母親ということを考慮すると、4世紀後半の人物と思われる。長田神社はその頃からこの地に祀られていたのだろうか。
事代主神は、記紀では天津神に国譲りをした神とされており、八神殿に祀られる皇室の守り神の一柱である。
長田神社は、「延喜式」では名神大社に列せられ、戦前の社格制度では官幣中社であった。歴史上一貫して高い社格を誇る神社である。
中世の長田神社の歴史はあまりよく分かっていない。
寛文元年(1661年)に社殿が再建されたが、大正13年の火災により焼失してしまった。
今ある本殿、幣殿、拝殿、神門等を中心とする社殿は、昭和3年に再建されたものである。
私が参拝した日は、成人の日であった。新成人とその家族が多く参拝に訪れて、境内は賑やかであった。
長田神社の社殿は、木造銅板葺きで、柱は漆下地に丹塗りされており、非常に鮮やかな色彩の社殿である。
神戸大空襲により、神戸市内の主要な神社はほとんど焼けてしまったが、長田神社は神戸市内の主要神社の中で唯一戦災を免れた神社である。
平成7年の阪神淡路大震災で、長田区は火災に見舞われ、甚大な被害を受けたが、長田神社社殿は倒壊を免れた。
丹塗りの柱や梁に、青や緑に彩色された彫刻が彫られ、華麗な意匠の金色の金具が施されている。
長田神社の社殿は、国登録有形文化財に指定されている。その他、境内に複数の末社があるが、これらも国登録有形文化財となっている。
昭和初期の神社建築の名作と見なされたのだろう。
また、本殿を囲む塀の中に、弘安九年(1286年)の銘を持つ石灯篭がある。長田神社にあるものの中で、最も古いものである。兵庫県指定文化財である。
長田神社には、その他に、南北朝時代に制作された黒漆金銅装神輿がある。全面に黒漆を施し、金銅の金具で鳳凰を象っている。国指定重要文化財である。
また南北朝時代に奉納された太刀二振りも所蔵しているという。
これらの神宝は、宝物館に収蔵されていることだろう。
長田神社本殿の北側には、楠宮稲荷社という神社がある。
稲荷社の背後に、御神木の立派な楠が生えている。瀬戸内海を泳ぐ赤鱏(あかえい)が苅藻川を遡り、この御神木に化身したとされている。
赤鱏を断って願を掛けると、願いが叶うと信仰されている。
エイにゆかりのある神社は珍しい。
長田神社の境内には、神戸市指定天然記念物の、「長田神社のクスノキ」が生えている。
巨大な二つの幹が並び立って、地表付近では根が絡み合い、なかなかの偉観である。
長田神社には、神社には珍しい追儺式が伝承されている。通常の追儺式は、立春のころに災いをなす鬼を追い払うために行われるが、長田神社の鬼は神の使いで、災いを追い払ってくれる鬼であるそうだ。
現在の神戸市長田区は、神戸の下町として住宅が密集し、人口密度も高いが、江戸時代までの長田は、ほとんど人の住まない農村地帯だったろう。
そのころは、長田神社の氏子の数も少なかったものと思われる。長田神社周囲は、明治以降急激に開発され、一挙に市街地の中の神社になった。
急速な都市化や空襲、震災を経験した長田神社の神様は、今どんな感想をお持ちだろう。