平忠度の腕塚・胴塚

 私が「平家物語」を読んで、最も忘れがたい逸事だと思ったのは、平家の都落ちの時、平薩摩守忠度(ただのり)が、和歌の師・藤原俊成を訪れた場面である。

 平忠度は、平清盛の弟で、文武両道を達成した武将である。武芸に秀でる一方で、風流を解し、当時朝廷第一級の歌人藤原俊成に師事して和歌をものした。

 木曽義仲勢が北陸から京に迫ると、平家一門は大慌てで京都から西に逃げ出す。

 当時、俊成は勅撰和歌集の撰者に指名されていた。勅撰和歌集は、天皇が編纂を命じた和歌集だが、勅撰和歌集に自作の和歌が選ばれるということは、歌人にとって最高の栄誉であった。

 忠度は、都落ちの途中俊成の屋敷を訪れて俊成に面会し、「生涯の面目に、一首の御恩をかうむり候はばや」と、勅撰和歌集に自作の歌を一首入れてもらいたいという思いを伝え、鎧の下から自らの詠草百首を認めた巻物一巻を取り出し、俊成に渡した。

 忠度の死後、俊成は勅撰和歌集「千載集」に、読み人知らずとして、忠度の歌、

さざ波や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな 

 を選んだ。

 志賀の都は、天智天皇が琵琶湖畔に開いた都で、壬申の乱で焼亡した。万葉のころからこの滅んだ都はよく歌われたが、忠度の歌も万葉調を思わせる古えぶりである。

 琵琶湖のさざ波が届く志賀の都は滅んで荒れてしまったが、昔ながらに、長良山(志賀の都の西にある山)に山桜が咲いている、という歌意である。

 平家の世が滅んでも、相変わらず山桜は美しく咲き続けているという意味を込めて、俊成はこの歌を選んだものと思われる。

 俊成は「千載集」に忠度の和歌を多く選びたかったが、朝敵となった忠度の名前を載せることも出来なかったので、たった一首、名を伏せて読み人知らずとしてこの歌を選んだ。

 平忠度は、一の谷の合戦で壮絶な戦死を遂げた。その忠度の腕と胴を埋めた場所に建てられた塚が、神戸市長田区にある平忠度腕塚と胴塚である。

f:id:sogensyooku:20210214165134j:plain

腕塚の案内板と道標

 忠度の腕塚は、神戸市長田区駒ヶ林4丁目の細い路地の中にある。車で入って行く事は出来ない。

 路地の入口には、案内板と道標がある。そこから路地に入って行くと、「うでづか」と刻まれた石柱がある。そこを曲がって、人一人がようやく通ることが出来る道に入る。

f:id:sogensyooku:20210214165557j:plain

「うでつか」と刻まれた石柱

 すると目の前に、腕塚堂が現れる。

f:id:sogensyooku:20210214165739j:plain

腕塚堂

f:id:sogensyooku:20210214165826j:plain

f:id:sogensyooku:20210214165904j:plain

 「平家物語」第八十九句「一の谷」の最初に、忠度の最後の場面が書かれている。

 忠度は、一の谷の平家の陣の大将であったが、義経の奇策により、一の谷の山手の陣が破られ、部隊は潰走した。

 源氏の武者岡部忠澄が忠度に組み付き、両者馬から落ちる。忠度は刃を岡部に向けるが、岡部の鎧が頑丈で、刺し貫くことが出来なかった。2人は砂浜で組み合って、上へ下へとなりながら転びあう。

 そこに岡部の郎党も集まって来て加勢し、忠度の右腕を斬り落とした。

 忠度は「もはやこれまで」と悟り、「しばしのけ。十念(南無阿弥陀仏の念仏)となへて斬られん」と言って岡部を左手で押しのけ、西に向って高声に念仏を唱え始めた。

 しかし、忠度が念仏を唱え終る前に、岡部は背後から忠度の首を斬り落とす。

 岡部は、自分が討ち取った武者が、さぞ名のある者だろうと思って、遺体を見てみると、鎧の高紐に一つの文が結び付けられていた。そこには、「旅宿の花」という題で、

行き暮れて 木の下かげを 宿とせば 花やこよいの あるじならまし     

という歌が忠度の名とともに書かれていた。

 もし旅の途中に日が暮れてしまって、桜の木の下蔭を宿としたなら、桜の花が今宵の宿の主になるだろうな、という歌意である。

 岡部は自分が忠度を討ち取ったことを喜んだが、源氏方は武芸と歌道に秀でた忠度の死を惜しみ、嘆き悲しんだという。

 腕塚堂は、最初に斬り落とされた忠度の腕を埋めた場所とされている。腕塚堂の前には、石造十三重塔が建っている。

f:id:sogensyooku:20210214172118j:plain

十三重塔

 腕塚堂を覗くと、薩摩守忠度の位牌が安置されていた。

f:id:sogensyooku:20210214172215j:plain

忠度の位牌

 忠度没後750年の記念に、昭和8年に新調された位牌のようだ。

 腕塚堂から西に約300メートルほど行った、神戸市長田区野田町8丁目に、平忠度の胴塚がある。ここが、忠度が最後に討ち取られた場所だろう。

 忠度は、右腕を斬り落とされた後も、なお300メートル西に走ったのだろうか。

f:id:sogensyooku:20210214172548j:plain

平忠度胴塚

 胴塚の説明板に、平家一門の系図が書かれ、一の谷で討ち死にした者の名が赤字で書いてあった。

f:id:sogensyooku:20210214172820j:plain

平家一門の系図

 一門から実に10人の戦死者を出している。一の谷の合戦での敗北が、平家にとっていかに壊滅的な敗北であったかが分かる。

f:id:sogensyooku:20210214173009j:plain

忠度の墓石

 「平家物語」には、後世によく思い返される名場面があるが、忠度と俊成の別れの場面や、忠度の最後の場面はあまり注目されていない。これは惜しいことである。

 忠度の和歌を読むと、日本人の死生観と日本の風土が、歌という結び目を通じて深く絡み合っているのがよく分かる。

 人の世の移り変わりに関わらず、今年も桜は咲くのだ。