西脇市 石上神社

 兵庫県西脇市板波町にある石上(いそがみ)神社の御祭神は、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮の御祭神布都御魂神(ふつのみたまのかみ)の御分霊である。

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鳥居

 この神社の創建は、社伝では、一条天皇の御宇である正暦三年(992年)とされている。

 石上神社は、過去には岩上(いわがみ)大明神と呼ばれていた。石上神社本殿の背後には、巨大な岩がある。この地で原始から行われていた磐座信仰が、この神社の起源だろう。

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本殿裏の巨岩

 この巨岩からは、平安時代の瓦片などが見つかっており、言い伝えの通り平安時代には社殿があったことが窺われる。

 岩上大明神は、昭和15年に、正式に石上神宮の分霊社となり、社名を石上神社に変更した。

 拝殿には、石上神宮の水彩画が奉納されている。

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拝殿

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拝殿に掲げられた石上神宮の水彩画

 ところで、石上神宮の御祭神の布都御魂神は、初代神武天皇が国土平定のために帯びていた神剣韴霊(ふつのみたま)の神霊とされている。

 「ふつ」とは、剣で物を斬る時の音を表している。

 神武天皇は、東征の砌、熊野灘から本州に上陸したが、土地の悪鬼邪霊のために進軍が出来なくなった。天照大御神は、建御雷神が帯びていた韴霊を、高倉下(たかくらじ)命を通して神武天皇に授けた。

 この神剣の霊威により、悪鬼邪霊は払われ、神武天皇は大和平野に向けて進軍することが出来た。

 韴霊は、神武天皇即位後、物部氏の祖先によって宮中に祀られていたが、第10代崇神天皇の代に、物部氏の祖伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、現在石上神宮の建つ地に遷してお祀りした。 

 韴霊は、長い間石上神宮拝殿裏の禁足地に埋められていると伝えらえていたが、明治7年に宮司が禁足地を発掘すると、何と本当に鉄剣が出て来た。神職たちは、これこそ韴霊であると畏れかしこみ、大正2年に本殿を建立して御神体として祀った。

 私も奈良の石上神宮に2度足を運んだことがあるが、楼門を潜って境内に入ると、空気を切り裂くような緊張した神威が漲っているように感じた。あの空気感は独特である。

 神武東征伝承を考えると、日本は剣によって切り開かれた国であると言える。日本人が刀剣を神聖なものとして扱うのも、この伝承から来ているのではないか。

 西脇の石上神社の境内には、奈良の石上神宮のような緊張した空気はなく、どことなく大らかな空気を感じる。

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拝殿、幣殿、本殿

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本殿

 現在の社殿は、享保年間(1716~1736年)の建築で、寛政元年(1789年)に修復された。
 銅板葺きの簡素な佇まいの社である。

 この石上神社には、「なまずおさえ神事」という神事が伝えられている。

 天文十一年(1542年)に、盗人によって石上神社に奉納されていた白鞘の小刀が盗まれた。盗人は、逃げる途中、小刀を持ったまま野間川に落ちて死んだ。氏子の代表らは、占い師が示した野間川の姫滝に潜水夫を潜らせて、三日目にようやく滝壺の岩陰に白く光るものを発見した。白布で包んで神前で広げたが、そこに刀の姿はなく、大ナマズが横たわっていたという。

 それ以降、石上神社では、秋の大祭日に氏子達が神前で潜水夫などに扮し、木綿にくるんだ刀を捜す様子を再現して、神様に今でも刀を捜し続けていることを報告する儀式を行うようになった。

 拝殿前の土俵が、その神事が行われる場所である。

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なまずおさえ神事が行われる土俵

 今、西脇市の観光地には、西脇市観光協会が建てたイラストを交えた説明板がある。この説明板に、神事のイラストが描いてあった。

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なまずおさえ神事のイラスト

 日本の神事は、どことなくユーモアのあるものが多い。神様を喜ばすことが神事の由来となっている場合は、厳粛な神事の中にも笑いを誘うようなものが入ることになるのだろう。

 日本の神々は、どうも笑うのがお好きなように私には感じられる。

旧来住家住宅 後編

 客湯殿の浴室の隣室は、化粧室となっている。女性の化粧や更衣用の部屋だったようだ。

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化粧室

 御覧のように三畳の狭い部屋である。しかし、小さいながらも、この部屋も選び抜かれた銘木があちこちに使われている。

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床の間と床脇

 まず真ん中に通る床柱は、鞍馬産赤松磨き丸太。床板は、栃白玉杢。

 地袋(右側の収納部分)の天板は、塩地玉杢。

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床板・栃白玉杢

 落掛(おとしがけ)は、手前が煤竹、奥が櫨磨き丸太と神代杉。

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落掛。手前・煤竹、奥・櫨磨き丸太

 更に床の間横の付書院には、円窓と変り組障子を組み合わせた、珍しい建具を配している。

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付書院の円窓

 また、化粧室の天井板は、春日産杉白味笹杢である。

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天井板。春日産杉白味笹杢

 まさに磨き抜かれた銘木たちが競演する空間だ。

 最後に紹介するのは、離れ座敷である。この離れ座敷は、来住梅吉が煎茶の茶室として建立した建物である。

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離れ座敷

 ここには、総理大臣を務めた犬養木堂犬養毅)や、朝香宮鳩彦(やすひこ)王などが宿泊したことがある。

 離れには、次の間と座敷の2部屋があるが、両室の間の黒柿を使った間越欄間には、座敷側に市川周道の彫刻による蝙蝠が飾られている。

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間越欄間

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市川周道作の蝙蝠。目は黒サンゴ。

 間越欄間の次の間側には、同じく市川周道による「月と時鳥」の彫刻が飾られている。

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時鳥

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 この彫刻は、「小倉百人一首」の藤原実定の歌、「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」という歌から題材を得ている。歌意は、「時鳥が鳴いた方向を見ると、もう時鳥の姿はなく、ただ有明の月が残っている」というものである。

 座敷の天井には、屋久杉が用いられている。

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座敷天井

 座敷の床の間、床脇、付書院がまた見事である。

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床の間、床脇、付書院

 写真は、右から床脇、床の間、付書院となる。

 床柱は、縞黒檀である。床の間と床脇の間の狆潜り(ちんくぐり)の丸太は、櫨である。

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縞黒檀の床柱と狆潜りの櫨

 床の間の掛け軸は、橋本関雪の作である。

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橋本関雪の掛け軸

 付書院は、欄間障子が繊細な松葉継模様である。

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付書院

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松葉継模様の欄間

 また、付書院の腰板は、薩摩杉である。

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薩摩杉の腰板

 床脇は、違い棚が葡萄杢が美しい珍木の白木、天袋板は朱檀、天井は屋久杉である。

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床脇

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違い棚の葡萄杢の白木

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床脇の屋久杉の天井

 床脇の天井など、まず見上げることがないが、このように人目に付かないところにも手抜きせずに、きっちり銘木を使って意匠を凝らしているところが心憎い。この部屋に宿泊した犬養毅朝香宮鳩彦王も、さぞ感嘆したことであろう。

 さて、三回に渡って、名邸旧来住家住宅を紹介した。見学料は無料である。近くには狭いながらも無料駐車場がある。

 このような邸宅に住めば、毎日さぞ心豊かに過ごせることであろう。

 贅を尽くした邸宅に住むことは叶わずとも、生活の中に美術や音楽や文学といった美しい物に触れる機会を取り入れることは、人生の味わいや香りを増すと思われる。

 人生で最も長い時間を過ごす自宅内に、見るたびに感心する飽きの来ない美しい物を置くことは、辛い人生を乗り切る秘訣であると思われる。

旧来住家住宅 中編

 旧来住家住宅は、2階建てである。

 2階に上がる階段は、古い日本住宅らしく、狭くて急である。

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階段

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 2階に上がると、畳廊下を挟んで、左側に押入れが、右側に和室がある。

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2階の畳廊下

 床の間のある奥の和室は、スタッフの方が使用中であった。手前の和室には、東洋大学の創設者である、明治大正期の哲学者・井上円了が自書した「四季七言対句」が書かれた襖がある。

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井上円了の書

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和室中央の机

 また、近藤翠石が干支の動物図を描いた襖がある。

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干支の動物を描いた襖

 このような邸宅でも、当然生活スペースはある。普段の生活は、客を通す表側の座敷の裏側にある和室で行われていただろう。

 台所土間には、昔の「くど」が備え付けられている。

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くど

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台所土間

 土間の上は吹き抜けで、太い梁が横に渡っているのを見ることが出来る。

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吹き抜けの梁

 旧来住家住宅の庭園には庭門から入っていく。この庭門には、欅の玉杢の戸が設置されている。丁度木の節が、板の断面の木目に浮かび出て、玉のように見えることから玉杢と言う。

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庭門

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玉杢

 案内の方の話では、現代にこの庭門を作ろうと思ったら、材料費だけで1千万円かかるとのことであった。

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庭園の眺め

 庭から母屋を眺めると、真ん中が膨らんだ起り屋根と三条通っている風切り丸瓦が美しい。

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庭から眺める母屋

 中庭には、地面を掘り下げたところに据えられた、唐船形の降りつくばいがある。

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降りつくばい

 降りつくばいに、竹を模した雨どいが下がっている。

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竹を模した雨どい

 母屋から渡り廊下を渡った先には、離れの座敷と客湯殿がある。

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離れと客湯殿

 見事なのは客湯殿の浴室である。

 当時としては珍しいタイルで囲まれ、湯船には高野槙が使われている。

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浴室

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マジョリカタイル

 浴室の壁にはめられたタイルのうち、模様があるタイルは、恐らく淡路の珉平焼から発展したマジョリカタイルだろう。

 洗面台はイタリア製大理石でできている。

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大理石製の洗面台

 更に凄いのは、見上げた天井である。栂材の折上格天井である。

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折上格天井

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 こんな風呂であれば、毎日入るのが楽しみであろう。冬は寒そうであるが。

 客湯殿の突き当りに、建築当時から掛けられている鏡があったが、その鏡の縁の木材の竹の意匠が素敵であった。

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鏡の縁の竹の意匠

 確かにお金が有り余るほどあれば、贅を凝らした邸宅を作ってみたいと思わないでもないだろう。しかし、そうした邸宅を、悪趣味で嫌味ではなく、控え目で趣味よく、通人には分るように造るのは難しい。

 日本の茶室は、自然の素材をそのまま生かしながら、粗野でなく閑雅な空間を形成している。茶道は、日本の美学の集大成と言われるが、この旧来住家住宅にも茶道から来る静かな美しさを感じる。

 和歌や和食もそうだが、自然そのままの素材の声に耳を傾けて、その中から美を浮かび上がらせるのは、日本人が得意とするところだろう。

旧来住家住宅 前編

 西脇市西脇にある旧来住(きし)家住宅は、少なくとも兵庫県内では屈指の名邸宅であると思う。私はまだまだ見聞が狭いため、断言できないが、日本全国で見ても、これほどの名邸宅はそうないのではないかと思われる。

 建てられてから100年ほどしか経っていないので、現在は国登録有形文化財だが、近い将来、国指定重要文化財となるのは間違いないだろう。

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表門

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表門から見える母屋

 旧来住家住宅は、西脇の名士、来住梅吉が大正7年(1918年)に竣工した邸宅である。

 来住梅吉は、明治24年(1891年)に来住萬吉の四男として出生した。梅吉は、大正2年(1913年)に来住家本家の来住弁吉の婿養子になる。弁吉は、明治42年ころから、来住家住宅を建てるため用材の調達を始めていたが、梅吉が婿養子に入った翌年に死去した。

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旧来住家住宅母屋全景

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 梅吉は、弁吉の後を継いで、来住家住宅を完成させた。

 梅吉は、西脇商業銀行を設立し、その後西脇区長や西脇町議会議長などの公職を歴任した。小作人の年貢米の減免や、貧困者への米の無償配布、困窮者の子弟への学資援助、公共施設建築費寄付など、貧困者対策に力を尽くした人だったようだ。

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虫籠窓

 この来住家住宅は、さほど大きなものではない。それでも、邸宅の随所に使用された銘木や、見えないところにも施された和モダンと言ってよい閑雅な意匠は、絵画や茶にも造詣の深かった梅吉の趣味の良さを示しているように思う。

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玄関

 もっとアップで撮影しなかったのを悔やむが、玄関をH型に囲む柱は、一本の欅を分割したもので、木目が非常に美しい。

 土間から取次の間、次の間、座敷を眺める。

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土間から眺める座敷

 何気に眺めると見過ごしそうだが、一つ一つの調度がこだわりを持った銘木で作られ、デザインも秀抜である。

 取次の間に上がると、縁側の方にある障子には葦が張られ、向う側が透いて見えて涼し気である。

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葦を張られた障子

 この取次の間は、座して客を迎え、送り出せるよう配慮された部屋である。土間と取次の間の間にある木製の引き戸は、材木名は分らぬが、銘木に違いない艶と美しい木目を持っていた。

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土間と取次の間の間の引き戸

 取次の間から、次の間に入る。

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次の間と座敷

 次の間の鴨井や柱は、洞川(どろがわ)産の白い栂(つが)が使われ、天井には富山産の黒部杉笹杢が使われている。

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次の間と座敷の間の欄間

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欄間障子

 欄間障子の意匠など、アールデコを思わせる直線基調のモダンなデザインだ。

 次の間には、総欅づくりの仏壇がある。

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仏壇

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供物欄間

 この仏壇上部の供物欄間の意匠は、明治~昭和期に播州で活躍した刳物師市川周道が彫ったものである。

 座敷に入る。座敷は当邸で最も格の高い部屋である。座敷と次の間の間の間越(まごし)欄間には、桐が使われている。

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間越欄間

 座敷の床脇は、床の間を引き立たせるためにある。

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床脇

 アップで撮影していないので、木目が見えないのが残念だが、床脇の地板は竹嶋産の欅玉杢、違い棚には木曽産の松赤味ウヅラ杢、違い棚筆返しは桑、天袋には但馬産の桑が使われている。

 床の間は、床柱に北山杉の出絞(でしぼ)丸太を使っている。

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床の間

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床框の黒柿

 床框は黒柿、床の間天井は、屋久杉の矢筈張(やはずはり)である。

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屋久杉の矢筈張

 付書院もまた豪華である。

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付書院

 付書院の書院板は、木目が美しい欅如輪杢(けやきじょりんもく)、脇板と腰板に遠州神代杉、障子に春日産杉、欄間は桐材で、和歌に詠まれた龍田川の秋景「楓図」が透かし彫りされている。

 庭に面した縁側には、栂材を用いて、職人の遊び心を感じる波型の継ぎ目がある。

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縁側

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縁側の波型継ぎ目

 縁側の欄間が、これまたモダンな意匠だ。

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縁側の欄間

 縁側からは、これまた名石を多用した庭園が眺められる。

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庭園

 庭園は、抹茶御三家の薮内宗匠の設計で、庭師今里捨之助が施工したという。庭石、灯籠とも名品揃いであるという。

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庭から眺める座敷

 旧来住家住宅は、現代では入手困難となった銘木が贅沢に使用されている。ヨーロッパの豪邸のように、誰もが豪華だと感じる造りではなく、くすんだ渋さの中に、貴重な価値が輝いているような邸である。

 いずれこの邸は、もっと注目されることになると思う。

西脇市郷土資料館

 兵庫県西脇市は、播州織で有名な町である。播州織の資料等を展示しているのが、西脇市西脇にある、西脇市郷土資料館である。生活総合文化センターの2階が丸々郷土資料館になっている。

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西脇市郷土資料館

 コロナウイルスの関係で閉館しているのかと思いきや、人影はまばらながら開館していた。

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郷土資料館の展示コーナー

 播州織は、先に糸を染めてから、色の着いた糸を織り上げていく先染織物である。

 寛政四年(1792年)に、多可郡比延村の飛田安兵衛が、京都西陣の技法を習得し、織機に改良を加えてこの地で織り始めたのが始まりらしい。

 ところで織機の歴史は古く、弥生時代から日本人は織物をしていたらしい。古い手織機は、織機を地面に置いて、織手は地べたに座って織る、地伏機(じぶせばた)というものだった。

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地伏機

 手前にある足綱を踏んで経糸を上下させて、緯糸をその間に入れて織っていく。

 時代が下ってくると、織り台の上に織機を乗せた長機(ながはた)が開発された。

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長機

 織手は、織り台に座って作業出来るようになった。

 播州織が織られ始めた頃は、この長機が使われていた。当初は、農家が各自で織っていたが、やがて織元が、長機と糸を農家に持ち込んで、出来高に従って賃金を払う問屋制家内工業に発展した。マニファクチュアの前段階が、天保時代の西脇では実現していた。

 明治33年に、来住(きし)兼三郎が動力織機を導入し、工場制手工業に発展した。織手は工場で働くようになった。明治中期には、日本は海外綿花を大量輸入し、工業用電力も安価に供給されるようになった。専業者の増加、工場規模の拡大が見られ、明治末期には、播州織は西脇の特産となった。

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明治期の播州

 その後大正時代に入ると、第一次世界大戦による世界的な衣料品不足と、関東大震災による横浜港の機能停止とそれに代わる神戸港の輸出港としての発展に伴い、播州織は海外販路を開拓し、世界に輸出されるようになる。

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大正、昭和初期の播州

 播州織は、東南アジアやアフリカに主に輸出されるようになった。

 戦後は、発展途上国の繊維産業との競合を避けるため、播州織は欧米の先進国に輸出されるようになった。

 この頃が播州織の最盛期である。館内には、昭和30年ころの播州織工場の生産の様子を再現した展示がしてあった。

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昭和30年ころの播州織工場の様子

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36インチ力織機

 写真の36インチ力織機は、昭和30年当時の主力織機である。

 播州織工場で働く女性織工の労働後の疲れを取るため、魚醤をベースにした甘口の播州ラーメンが、西脇を中心に売り出されるようになった。
 こうして最盛期を迎えた播州織だったが、昭和60年のプラザ合意以降、急速に円高が進んだため、播州織は輸出よりも国内向け生産へのシフトを余儀なくされた。その後安価な中国産の繊維製品などと競争を避けるため、播州織は付加価値の高い商品を多品種少量生産して販売するようになった。

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昭和後期、平成時代の播州

 ところで、西脇市は、播州織だけでなく、釣り針の産地としても有名である。釣り具会社の「がまかつ」も西脇発祥の会社である。播磨国は、かつて針間国と呼ばれたが、昔から針の生産が盛んだったようだ。確かに播州の川では、鮎釣りが盛んである。

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播州釣針

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 展示の中で目を引いたのは、鳥や動物の毛を針に付けて、虫に見せて魚をおびき寄せる毛針である。魚の種類によって、様々な鳥や動物の毛を使って、大きさを変えながら毛針を作る。

 毛針が登場したのは案外古く、延宝六年(1678年)には、蠅頭、蚊頭という名で使われていたらしい。

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毛針

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毛針に使われる鳥の羽毛

 現代日本の毛針の大部分は、西脇で生産されているらしい。

 日本でも石器時代の地層から、骨角器の釣針が発掘されており、釣りは石器時代から行われていたことが分かっている。

 織物の歴史も釣りの歴史も古いものである。

 西脇の地は、小さい町ながら、古くからの産業を現代化させて今に伝えている貴重な地域であると言える。

和田山西仙寺

 兵庫県西脇市西田町にある和田山西仙寺も、法道仙人が白雉二年(651年)に開基したと伝わる寺院である。法道仙人が、堂塔に仏舎利を安置して、開創したらしい。

 現在は真言宗の寺院となっている。

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西仙寺

 天平勝宝元年(749年)に、播磨国を巡遊中だった行基菩薩が、当寺に立ち寄り、仏舎利から発せられる光明に感嘆し、手ずから十一面千手観音像を刻んで据え付けたという。

 この仏像は、現在秘仏となっている。

 案内板によれば、永正五年(1508年)に本堂宮殿から珠のような汗が流れているのを見た住職が、宮殿を開くと、ご本尊の腕が抜け落ちていたという。腕を修復すると、たちまち汗は止んだそうだ。

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西仙寺案内板

 境内に入ると、正面に山門がある。山門には、持国天毘沙門天の像が安置されている。なかなか古そうな仏像である。一木造で、室町時代頃の制作らしい。

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山門

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毘沙門天

 山門には、四国遍路などでも使用される金剛杖が立てかけられていた。

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金剛杖

 この金剛杖には、西仙寺の焼き印が入っている。西仙寺は、真言宗の播磨四国第一番札所でもある。札所を巡るごとに、各寺院の焼き印を押してもらうのだろう。

 金剛杖は、弘法大師空海の化身と思って大切に扱わなければならないものである。私も、いつか四国八十八ヶ所霊場を歩き遍路するのが夢だが、金剛杖を突いて歩く日はいつ来るのだろうか。

 山門を潜って歩くと、すぐ左手に、真言宗寺院の定番のミニ八十八ヶ所霊場巡りが出来る、四国へんろみちがある。

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四国へんろみち

 さて、西仙寺は、南北朝時代に至って、赤松家の武将赤松則祐の手厚い保護を受ける。則祐は、則祐律師とも呼ばれ、臨済宗に帰依した禅僧でもある。いつ西仙寺が真言宗の寺院になったか分らないが、西仙寺の堂宇を大整備し、応永三十四年(1427年)に当山で入寂した赤松氏出身の良円上人は、東寺の三宝の一人賢宝阿闍梨の弟子であったことから、15世紀前半には真言宗の寺院になっていたのだろう。

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鐘楼

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承応四年(1655年)の梵鐘

 本堂への参道の途中に建つ鐘楼には、三鈷杵が象られた梵鐘がかかっている。この梵鐘には、承応四年(1655年)に、地元の僧侶が銘文を撰したことが記されている。
 本堂は、大永三年(1523年)に建造されたと伝えられる。

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本堂と水吹き銀杏

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 本堂は、兵庫県指定文化財で、天和三年(1683年)と明和五年(1768年)に修理を受けている。

 永禄元年(1558年)に、西仙寺は三木の別所氏の攻撃を受ける。この時、あわや本堂も焼失するかと思われたが、本堂前の銀杏が水を吹いて、本堂の延焼を食い止めたという。

 それ以降、この銀杏は、水吹きの銀杏と呼ばれている。

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本堂

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水吹きの銀杏

 本堂は、正面五間の重量感ある宝形造である。堂々とした建物だ。江戸時代の修復の痕がなければ、国指定重要文化財になっていたであろう。

 本堂の右手には、本堂と同時期の大永年間に建立されたと思しき熊野権現社が建っている。

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熊野権現

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 熊野権現社は、室町期の特徴を持つ茅葺流造の社殿である。兵庫県指定文化財となっている。

 熊野権現社のすぐ脇に、歴代住職の墓と思われる石造五輪塔が林立しているが、その内の一つは、応永三十四年(1427年)に入寂した西仙寺中興の祖・良円上人の墓である。

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石造五輪塔

 この石造五輪塔は、西脇市指定文化財である。

 墓石群の中に、文禄二年(1593年)に築造された、石造釈迦三尊板碑がある。

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石造釈迦三尊板碑

 板碑の上部の円に囲まれたところに、釈迦三尊の種子が彫られている。この板碑も西脇市指定文化財である。

 西脇市で私が訪れた荘厳寺、西林寺、西仙寺は、いずれも真言宗の寺院であった。どれも法道仙人が白雉年間に開いたとされる寺である。この播州の奥地に、中世末期に密教文化が根付いたのが何故か、興味深いところだ。

西脇市 西林寺

 東播磨は、法道仙人開基の寺が多いが、今日紹介する西林寺もその一つである。同寺は、西脇市坂本の山麓にある。

 柏谷山西林寺は、白雉二年(651年)に法道仙人が開いたと伝わる寺院である。平安時代中期に恵心僧都が中興したとされる。今は真言宗の寺院となっている。

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西林寺参道

 西林寺の御本尊は、木造十一面観音立像である。平安時代後期の作と言われている。一木造りで、珍しい四臂の観音菩薩像である。

 この寺は東に向いて建っているので、十一面観音立像は昔から東向観音として信仰を集めた。

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西林寺山門

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仁王の姿

 西林寺の往古の姿はよく分かっていない。宝暦年間(1751~1764年)に火災に遭って堂宇が焼失したそうだ。今ある建物は、明和年間(1764~1772年)以降のものであるらしい。

 西林寺は、あじさい園で名高い。山門を潜って参道を歩くと、左手にあじさい園が見えてくる。訪れた日は、そろそろ紫陽花が咲き始める季節であったが、コロナウイルスのおかげで閉園していた。

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あじさい園

 西林寺には、歓喜天(聖天)も祀られている。西脇聖天と呼ばれている。

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聖天堂の門

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聖天堂

 歓喜天は、象頭人身の像2体が抱き合った姿で現される。男女の交合の姿を思わせるので、秘仏として取り扱われることが多い。

 本堂へのゆるやかな坂道を登っていく。今は緑の季節だが、紅葉の季節は、この参道も紅葉に彩られることだろう。

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本堂へ続く参道

 本堂は、文化年間(1804~1818年)に建てられたものである。

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西林寺本堂

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手挟みの彫刻

 本堂には、兵庫県指定重要文化財である御本尊木造十一面観音立像が安置され、脇侍として不動明王毘沙門天が祀られている。

 本堂の隣には、庚申堂がある。

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庚申堂

 庚申さんは、青面金剛のことだそうだ。西林寺では仏像を拝観することは出来なかったが、仏法の守護神が多く祀られている寺院である。

 唯一拝むことが出来たのが、真言宗寺院の定番である修行大師像である。修行大師像は、どの寺院に行っても、雨風に打たれる屋外に立っている。

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修行大師像

 この修行大師像は、大正時代に作られたものである。

 若いころの空海は、当時の官吏養成のための大学に入って漢学を学んだが、途中で官吏登用の道に疑問を覚えて出家した。そして18歳から24歳まで、私度僧として、吉野や四国の山中で修行の日々を送った。若き日の空海が修行した場所が、後に四国八十八ヶ所霊場として定められた。

 修行大師像は、渡唐して密教の真髄を学ぶ前の、人の役に立つ道や世の真実を求めて、仏典を貪り読みながら山林を跋渉し苦闘した、若き日の空海の姿を現したものである。

 修行大師像は、自分でもまだ掴めない何かを求めて、向上心を持って苦闘する若者を象徴する像として、宗派や宗教を超えた普遍性を持っていると思う。