西脇市西脇にある旧来住(きし)家住宅は、少なくとも兵庫県内では屈指の名邸宅であると思う。私はまだまだ見聞が狭いため、断言できないが、日本全国で見ても、これほどの名邸宅はそうないのではないかと思われる。
建てられてから100年ほどしか経っていないので、現在は国登録有形文化財だが、近い将来、国指定重要文化財となるのは間違いないだろう。
旧来住家住宅は、西脇の名士、来住梅吉が大正7年(1918年)に竣工した邸宅である。
来住梅吉は、明治24年(1891年)に来住萬吉の四男として出生した。梅吉は、大正2年(1913年)に来住家本家の来住弁吉の婿養子になる。弁吉は、明治42年ころから、来住家住宅を建てるため用材の調達を始めていたが、梅吉が婿養子に入った翌年に死去した。
梅吉は、弁吉の後を継いで、来住家住宅を完成させた。
梅吉は、西脇商業銀行を設立し、その後西脇区長や西脇町議会議長などの公職を歴任した。小作人の年貢米の減免や、貧困者への米の無償配布、困窮者の子弟への学資援助、公共施設建築費寄付など、貧困者対策に力を尽くした人だったようだ。
この来住家住宅は、さほど大きなものではない。それでも、邸宅の随所に使用された銘木や、見えないところにも施された和モダンと言ってよい閑雅な意匠は、絵画や茶にも造詣の深かった梅吉の趣味の良さを示しているように思う。
もっとアップで撮影しなかったのを悔やむが、玄関をH型に囲む柱は、一本の欅を分割したもので、木目が非常に美しい。
土間から取次の間、次の間、座敷を眺める。
何気に眺めると見過ごしそうだが、一つ一つの調度がこだわりを持った銘木で作られ、デザインも秀抜である。
取次の間に上がると、縁側の方にある障子には葦が張られ、向う側が透いて見えて涼し気である。
この取次の間は、座して客を迎え、送り出せるよう配慮された部屋である。土間と取次の間の間にある木製の引き戸は、材木名は分らぬが、銘木に違いない艶と美しい木目を持っていた。
取次の間から、次の間に入る。
次の間の鴨井や柱は、洞川(どろがわ)産の白い栂(つが)が使われ、天井には富山産の黒部杉笹杢が使われている。
欄間障子の意匠など、アールデコを思わせる直線基調のモダンなデザインだ。
次の間には、総欅づくりの仏壇がある。
この仏壇上部の供物欄間の意匠は、明治~昭和期に播州で活躍した刳物師市川周道が彫ったものである。
座敷に入る。座敷は当邸で最も格の高い部屋である。座敷と次の間の間の間越(まごし)欄間には、桐が使われている。
座敷の床脇は、床の間を引き立たせるためにある。
アップで撮影していないので、木目が見えないのが残念だが、床脇の地板は竹嶋産の欅玉杢、違い棚には木曽産の松赤味ウヅラ杢、違い棚筆返しは桑、天袋には但馬産の桑が使われている。
床の間は、床柱に北山杉の出絞(でしぼ)丸太を使っている。
床框は黒柿、床の間天井は、屋久杉の矢筈張(やはずはり)である。
付書院もまた豪華である。
付書院の書院板は、木目が美しい欅如輪杢(けやきじょりんもく)、脇板と腰板に遠州神代杉、障子に春日産杉、欄間は桐材で、和歌に詠まれた龍田川の秋景「楓図」が透かし彫りされている。
庭に面した縁側には、栂材を用いて、職人の遊び心を感じる波型の継ぎ目がある。
縁側の欄間が、これまたモダンな意匠だ。
縁側からは、これまた名石を多用した庭園が眺められる。
庭園は、抹茶御三家の薮内宗匠の設計で、庭師今里捨之助が施工したという。庭石、灯籠とも名品揃いであるという。
旧来住家住宅は、現代では入手困難となった銘木が贅沢に使用されている。ヨーロッパの豪邸のように、誰もが豪華だと感じる造りではなく、くすんだ渋さの中に、貴重な価値が輝いているような邸である。
いずれこの邸は、もっと注目されることになると思う。