岡ノ山古墳 住吉神社

 JR加古川線日本へそ公園駅を降りると、そこには、日本へそ公園がある。地名で言うと、兵庫県西脇市上比延町である。

 日本の標準子午線である東経135度と、日本の領土の南端北端の中間である北緯35度が交差するこの場所が、日本の臍であるとして、日本へそ公園が整備された。

 日本へそ公園駅を降りると、目の前に西脇市出身のイラストレータ横尾忠則氏の作品を収蔵展示する岡之山美術館がある。

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岡之山美術館

 岡之山美術館の東には、岡之山があり、その山上には岡ノ山古墳がある。

 岡之山の周囲には、滝ノ上群集墳や、西岡群集墳といった古墳群が密集する。後刻訪れた西脇市郷土資料館に、古墳の分布図が展示されていた。

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古墳分布図

 この図を見ると、岡ノ山古墳を中心にして、多数の古墳が岡之山を取り囲むように分布しているのが分かる。

 岡ノ山古墳の被葬者が、地域のカリスマ的な存在で、その後に現れた豪族が、岡ノ山古墳の被葬者を慕って、その傍に埋葬してもらったかのような配置である。真相は分らない。

 岡之山は、高さ約75メートルの、山というよりは大きな丘のような低山である。

 その山頂部にある前方後円墳が、岡ノ山古墳である。

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岡ノ山古墳の模型

 岡ノ山古墳は、西脇・多可地方唯一の前方後円墳である。全長51.6メートルで、前方部が細長い柄鏡式で、これは古い前方後円墳の形であるらしい。

 古墳が山頂に築かれるのも古墳時代前期の特徴であり、築造年代は4世紀前半ではないかと言われている。

 岡之山には、日本へそ公園にある地球科学館の裏から登ることが出来る。低山であるため、すぐに山頂に至る。

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後円部の円頂

 山頂が即ち古墳後円部の円頂である。そこから前方部を見下ろせば、前方後円墳の形がおぼろげに目の前に立ち現れる。

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後円部から前方部を見下ろす

 反対に前方部から後円部を見ると、ここが人工的に築かれた古墳であると感じることができる。

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前方部から後円部を見上げる

 古代には、加古川に近い岡之山の麓一帯は水田が開け、その収穫のため、この近辺には集落が出来ていたものと思われる。岡ノ山古墳の被葬者は、集落を大きく発展させた人物だったのではないか。

 岡ノ山古墳は、兵庫県指定文化財である。

 岡之山の中腹には、東経135度と北緯35度が交差する地点を4本の柱で囲んだ「日本のへそ」がある。

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「日本のへそ」

 岡之山の北西側の、岡之山美術館と駐車場の間の林の中に、滝ノ上群集墳がある。気を付けて見ないと、方墳、円墳と分らないような古墳ばかりである。

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滝ノ上群集墳20号方墳

 岡之山の東側の林の中には、西岡群集墳がある。私は林の中に分け入ったが、古墳に行きつくことが出来なかった。

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西岡群集墳のある林

 後に西脇市郷土資料館で西岡群集墳のある場所を正確に知った。今でも周濠に水を湛えている円墳もあるようである。

 岡之山から東方に約1.3キロメートル行くと、地域の鎮守である住吉神社がある。

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住吉神社

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住吉神社鳥居

 住吉神社の鳥居は、両部鳥居であった。この鳥居から、本殿まで、清々しい参道が一直線に伸びている。

 この神社に来ると、不思議と神様が私を歓迎しているように感じた。

 住吉神社本殿は、兵庫県指定重要有形文化財である。

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住吉神社本殿

 本殿は、全国的に珍しい、正面が二間の、二間社流造である。正面に、本殿と一体化した切妻造りの拝殿がある。

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拝殿

 この本殿は、棟札から、元禄四年(1691年)に、淡路綱村(現淡路市浦)の大工・平時貞によって建てられたことが明らかになっている。時貞は、播州北条の出身で、北条主馬介や北条播磨守時定とも名乗った。彼は、17世紀後半から18世紀初頭にかけて、今の兵庫県から京都府北部にかけて活躍した淡路綱村の大工集団に属し、その中でも特に活躍した大工であったらしい。

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木鼻の装飾

 この神社は、本殿の形も慎ましく小ぶりで、境内の空気も清浄なものであった。

 小さな地方の神社にも、優しい神威を感じる場所があるものである。

西脇市 兵主神社 

 荘厳寺から車を南に走らせる。

 西脇市黒田庄町岡にあるのが、兵主(ひょうす)神社である。JR加古川線の踏切のすぐ近くに、巨大な鳥居が建つ。

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兵主神社鳥居

 この大鳥居は、昭和になってから建立されたものである。

 社殿によれば、兵主神社は、延暦三年(784年)に播磨掾(はりまのじょう)岡本修理太夫知恒が創建したものであるという。

 祭神は、主神が大己貴(おおなむち)命、配神が、八千戈(やちほこ)命、葦原醜男(あしはらのしこお)、大物主命、清之湯山主三名狭漏彦八島篠命(すがのゆやまのぬしみなはさるひこやしましののみこと)である。最初の四神は、それぞれ大国主命の別名であるが、最後の清之湯山主三名狭漏彦八島篠命は須佐之男命の子、八島士奴美(やしまじぬみ)神の別名であるらしい。いずれにしろ出雲系の神様だ。

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鳥居と神門

 この神社で特色があるのは、黒田官兵衛が寄進した奉納金により、安土桃山時代に建てられた拝殿である。

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兵主神社拝殿

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床板。クロスワードパズルのような板の組合せ。

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 秀吉が三木城の別所長治と戦った時、兵主神社の兵主が、「史記」に出てくる武神の名だったことから、秀吉は、黒田官兵衛に奉納金と燈明田七反を添えさせ、戦勝祈願を行った。神社は、この時の奉納金を使ってこの拝殿を建てたという。

 拝殿には、天正十九年(1591年)建立の棟札がある。天正十九年は、既に秀吉の天下統一が成った後である。

 この茅葺入母屋造りの拝殿は、長床式の平面で、支外桁で軒を支えている。西北隅には小さな祠がある。北側は幣殿に連なっている。

 四方を開け放った、開放的な建物である。蒸し暑い日だったが、拝殿に上がると、風がよく吹き通り、涼しい気分がした。

 床板が、均一な形ではなく、様々な形をした四角形の板の組合せだったが、クロスワードパズルのように緊密に組み合わされていた。

 安土桃山時代の長床式拝殿を伝えるものとして、貴重な建物だそうだ。

 どことなく南洋を思わせる建物で、明るい気分になる。

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幣殿

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本殿

 かつては、神社敷地内に、神仏習合の流れを受けて、明鏡山神通寺が建てられていたそうだが、明治の廃仏毀釈で寺は廃止された。

 神社の前に鐘楼が残っていて、神仏習合時代の名残となっている。

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神社前の鐘楼

 兵主神社拝殿の茅葺屋根は、何度も何度も修復されてきたものだろう。床板や柱や桁は、さすがに古びがついていた。これは安土桃山時代から使われた部材だろう。

 古くからの木造の建物を、修復しながら大切に残していく日本人の文化財に対する姿勢は、いいものであると思う。

西脇市 荘厳寺 後編

 荘厳寺の本堂は、塔頭法音院右脇の苔むした石段を登った先にある。

 私は今迄何度かこの寺に足を運んだことがあるが、この石段には来るたびに息を呑む思いをする。

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本堂への石段

 中世からのままではないかと思わせる、寂びた石段だ。石段の脇には、大師堂がある。弘法大師空海が祀られている。

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大師堂

 石段を登った先に、本堂が見えてくるが、その手前に鐘楼がある。この鐘楼にかかる梵鐘は、慶安年間(1648~1652年)に、姫路城主本多政勝が寄進したものと言われる。

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鐘楼

 鐘楼のある場所から見上げると、急な石段の上に本堂が顔を覗かせている。銅板葺きの屋根が、日光に輝いている。

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本堂

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 本堂は、慶長十六年(1611年)に再建されたもので、ご本尊は、十一面観世音菩薩である。十一面観世音菩薩は、法道仙人の自作と伝えられ、脇壇には法道仙人の立像が安置されているという。

 慶長年間に徳禅上人が再建した本堂だろう。

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側面から見た本堂

 ところで、荘厳寺では、かつて鬼追い行事が行われていた。疫病などの厄払いのために行われた行事である。

 荘厳寺の鬼追い行事は今は行われていないが、鬼の面は今も残されている。

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青大鬼、赤大鬼の面

 荘厳寺の青大鬼、赤大鬼の面は、姫路市にある兵庫県立歴史博物館に展示されている。箱書きには、明和八年(1771年)の記載がある。

 こういう古拙な趣のあるお面はいいものだ。

 本堂の近くに、兵庫県重要有形文化財に指定された多宝塔が聳える。

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多宝塔

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 私が史跡巡りで訪れた6つ目の多宝塔である。

 この多宝塔は、正徳五年(1715年)に建立されたものである。ご本尊として、釈迦如来坐像が安置されている。多宝塔は、元々は建久年間に源頼朝に仕えた佐々木高綱が建てたと伝わっている。

 多宝塔のすぐ下に、宝永五年(1708年)に再建された三社八幡宮がある。山の鎮守の神様を祀ったものだ。

 元々は、室町時代に建てられたらしい。覆い屋で覆われ、保護されている。

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三社八幡宮

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 荘厳寺は、青葉の匂う今の季節もいいが、紅葉の秋に訪れてもいいように思う。

 真言密教は、生命賛歌の宗教と言っていいが、真言密教の寺院を訪れると、少し力強さをもらったような気分になる。

西脇市 荘厳寺 前編

 兵庫県西脇市黒田庄町黒田にある荘厳寺は、真言宗高野山派の寺院である。寺伝では、白雉年間(650~654年)に、法道仙人が開基したと伝わる。

 慶長年間(1596~1615年)に、徳禅上人が当山に入り、荒廃した寺を真言宗の寺院として再興した。盛時には参道に10もの塔頭が並んでいたそうだ。

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荘厳寺塔頭法音院

 荘厳寺は、黒田庄町黒田の集落の最奥にあり、山に抱かれるようにして建っている。寺域の最も低い場所には、現在唯一残る塔頭の法音院がある。弘化三年(1846年)の再建である。

 この荘厳寺が、近年にわかに脚光を浴びるようになったのは、黒田官兵衛孝隆(孝高)の出身地が、ここ黒田の集落であるという新説が世間一般に流布しだしたことによる。

 荘厳寺は、黒田官兵衛黒田庄町黒田の出であることを示す「荘厳寺本黒田家略系図」を所蔵し、荘厳寺の裏手の山上には、官兵衛出生地とされる黒田城址がある。

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法音院山門

 問題を整理するため、先ずは黒田官兵衛の出自についての通説を書く。

 福岡藩の初代藩主は、黒田官兵衛の子・長政である。福岡藩の公式な記録の「黒田家譜」は、寛文十一年(1671年)に三代藩主・光之の命により、貝原益軒が編纂を始めた。完成は元禄元年(1688年)である。

 「黒田家譜」によると、黒田家の出は、近江国伊香郡黒田村で、近江源氏の佐々木黒田判官宗清が黒田家の祖であるという。

 その後黒田家は、足利将軍家の怒りを買って所領を失い、同族を頼って、備前国邑久郡福岡に移住した。官兵衛の祖父重隆の代に播磨国に移り、赤松氏配下の御着城小寺政職に仕え、姫路城代になった。官兵衛の父職隆(もとたか)も姫路城代を継ぎ、官兵衛は姫路城で生まれた。

 司馬遼太郎の「播磨灘物語」も、「黒田家譜」の記載に全面的に依拠しており、これが通説として定着した。

 当ブログの今年1月18日「瀬戸内市 妙興寺 仲﨑邸」の記事に書いたが、備前国福岡の妙興寺には、官兵衛の曽祖父黒田高政の墓所がある。

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法音院

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法音院の石庭

 ところが、「黒田家譜」完成から約100年後の天明三年(1783年)、姫路城下の心光寺住職入誉が、現在の姫路市飾磨区妻鹿で官兵衛の父職隆の墓所を発見したと福岡藩に上申した。福岡藩役人が現地を調査の上、翌天明四年十月に墓所に廟屋をかけ、廟所整備を行った。

 福岡藩役人は、享和二年(1802年)に、現在の姫路市御着の地に官兵衛の祖父重隆の廟所を整備した。福岡藩がこの際に播磨で行った調査結果は、文政十二年(1829年)に「播磨古事」という書物にまとめられた。

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「黒田家略系図」展示場

 「播磨古事」によれば、福岡藩士は播磨国多可郡黒田村を訪れた。そして、そこで聞き取った内容を記録した。

 多可郡黒田村の伝承によれば、赤松円心の弟である赤松円光の子、七郎重光がこの地にあった黒田城に移り、黒田氏を名乗った。重光が黒田家の初代であるという。

 第八代城主黒田重隆の子に、治隆、孝隆の兄弟がいた。治隆は家督を継いで黒田城九代城主となったが、近隣からの攻撃により黒田宗家は滅亡した。この時孝隆は黒田城を脱出し、御着城主小寺職隆の養子となったという。この孝隆がすなわち官兵衛だという。

 「播磨古事」は、現在福岡市博物館に所蔵されている。「播磨古事」には、「福岡藩黒田家には、この(播磨に伝わる)ような記録や伝承はないが、今後調査する必要がある」と書かれているそうだ。

 更に文化六年(1809年)、多可郡に住んでいた黒田家と姻戚関係にあると伝わる家の子が、赤松円光から黒田孝隆までの歴代を記した系図を荘厳寺に奉納した。これが、「荘厳寺本黒田家略系図」である。

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黒田家略系図の冒頭

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黒田家略系図の末尾

 荘厳寺では、この「黒田家略系図」の写しを展示している。見ると、なるほど初代円光から、九代治隆と孝隆まで記載されている。

 通説では官兵衛の祖父である重隆が、播磨説では実は実父で、通説で官兵衛の実父とされる職隆が、播磨説では小寺家の人で、官兵衛の養父となっている。

 当ブログ令和元年9月8日の「姫路市御国野町」の記事で、福岡藩によって御着の地に建立された黒田家廟所を紹介したが、この廟所には、通説では官兵衛の祖父とされる重隆と、実母とされる明石氏の廟を並べて建てている。つまり、舅と嫁が並べて祀られていることになる。これは不自然である。どう見ても、これは夫婦として祀ってある。享和二年に黒田家廟所を建立した福岡藩役人は、播磨説に与して重隆を官兵衛の実父と考え、この廟所を建てたのかも知れない。

 ここまで書いて、通説と播磨説のどちらが正しいのか考えてみた。播磨人である私は、心情的に播磨説に与したいが、どう考えても播磨説の方が分が悪い。

 常識的に考えて、その家に伝わる伝承が最も信憑性がある。「黒田家譜」が編纂された17世紀後半は、黒田家の中に、まだ藩祖黒田官兵衛孝高、初代藩主黒田長政の記憶が鮮やかに残っていた筈である。官兵衛は、子の長政に、自分の祖父や実父がどんな人であったかを語っていた筈である。その藩主の家の伝承に反する内容が、藩の公式記録である「黒田家譜」に載る筈がない。つまり「黒田家譜」は、黒田家に伝わった伝承に最も近い筈である。

 一方播磨説は、官兵衛が没して約170年後に播磨を訪れた福岡藩士により「発見」された説である。「荘厳寺本黒田家略系図」に至っては、官兵衛没後約200年後に作成された系図である。

 官兵衛が生きていた時代に近い記録の方が信憑性があるのは、これまた当然である。

 歴史に新説が出ることは、面白いことである。それによって研究や調査が進み、事実が特定されていくのならば、歓迎すべきことである。

 世に事実は一つしかないので、通説と播磨説のどちらかは事実と異なることになる。どちらが事実かは分らないが、自分の祖父と実父が生きた事実を捻じ曲げる説を見て、草葉の陰で官兵衛は苦笑しているのではないか。 

東山古墳群

 兵庫県多可郡多可町中区東山にある兵庫県立多可高等学校の西側に、お饅頭のような円墳が15基復元されている。古代多可の豪族が眠っていた東山古墳群である。

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東山古墳群

 東山古墳群は、平成8~11年に発掘調査された。その結果、6世紀末~7世紀前半に築かれた古墳群であることが分かった。

 古墳群の中で最大の古墳は、1号墳である。

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1号墳

 1号墳は、直径約30メートル、高さ約7メートルで、周囲にはテラス、周濠が巡らされている。石室は左片袖式で、全長約12.5メートル、兵庫県下でも最大規模の石室空間を有する。

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1号墳の石室

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 石室の床面には川原石が敷き詰められ、土器類や鉄鏃、大刀などの武具類が出土した。

 1号墳は、6世紀末に築かれ、その後何度も木棺による追葬が行われた。7世紀の終わりころまで約100年に渡り祭祀が行われていたようだ。

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1号墳の祭祀想像図

 この1号墳の築造が、東山古墳群の築造の契機となった。

 今ある東山古墳群の古墳は、石室が崩れてしまっているものが多い。10号墳などは、石室がきれいに残っている。発掘調査時に整備されたのかも知れない。

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10号墳

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10号墳石室

 古墳の石室を見ていつも圧倒されるのは、天井石の巨大さである。古墳の石室は、古代の偉大な記念碑だと思う。

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14号墳

 東山古墳群の中で、1号墳の次に規模が大きいのは、15号墳である。

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15号墳

 15号墳が築造されたのは、7世紀半ばで、最末期の古墳である。石室からは、盗掘の跡が甚だしいとは言え、土器類や武具類、耳輪、木棺の釘などが多数出土している。発掘調査の結果、羨道と玄室の境部に木棺を置いて、その脇に土師器の甕を据えていたことが分かった。

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15号墳石室入口

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15号墳石室

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 石室の中には、出土状況から類推される埋葬状況が復元されている。川原石による敷き石も、きれいに復元されている。

 さて、東山古墳群の隣には、多可町中区の遺跡から発掘された遺物を収める、那珂ふれあい館がある。

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那珂ふれあい館

 那珂ふれあい館には、東山古墳群から発掘された遺物も多く展示してあるが、中でも目を引くのが、12号墳の石室から発掘された陶棺である。

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12号墳発掘の陶棺

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陶棺発見状況

 それにしても、こんな巨大な陶器を作るのは、どんなに大変なことだったろう。

 1号墳から出土された装身具なども展示してある。

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装身具

 また、古代の中区には、郡役所などがあったが、それらの遺跡である思い出遺跡からは、須恵器などが発掘されている。

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思い出遺跡出土子持ち高坏

 那珂ふれあい館の西側の山中に、7世紀前半築造の村東山古墳があるが、そこから出土した組合せ式家形石棺が、那珂ふれあい館の前に展示してある。

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組合せ式家形石棺

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 石材は、石質が柔らかく加工しやすい凝灰岩が使われている。長さ208センチメートル、幅91センチメートル、高さ90センチメートルの石棺である。近くで見ると、なかなかボリュームがある。この石棺は、兵庫県指定文化財となっている。

 今日見た古墳や遺物は、全て人間の死に関わるものばかりである。豪族ではない庶民は、もっとささやかに埋葬されたのだろうが、財力のある豪族は、死後の自己を飾り立てた。人は、自分が生きた痕跡を残したがる生き物である。

多可町中区の寺院

 今年3月22日以来、約2か月半ぶりに史跡巡りに出掛けた。今日まず訪れたのは、兵庫県多可郡多可町中区の寺院である。

 多可町は、平成17年に多可郡の中町、八千代町、加美町が合併して誕生した自治体である。合併後、それぞれの町は区として名称を残すこととなった。中区は、多可町の中心街である。

 中区は盆地であるが、古代から、この盆地は地域の中心であったらしい。

 スイフトスポーツは、相変わらず快調である。父の形見のドライビンググローブを着けて自宅を出発する。

 最初に訪れたのは、中区坂本にある鳳泉寺である。

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鳳泉寺

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鳳泉寺庫裏

 鳳泉寺は、白鳳時代に法道仙人が開山したと伝えられる。現在は臨済宗の禅寺である。

 来歴はよく分らないが、天正年間(1573~1592年)の野間城合戦の際に、焼亡したそうだ。

 嘉永年間(1848~1854年)には寺小屋が開かれていたらしい。写真の庫裏が、寺小屋として使われていたことだろう。

 鳳泉寺の本堂には、兵庫県指定文化財の、木造聖観音立像が祀られている。

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鳳泉寺本堂

 木造聖観音立像は、11世紀初頭、平安時代中期の作とされる。華奢な細造りの仏像らしいが、北播磨の仏像の中では出色の出来栄えであるそうだ。拝観は出来なかった。

 次に訪れたのは、中区天田にある量興寺である。

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量興寺

 ここは現在は高野山真言宗の寺院となっているが、推古天皇の御願所として建てられた多哥寺が前身である。

 昭和55年の発掘調査によって、量興寺一帯から、7世紀の瓦や、青銅製の相輪の破片などが見つかった。

 調査の結果、回廊に囲まれ、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ四天王寺式の巨大な寺院がここにあったことが確かめられた。

 発掘された遺物は、中区の歴史資料館である那珂ふれあい館に収蔵されている。

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多哥寺の伽藍配置

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多哥寺の軒丸瓦

 ここに朱色に塗られた柱を持つ七堂伽藍があったことを想像してみる。当時の多哥寺は、旧多可郡(現在の多可町、西脇市一帯)の信仰の中心だったことだろう。

 現在の量興寺境内には、多哥寺の五重塔の心礎が残されている。

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多哥寺五重塔の心礎

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 五重塔の心柱を受けた穴は、直径約95センチメートル、深さ約20センチメートルである。なかなかボリュームのある石である。此の上に、如何に高い塔が建っていたか偲ばれる。

 多哥寺は次第に衰退していったが、この一帯が皇室御料であったこともあり、第74代鳥羽天皇の御宇に、民部卿九条顕頼が伽藍を建立し、量興寺と名付けた。

 その後、皇室が手厚く保護したことにより、量興寺の寺格も著しく上がり、近郷随一となったが、中世に入り、再び荒廃した。

 天正六年(1578年)、地頭矢田部長久が量興寺の荒廃を嘆いて本堂を建立し、薬師如来を安置し、良遍上人を招いて開山した。これが今に続く量興寺である。

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量興寺庫裏

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 量興寺の庫裏は、茅と瓦葺の、美麗な建物である。

 薬師如来を祀る本堂は、銅板葺きの小ぶりな建物である。

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量興寺本堂

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本堂木鼻の彫刻

 境内は躑躅が花盛りであった。

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境内に咲く躑躅

 また、私の好きなイチョウの木があった。緑の葉が青々と茂る夏のイチョウもいいものである。

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境内のイチョウ

次なる目的地は、中区門前にある瑞光寺である。ここは臨済宗の禅寺である。

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瑞光寺山門

 瑞光寺の山門は、無粋にもブルーシートで覆われていた。

 瑞光寺は、赤松則祐が、元弘二年(1332年)に母の菩提を弔うため、夢窓国師を招いて開山した寺である。

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瑞光寺の寺容

 天正三年(1575年)7月、瑞光寺は、別所長治の攻撃により炎上した。天和三年(1683年)、京都天龍寺から夢窓国師十世の法孫文礼禅師が来て、寺を再建した。享保十七年(1732年)、失火により寺は再び焼けたが、その後再建され、現在に至っている。

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瑞光寺庫裏

 庫裏は禅宗様式の簡素で堂々としたものである。

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瑞光寺本堂

 境内を散策すると、裏手に善光寺如来の石像があった。

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善光寺如来

 信州善光寺阿弥陀三尊像を模したものだろう。

 庫裏の裏には、池泉式の庭園がある。近づくと蜥蜴が走り、池に蛙が飛び込んだ。

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池泉式庭園

 瑞光寺は、紅葉で著名な寺である。秋に来れば、また趣が異なるだろう。

 今回父の不幸があって、地元の真言宗の寺院に大変お世話になった。実際に自分が寺院のお世話になって、いかに寺院が地域の文化にとって大切な役割を果たしているかが実感できた。

 寺院は地域の人々の心の拠り所であると同時に、人々を地域の歴史に結び付ける役割を果たしている。

家族の歴史

 ここ最近、コロナウイルスによる緊急事態宣言の影響もあるが、私事のせいもあって、ブログ記事の更新が出来なかった。

 私事というのは、私の父が亡くなったことである。父の病気と死をきっかけに、私は今まで興味のなかった父の仕事を調べてみた。その結果、社会の最小単位である家族と歴史とのつながりについて考えさせられたので、そのことを書いてみたい。

 私の父は、昭和19年生まれで、大学の工学部を卒業して、昭和43年1月に建設会社に入社し、以後土木技師として働いた。

 父の主な仕事は、トンネルの建設であった。

 父が入社した昭和43年ころは、国鉄山陽新幹線の工事が行われていたころである。新幹線は、まだ東京から大阪までしか開通していなかった。大阪から博多までの工事が進められていた。

 入社してすぐの父は、兵庫県相生市にある国鉄相生駅のすぐ西側の宮山に、山陽新幹線用のトンネルを建設する工事に従事することになった。今、宮山隧道と呼ばれているトンネルがそれである。

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兵庫県相生市 宮山隧道

 父の話では、この宮山は岩盤が強固で、掘削に非常に苦労したという。

 ちなみに、この宮山隧道の工事現場の事務所に、私の母が働きにきていて、そこで私の両親が出会った。

 その後の父は、全国の工事現場を渡り歩き、私たち家族も父について全国を転々とすることになった。

 父が従事した大きな工事現場は、時代順に書くと、広島県三原市山陽新幹線吉行山トンネル工事、新潟県南魚沼郡大和町上越新幹線浦佐隧道工事、新潟県岩船郡山北町国鉄羽越本線八幡山トンネル工事、青森県東津軽郡三厩村青函トンネルに接続する第二浜名トンネル工事、愛媛県川之江市の四国横断自動車道山田井トンネル工事、鳥取県日野郡溝口町の中国横断自動車道根雨原トンネル工事、長野県東筑摩郡麻績村の長野自動車道一本松トンネル工事、福井県大飯郡おおい町舞鶴若狭自動車道父子トンネル工事などである。

 国鉄羽越本線八幡山トンネル工事からは、父は現場責任者となり、工事全体を指揮するようになった。

 八幡山トンネルの現場は、すぐ近くに日本海が見えて、かなたに浮かぶ粟島が眺められる風光明媚な場所だが、ある時2~3日父が現場に泊まり込んで家に帰ってこないことがあった。大人になってから聞いたが、この時は、トンネル掘削中に、山が動揺し、トンネル全体が崩落するおそれが出たそうである。父は部下にトンネル外で待機するよう指示し、工事が続行可能かどうかを最終判断するため、崩れそうなトンネルに1人で入っていった。ところが父が振り返ると、待つように言われていた部下が皆父についてトンネルに入ってきていたそうだ。これには父も思わず目頭が熱くなったという。結果的に工事は続行可能であると分かり、トンネルは完成した。

 父の勤務した会社の百年史を読むと、青森県東津軽郡三厩村の第二浜名トンネル工事では、昭和59年1月の寒風吹き荒ぶ悪天候の中、トンネルの掘削が始まったという。青函トンネル開通に間に合わせるため、猶予はなかった。当時私は小学4年生だったが、家に帰るとゆったりしている父が、まさかそんな仕事をしているとは思いもよらなかった。

 こうして、父の工事現場の経歴を見て、ひとつ気づいたことがあった。昭和時代は、山陽新幹線上越新幹線のトンネルや、青函トンネル、瀬戸大橋と接続する鉄道、道路のトンネルと、現代日本の国土の骨格を成した鉄道、高速道路のトンネル工事に関わり、平成に入ってからは、順次整備されていった地方の高速道路のトンネル工事に従事したということである。これは、戦後日本の国土の発展の歴史である。

 父の転勤に従って、家族も引っ越したが、その場所その場所に様々な思い出がある。

 父の仕事を調べて、そんな私たち家族の小さな歴史と、日本の国土発展の歴史がリンクしていることに気づいた。

 どんな家族にも、かけがえのない忘れられない思い出があると思う。私は以前当ブログで、人が集まれば歴史が生まれると書いたが、社会の最小単位である家族の中にも当然歴史はある。世の中のほとんどの人は、家族に所属し、家族の歴史を経験したことがある筈である。

 そしてどんな家族の歴史も、必ず外の世界の大きな波をかぶり、その影響を受けている。そんな家族が集合して、私たちの社会が構成され、歴史が織り成されている。そう思えば、歴史は尊いものである。

 父の死を機に、そんなことを考えさせられた。そして家族を守り続けた父のことを考えた。

 ところで父は末期がんで、しばらく病院に入院していたが、人生の最後を自宅で迎えることを強く希望した。退院の日、父は介護タクシーを呼ぶことを拒否し、私の車で自宅に帰ることを望んだ。私たち家族は、看護師から、最悪の場合、病院から自宅に帰る途中に車内で絶命する可能性があると告げられた。

 歩くこともままならなくなった父を、スイフトスポーツの倒した助手席に寝かせ、実家に戻った。父との最後の思い出があるZC33Sスイフトスポーツは、図らずも私にとって捨てられない車になってしまった。

 父は若いころから車が好きで、働いていたころは、週末になれば、単身赴任先から数百キロの道のりを車に乗って帰って来た。

 長い道のりを運転して自宅に戻り、くつろいで酒を飲んでいる時の父は、いつも機嫌が良かった。

 スイフトスポーツを買ったとき、車好きの父に見せに行った。いつか父と2人でどこかへドライブ旅行に出掛けたいと思っていたが、その望みは叶わなくなってしまった。

 父の死後、父が乗っていた車を廃車にするため、車内を掃除していると、父が約30年前から使っていたドライビンググローブが出てきた。

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 父とのドライブは出来なくなったが、これからせめて父の形見のドライビンググローブをつけて、スイフトスポーツを走らせていきたいと思う。