兵庫県西脇市板波町にある石上(いそがみ)神社の御祭神は、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮の御祭神布都御魂神(ふつのみたまのかみ)の御分霊である。
この神社の創建は、社伝では、一条天皇の御宇である正暦三年(992年)とされている。
石上神社は、過去には岩上(いわがみ)大明神と呼ばれていた。石上神社本殿の背後には、巨大な岩がある。この地で原始から行われていた磐座信仰が、この神社の起源だろう。
この巨岩からは、平安時代の瓦片などが見つかっており、言い伝えの通り平安時代には社殿があったことが窺われる。
岩上大明神は、昭和15年に、正式に石上神宮の分霊社となり、社名を石上神社に変更した。
拝殿には、石上神宮の水彩画が奉納されている。
ところで、石上神宮の御祭神の布都御魂神は、初代神武天皇が国土平定のために帯びていた神剣韴霊(ふつのみたま)の神霊とされている。
「ふつ」とは、剣で物を斬る時の音を表している。
神武天皇は、東征の砌、熊野灘から本州に上陸したが、土地の悪鬼邪霊のために進軍が出来なくなった。天照大御神は、建御雷神が帯びていた韴霊を、高倉下(たかくらじ)命を通して神武天皇に授けた。
この神剣の霊威により、悪鬼邪霊は払われ、神武天皇は大和平野に向けて進軍することが出来た。
韴霊は、神武天皇即位後、物部氏の祖先によって宮中に祀られていたが、第10代崇神天皇の代に、物部氏の祖伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、現在石上神宮の建つ地に遷してお祀りした。
韴霊は、長い間石上神宮拝殿裏の禁足地に埋められていると伝えらえていたが、明治7年に宮司が禁足地を発掘すると、何と本当に鉄剣が出て来た。神職たちは、これこそ韴霊であると畏れかしこみ、大正2年に本殿を建立して御神体として祀った。
私も奈良の石上神宮に2度足を運んだことがあるが、楼門を潜って境内に入ると、空気を切り裂くような緊張した神威が漲っているように感じた。あの空気感は独特である。
神武東征伝承を考えると、日本は剣によって切り開かれた国であると言える。日本人が刀剣を神聖なものとして扱うのも、この伝承から来ているのではないか。
西脇の石上神社の境内には、奈良の石上神宮のような緊張した空気はなく、どことなく大らかな空気を感じる。
現在の社殿は、享保年間(1716~1736年)の建築で、寛政元年(1789年)に修復された。
銅板葺きの簡素な佇まいの社である。
この石上神社には、「なまずおさえ神事」という神事が伝えられている。
天文十一年(1542年)に、盗人によって石上神社に奉納されていた白鞘の小刀が盗まれた。盗人は、逃げる途中、小刀を持ったまま野間川に落ちて死んだ。氏子の代表らは、占い師が示した野間川の姫滝に潜水夫を潜らせて、三日目にようやく滝壺の岩陰に白く光るものを発見した。白布で包んで神前で広げたが、そこに刀の姿はなく、大ナマズが横たわっていたという。
それ以降、石上神社では、秋の大祭日に氏子達が神前で潜水夫などに扮し、木綿にくるんだ刀を捜す様子を再現して、神様に今でも刀を捜し続けていることを報告する儀式を行うようになった。
拝殿前の土俵が、その神事が行われる場所である。
今、西脇市の観光地には、西脇市観光協会が建てたイラストを交えた説明板がある。この説明板に、神事のイラストが描いてあった。
日本の神事は、どことなくユーモアのあるものが多い。神様を喜ばすことが神事の由来となっている場合は、厳粛な神事の中にも笑いを誘うようなものが入ることになるのだろう。
日本の神々は、どうも笑うのがお好きなように私には感じられる。