西山北古墳から南下し、兵庫県南あわじ市賀集八幡にある真言宗の寺院、賀集山護国寺に赴いた。
護国寺の前には、この地を出身地とする明治の音響学者田中正平の顕彰碑がある。
田中正平は、明治17年8月に、横浜港から出港したメンザレー号に乗船し、欧州を目指したヨーロッパ留学生一行の1人であった。
この留学生一行の中に、鷗外森林太郎もいた。留学生一行には、後に医学、音響学、憲法学、法医学、医化学、薬学などの日本の各学界を支えることになる一級の人物が揃っていた。
田中正平は、ドイツ留学中に純正調オルガンを考案し、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世から「今世紀最大の発明」と絶賛されたという。
鷗外は、メンザレー号乗船中に、留学生一行の特徴を謳った「日東十客歌」という漢詩を作った。
田中はその中で筆頭に上げられ、「田中快談撼山嶽(田中の快談は山嶽を撼かし)」と歌われている。話好きな人物だったようだ。
さて、護国寺の仁王門に向かって歩き始めた。
護国寺は、貞観元年(869年)にこの地を訪れた行教上人が開基したと伝えられている。
中世、近世には、隣接する賀集八幡神社を管理する別当寺であった。
境内の入口にある仁王門は、明治6年に頼長上人により改築されたが、その後損傷が甚だしくなり、昭和46年に再建された。その際、柱は全て鉄筋コンクリート製にされた。
仁王門の隣には、阿弥陀如来を本尊とする本地堂が建つ。本地堂の棟瓦には、甘露堂と書かれている。
本地堂は、それほど古い建物ではない。平成8年に建ったものである。
ここには、賀集八幡神社の祭神の八幡大神(中世、近世には八幡大菩薩と呼ばれた)の本地仏である阿弥陀如来坐像を祀っている。
神仏習合の考えでは、八幡大神は、阿弥陀如来が仮に神様として現れた姿となる。
南あわじ市に来て寺社巡りをするとすぐに気が付くが、寺院の隣にほぼ必ずと言っていいほど八幡神社が祀られている。
ということは、八幡神社の隣の旧別当寺には、必ず本地仏の阿弥陀如来が祀られていることになる。
南あわじ市は、日本有数の瓦の産地である。本地堂の唐破風の上には、護国寺本堂に祀られている布袋尊の瓦が載っている。
本地堂の建物は、平成の御代の築だが、本尊の阿弥陀如来坐像は平安時代後期の作、両脇侍の毘沙門天立像と不動明王立像は鎌倉時代の作である。
古い仏像には威厳がある。本地堂に入って、思わず襟を正した。
仏像の上の天井は、折上格天井になっている。豪華な空間だ。
私はここでも十念(南無阿弥陀仏の名号を十遍唱えること)を唱えた。
また、本地堂には、丹後国与謝郡筒川庄菅野にあった真言宗の寺院、成就院の本尊・不動明王像などの神仏像が安置されている。
恐らく廃寺になった成就院の神仏像を引き取ったのだろう。
今後少子高齢化の進行により、地方の檀家が消滅し、廃寺が増えることだろう。行き場を失った仏像が、別の寺院に引き取られることが、今後も増えてくることだろう。
仏像は物理的には単なる木材である。だが、人々の祈りや願いが形となって現れたものである。
そう考えると、たかが木像と言えども、粗末に扱うことは出来ない。
仏像を中心にしたお堂があり、その周囲に本地仏の権現を祀る神社が存在する日本列島には、未だに中世の信仰の形が生きているとも言える。