神池寺の常行堂の奥には長い石段が続いている。本堂まで続く石段である。
苔むした古びた石段である。両側に鬱蒼とした木々が生い茂り、いい雰囲気だ。
石段を登っていくと、仁王門が見えてくる。
江戸時代以降に再建されたものだろう。
仁王門を通り過ぎると、右手に不動明王を祀った不動堂がある。
この不動堂は、神社建築でいう春日造の様式で建てられている。神池寺境内には、過去に春日明神が勧請され、本堂の近くに春日神社が祀られていた。
明治初年の神仏分離令で、神池寺の春日神社は廃止されたようだが、この春日造の不動堂は、かつて春日神社の建物として使用されていたものだったのではないか。
不動堂の正面には不動明王が右手に持つ剣が掛けられている。
人間の煩悩を破砕する剣である。
ここに祀られる不動明王像は、毎年元旦に開扉され、公開されるようだ。
不動堂の脇には鐘楼堂がある。
鐘楼堂に掛かる梵鐘には、文禄二年(1593年)十月十四日の銘や、大工中村真継家政の名などが刻まれているという。
明智光秀による焼き討ちの後に鋳られた梵鐘だ。
正面の本堂は、桁行五間、梁間五間の堂々たる建物である。
本堂に祀られる木造千手観世音菩薩像は、法道仙人が祀ったものではなく、室町時代以降に制作された檀像彫刻であるらしい。
檀像彫刻は、白檀などの材料を使って彫られた彫刻で、緻密な細工が特徴である。拝観してみたかった。
本堂脇には行者堂がある。
行者堂は、修験道の開祖役小角を祀る建物である。妙高山も山岳修験の霊地だった過去があるのだろう。
行者堂の前にある狛犬の台石には、「奉寄進神前」と刻まれている。かつて春日神社の社頭に置かれていた狛犬だろう。明治の神仏分離令で春日神社が廃絶された後、ここに移されたものだろう。
明治政府は、神道から仏教の要素だけでなく、素朴な民間信仰の要素も徹底排除しようとした。皇祖神を中心とする記紀神話を日本の信仰の中軸に据えようとした。
江戸時代まで、日本の村落の入口には道祖神が祀られていた。村に悪霊が入ってこないようにするためのおまじないであった。このような記紀神話に出てこない民間の神様は、明治政府によって廃絶されることになった。
そのため明治に入って道祖神の像の大半は破壊された。かつてはありふれていた道祖神の像を今見つけるのは困難である。
明治政府はそれだけでなく、盂蘭盆会やお彼岸といった民間の習俗も禁止し、道端のお地蔵さまも破壊しようとしたが、これはさすがに民衆に根付いていて根絶することが出来なかった。
古くから民間の中に根強く残る信仰こそが、本当の伝統である。明治政府が「復興」したという国家神道は、近代になって新たに創造された「伝統」であろう。
大日本帝国は、この新たに創造された伝統により統御された精神共同体だった。
民衆に根付かない伝統は、いずれはなくなってしまう。大日本帝国が創造した伝統が戦後の日本で主流にならないのは、GHQによる神道指令等の影響もあるだろうが、元々日本人に根付いた伝統でなかったからだと思われる。
自然現象や、自分たちの祖先や、過去の偉人や、人に害をなす何か怖いもの、このような偉なるものへの素朴な畏れが、日本人の信仰の根底にあると思われる。
教義や思想に関係なく、この世界に、目に見えないが頭を下げるべき何か畏むべきものがあるという感覚が、日本の民衆に根付いた信仰感覚だろう。