富丘八幡神社 前編

 土庄町渕崎甲の街並みを東に行くと、国道436号線沿いに富丘八幡神社の鳥居がある。

富丘八幡神社の鳥居

 富丘八幡神社は、小豆島に五つある五社八幡宮の一つで、鳥居の先にある八幡山という小さな丘の上に鎮座する。

 一の鳥居を潜って参道を歩いていくと、小学校の校庭のような広い空間があり、それを馬蹄形に囲むかのように、八幡山の麓に築かれた石垣造りの桟敷がある。

 土庄町指定文化財の富丘八幡神社の桟敷である。

富丘八幡神社の桟敷

 富丘八幡神社の桟敷は、江戸時代中期に、地元の氏子たちが、神社の祭礼や流鏑馬といった行事を見学するために造ったものである。

 最盛期の大東亜戦争前には、全部で420面の桟敷があったが、今は360面まで減っている。

 とは言え、小豆島最大の桟敷であるらしい。

富丘八幡神社の桟敷

 祭りの当日になると、地元の家族連れが桟敷に茣蓙でも敷いて座り、弁当を啄んだり酒でも飲んだりしながら、見学することだろう。

 兵庫県姫路市白浜町にある松原八幡神社は、灘のけんか祭りで有名だが、松原八幡神社にも大規模な桟敷席がある。

 だが松原八幡神社の桟敷席は、プラスチック製のベンチで作られている。

 こんな古風で壮大な石垣造りの桟敷は、今まで目にしたことがない。

 これはこれで、特異な景観である。

桟敷中央の石段

 さて、桟敷の中央の石段を上がっていくと、そのまま富丘八幡神社の参道につながっている。

 参道の坂道を上がっていくと、二の鳥居がある。

二の鳥居

 二の鳥居を潜って更に参道を上がっていく。

参道

 参道を進んでいくと、境内の入口である楼門に登る石段の下に至る。

楼門に登る石段

 この石段の下から南を眺めると、眼下の池田湾から四国までを望むことが出来る。

 小瀬石鎚神社に並ぶ小豆島有数のビューポイントであろう。

池田湾と四国

大余島

 美しい風景を眺めて、満足した。

 石段を上がっていくと、楼門と手水舎がある。

楼門と手水舎

 この楼門に、陸軍船舶特別幹部候補生隊・暁部隊の隊員が、昭和20年の終戦に際して、同隊が兵舎としていた建物の壁に鮮血をもって書いた血書の写真が展示されていた。

 同隊が兵舎としていた建物は、戦後東洋紡績渕崎工場女子寮として使用されていたが、平成12年12月5日に解体された。

 解体に際して建物の壁に貼られた新聞紙をはがすと、この血書が現れたという。

陸軍船舶特別幹部候補生隊・暁部隊の隊員が書いた血書の写真

血書を活字化したもの

 暁部隊の隊員は、昭和18年9月から昭和20年8月まで、小豆島にて訓練に励み、ついに特別攻撃隊(おそらく飛行機ではなく、ボートによる水上特攻であろう)参加の命を受けたようだ。

 隊員は、本土決戦に際し、一億特攻の先駆けとなることを決意していたようだ。

 だが、昭和天皇が発した終戦の大詔(おおみことのり)により、大東亜戦争終結した。

 血気にはやる隊員の一人は、この寮を去るに際して、憤懣やる方ない気持ちを、自らの鮮血を以て壁にしたためたのだろう。

楼門から眺めた池田湾

 この血書を読むと、現代の日本人と当時の日本人の間に、相当な感性の違いがあることが実感出来る。

 この血書を書いた隊員が、どのような気持ちで戦後を生きたかは分からぬが、この血書の気持ちのままで生きていたならば、戦後の日本は、彼が考える「日本」とは違う国になったと感じただろう。

 この血書に書かれた「尽忠」や「純忠」という観念は、今の日本には存在しないと言ってよい。

 そもそも、天皇ご自身が、国民の尽忠や純忠(つまり皇国に捧げる死)を望んでおられない。

 戦前に、これだけスローガンのように叫ばれた忠義という観念が、戦後跡形もなくなってしまったところを見ると、この忠義という朱子学から来た観念は、日本の伝統とそもそも無関係なものだったと思わざるを得ない。

 日本の根から始まった伝統であるならば、時代が変わっても、教育が変わっても、残った筈である。残らなかったことを思うと、やはりこの観念は、日本の真の伝統ではなかったのだと思われる。

 日本の会社組織や地域社会に今も残る村社会的な空気は、戦後になっても残った。

 時代を超えて残るこの様なものこそ、日本の伝統であろう。

 とは言え、一時代のある日本人が、この血書に書かれた様な気持ちを抱いて生活していたことも、否定できない日本の歴史の貴重な一部である。

 当時の日本人が、忠義という観念の下、凄まじい力を発揮したことは、畏敬すべきことである。