玉兎門を潜って真っ直ぐ北上すると、妙高閣という建物がある。
妙高閣は、鉄筋コンクリート製の巨大な建物で、内部には観音堂、坐禅堂、ガンダーラ彫刻展示室がある。
中に入ると、矢張り目に付くのは高さ約9.2メートルの巨大な大観世音菩薩像である。
この像は、開祖通幻寂霊禅師600回大遠忌が行われた平成6年に安置された。
樹齢400年の木曾檜が用材として使われているという。
大観世音菩薩像の横に、昭和50年から平成14年までの間、仁王門に安置されていた、先代の仁王尊が保管展示されていた。
筋肉質の写実的な像である。
永澤寺が、特別にコレクションしたものだろう。
ガンダーラ彫刻とは、紀元前後から5世紀ころまでの間に、パキスタン北西部のガンダーラ地方で隆盛した彫刻である。
アレクサンドロス大王の東征で、マケドニアはガンダーラ地方を含む中央アジア付近まで勢力を広げた。
このため、古代ギリシアの文化が、中東から中央アジアまで届くことになった。
仏教では当初、仏像を制作することは避けられていたが、ここガンダーラでギリシアから伝わった彫刻技術と出会い、人間の姿をした仏像が作られるようになった。
ガンダーラは、仏像発祥の地なのである。
上の柱頭装飾は、ギリシアの建築物の柱頭によく見られる、アーカンサスの葉で装飾されたコリント式と言われる装飾様式だが、中央に仏陀の像が刻まれている。
ギリシアとインドの文化がガンダーラで合流し、融合したことを示す遺物である。
その後仏像は、インドだけでなく、中国を通じて我が国にも伝来した。
ヨーロッパや中東では、ギリシア文化の後に一神教が成立したので、神話に出てくる神々の像を作るという習慣はなくなってしまった。
彫刻というジャンルに限れば、ある意味、ギリシア文化の後継者はアジアの仏像文化と言えるのではないかい。
さて、ガンダーラ彫刻展示室には、釈迦の誕生から説法までの、釈迦の生涯を表したガンダーラ彫刻が展示されている。
上の彫刻は、釈迦が誕生した場面を描いたものである。釈迦はシャーキャ族の太子としてルンビニーで生まれた。
中央の女性が、釈迦の母のマーヤ夫人である。マーヤ夫人は、アショーカ樹を掴みながら、臀部から釈迦を生んでいる。
釈迦を受け取ろうとしているのは、帝釈天である。
マーヤ夫人の前に、歩いている子供がいるが、これは釈迦が生まれて間もなく七歩歩いたという伝説を表している。
太子として生まれて、妃と子を得て、何不自由のない生活をしていた釈迦だったが、29歳の時に世の無常を感じて、全てを捨てて修行の旅に出る。
上は、釈迦が馬に乗って、誰にも知られずに城を出る場面を刻んでいる。
出家した後は、様々な修行方法を試みた釈迦だが、35歳の時に、静かに坐禅しながら悟りを開いた。これを成道という。
上は、釈迦の成道を妨げるため、悪魔が釈迦を誘惑する場面を刻んでいる。釈迦は悪魔を降参させて悟りを開いた。
こうして釈迦は、宇宙の真実を悟った者、仏陀になった。
釈迦が悟ったものを「法」(ダルマ)と言う。法は宇宙の真実で、釈迦が悟る前から存在し、釈迦が入滅した後も存在しているものである。法は、人の悟りに関わらず存在する。
釈迦の成道により、仏教の三宝である仏法僧の内、仏と法が成立した。
釈迦は、悟りの楽しみ、法楽を一人で味わうだけで満足し、人に説法しようとはしなかった。
インドの神様である帝釈天が、釈迦に説法を請うたが、釈迦は独覚の状態を楽しんでいて返事がなかった。
もう一柱のインドの神様である梵天が勧請され、釈迦に対して「あなたが悟った法(真理)の内容を知りたがっている人々が待っています」と説得した。
釈迦は、説得に応じて、自分が悟った法を人々に説法することにした。
上の彫刻は、帝釈天と梵天が釈迦に説法を勧める場面を刻んだものである。
釈迦の説法を聴いて、続々と弟子達が出家して集まった。ここに仏法僧の僧が成立した。
上は、釈迦の弟子の一人、弥勒菩薩(マイトレーヤ)の像である。ギリシア・ローマ彫刻を思わせるガンダーラ彫刻の優品である。
沐浴で有名なガンジス川の河畔の町ベナレスで、バラモンの子として生まれたマイトレーヤは、美男で秀才で有名であったが、釈迦の説法を聴いて弟子入りした。
マイトレーヤは、弟子入りの12年後、その才と人格を惜しまれながら死去した。
マイトレーヤの早逝を惜しんだ釈迦の弟子達の間で、マイトレーヤは、遠い未来にもう一度この世に現れ、仏陀になると言われるようになった。
上は、舎衛城のプセジト王の前で、釈迦が自分と同じ姿を天空に何体も現す奇跡を起こした場面を刻んでいる。
一説には、釈迦ではなく阿弥陀如来を刻んでいると言われている。
浄土三部経から始まる阿弥陀信仰は、2世紀頃の中央アジアで始まったと言われている。
阿弥陀如来は、現在の日本で最もポピュラーな仏様だが、出自は中央アジアなのである。
上の浮彫の中央の三段は、両脇に礼拝者を従えて説法する釈迦を刻んでいる。
下二段左右に刻まれた六人の尊者は、釈迦以前に悟りを開いた過去六仏である。
仏教は、啓示の宗教ではなく、覚りの宗教である。覚りを開けば、誰でも仏陀になることが出来るのである。
釈迦の生涯が伝えるものも、身分や出自に関わらず誰もが覚者になることが出来るということである。
さて、永澤寺は、花しょうぶ園で有名である。寺の南側に花しょうぶ園がある。
今は花しょうぶの季節ではないので、園には誰もいない。シーズンには人でごった返すのだろう。
さて、花しょうぶ園の北側に弁財天が祀られている。永澤寺の弁財尊天と呼ばれている。
寛文四年(1664年)に描かれた地図によると、この辺りは大きな池で、池の守護神として古くから弁財天が祀られていた。
だが次第に池が埋め立てられて農地になり、池に祀られていた弁財天は永澤寺境内に移された。
明治初年に、この村で奇病が流行し、人々は続々と病に倒れた。
ある村人の夢枕に弁財天が立ち、「私を池に戻してほしい」と訴えたという。
村人が、村の中心となる現在弁財尊天が祀られている場所に池を造り、弁財天を祀ると、不思議と疫病は息んだという。
この弁財尊天に祀られている弁天様の像は、銘文によると、元禄十三年(1700年)に作られたものだという。
弁財天は元はサラバスティーというインドの神様だが、仏教は日本に渡ってきた際に、インドの神様も大勢連れてきた。
日本には、インドだけでなく、中国由来の神様も多く祀られている。
外来の神々を受け入れる、日本の風土と日本人の国民性というものは、包容力のあるものである。