茶すり山古墳の見学を終え、次なる目的地、正覚山楽音寺に行く。
楽音寺の創建は、大同二年(807年)である。明賢上人が、紀州那智の滝を拝して念誦していると、深淵中に五色の光明が見えた。上人が怪しんで近寄ると、即ち薬師仏金像と迦葉仏像があった。
上人は喜んで小堂を建てて仏像を祀った。ある時上人は、「但馬朝来の地は我が有縁の地なり」という薬師如来のお告げを受けた。
お告げを受けた明賢上人は、薬師仏金像をこの地に移し、楽音寺を建てた。
楽音寺は創建時、南都六宗のいずれかの宗派の寺院だったが、堀河天皇の寛治年間(1087~1093年)に真言宗の寺院となった。
この当時の楽音寺は、七堂伽藍、僧坊七院を備えた大寺院だったという。
その後大火が発生し、堂宇悉く焼尽したが、幸い薬師仏は残り、小堂を再建して安置された。
大正14年、今の楽音寺から100メートルほど山中に入った旧屋敷跡から経瓦が発掘された。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、末法思想が流行し、人々は経文を紙や布に書いて経筒に収めたり、腐らない銅板や瓦に刻んで残した。
楽音寺の経瓦は、その当時の人々が作ったものである。瓦に五列三段の阿弥陀如来像が彫られ、それぞれの如来像の腹に文字が一文字ずつ彫られているという変わったものだそうだ。兵庫県指定文化財となっている。
天正年間(1573~1593年)に、盗賊が薬師仏を盗んだという。竹田の町の鍛冶屋で溶かそうとしたところ、仏像が「がくおんじがくおんじ」と叫んだという。盗賊は恐ろしくなり、仏像を楽音寺の前にある泥池に投げ捨てた。
当時の住職秀伝が泥池を見ると、七色に光輝いていた。そこに薬師仏があるのを見つけ、謹んで祀ったという。
盗賊が薬師仏を捨てた泥池には、今、福寿弁財天が建つ。
この祠の前で、弁財天の真言「オンソラソバテイエイソワカ」を唱えると、何だか力が湧いてくる気がした。
さて、那智の滝の滝壺から現れたという薬師仏は、本堂に祀られている。
御本尊の薬師仏金像は、秘仏として50年に一度公開されている。
大同年間に那智の滝の底から現れたとされる薬師仏を今ここで私が拝むのも、何かの縁である。
地球上に生命が生まれたのは、とんでもない偶然が重なった結果だとよく言われる。
そう考えると、毎日目にする風景や、人々との出会いも、二度と遭遇することのない偶然の上に成り立っている。まさに全てが縁である。
毎日何気なく過ごす日々が、実は奇跡の連続であることを、仏は不断に教えているような気がする。