池尻神社を出て、兵庫県丹波篠山市高倉にある天台宗の寺院、宝橋山高蔵寺を訪れた。
高蔵寺の境内の南端には、明和七年(1771年)に建てられた山門がある。
この山門にも、中井権次一統の彫刻が施されている。年代的に言うと、五代目中井丈五郎橘正忠の作品だろう。
どれもエッジの効いた優れた作品だ。一方、中の仁王像は、中井家と別の彫刻家による作品だと思われる。
仁王門の先には、高蔵寺の駐車場があるが、駐車場の周りを枝垂桜が取り巻いている。もう散りかけているが、満開のころに訪れたら、さぞ美しかったろうと思われる。
高蔵寺は、大化二年(646年)に法道仙人が開基したと伝えられている。最盛期には、七堂伽藍21ヶ坊の堂宇を誇ったが、天正年間(1573~1592年)に明智光秀の兵火にかかり、焼失した。
正徳二年(1712年)に、本堂が現在地に建立された。
境内はよく整備されている。庭の結構が美しい。
高蔵寺には、兵庫県指定文化財の絹本着色釈迦八相涅槃図が所蔵されている。仏・菩薩・天・衆生の描写に優れているというが、非公開である。
境内の真ん中にある阿弥陀堂は、平成に入ってから建立されたものだ。
阿弥陀堂から奥に歩くと、御本尊の十一面観世音菩薩像を祀る本堂がある。
本堂の手前には、名水と言われる観音水が湧き出ている。
この観音水は、高蔵寺の背後にある黒頭山から染み出てきたものだろう。説明板には、「神秘の味わい」と書いていた。口に含むと、少し甘い味がした。
さて、観音水を飲んで奥に進むと、本堂がある。
天正年間に明智光秀の軍勢に攻められ、寺が焼亡した時、氷上柚子村の人が雑兵にまぎれて守り奉ったのが、現存する御本尊十一面観世音菩薩像と伝えられている。
この十一面観世音菩薩像は、稽文会・稽首勲両仏師の作で、大和長谷寺の観音像と同木同作と伝承され、普段は秘仏として宮殿(くうでん)の中にお祀りされているが、33年に一度御開扉される。
御本尊脇侍の龍王権現と雨法童子は、共に永禄十年(1568年)の作である。
上の写真では暗くて分かりにくいかも知れないが、欄間の彫刻がなかなか豪快で見事である。
本堂裏の小宮社には、そう古くはないものと思われるが、天神像と弁財天像が祀られている。
この弁財天像を見ると、この神様がインドから来たことが頷ける気がする。
今日紹介した高蔵寺も明智光秀に攻められたが、今まで私が訪れた丹波の寺院の大半は、天正年間の明智光秀の丹波攻略戦に際して焼かれている。
信長の天下統一の最大の敵対勢力は、宗教勢力と一揆勢と言われている。中世には、寺社が武力を蓄えることが恒例となっていたが、信長軍はそんな中世の悪習慣を一掃するため、敵対する寺社には容赦がなかった。秀吉も光秀も、そんな信長の方針に忠実だった。
そのため、灰燼に帰した文化財も多数あるが、宗教勢力と武力の結びつきを木っ端微塵にした信長と秀吉の功績は、大きいと言わねばならない。