摩耶山天上寺 前編

 宝乗山善光寺の参拝を終え、表六甲ドライブウェイスイフトスポーツで駆け上がり、六甲山上を目指した。

 スイスポVDCをOFFにしてこのワインディングロードを走ると、この車の旋回性能の高さを味わうことが出来た。

 そして、神戸市灘区摩耶山町にある真言宗の寺院、摩耶山天上寺に到着した。

摩耶山天上寺

 天上寺の創建は、大化二年(646年)のことと言われている。第36代孝徳天皇の勅願により、法道仙人が開山したという。

 本尊は、法道仙人が感得したという秘仏十一面観音像である。

孝徳天皇勅願寺の碑

山門

 その後弘法大師空海が、唐から帰国した際、梁の武帝が刻んだと言われる摩耶夫人(まやぶにん)像を持ち帰り、この寺に安置したという。

 摩耶夫人は、釈迦の母公である。

 そのため、山号を仏母摩耶山(ぶつもまやさん)とし、摩耶夫人が昇天したというインドの忉利天(とうりてん)という山に因んで、寺号を忉利天上寺とした。

 摩耶山天上寺は、その略称である。

摩耶夫人像を祀る天竺堂

摩耶夫人像

 今天上寺が建つ場所は、天上寺が開かれた地とされている。天上寺はその後、現在地から約700メートル南の山中に移転した。現在摩耶山史跡公園となっている場所である。

 だが昭和51年1月に発生した火災により、天上寺の伽藍は全焼した。

 焼失後、天上寺は、開創の地である現在地に再建されることになった。

 関西在住のインド人たちは、インドとゆかりの深い天上寺の焼失を悲しみ、インドの彫刻家ラム・ラタン・ジャイミニ師が大理石にて刻んだ摩耶夫人像を安置する天竺堂を奉納することを発願した。

 昭和54年、諸堂の復興に先駆けて、摩耶夫人像を安置する天竺堂が建立された。

 摩耶夫人像の腕に抱かれているのは、幼い時の釈迦である。

 天竺堂から石段を登ると、右手に軍艦摩耶の碑があった。

軍艦摩耶の碑

重巡洋艦摩耶のプレート

 重巡洋艦摩耶は、昭和7年に神戸の川崎造船所にて竣工した。

 日本海軍の軍艦の名は、戦艦は国名から、重巡洋艦は山名から、軽巡洋艦は河川名からつけられた。

 摩耶の艦名は、この摩耶山から名付けられた。

 摩耶は、大東亜戦争では、ジャワチラチャップ沖海戦、第2次、第3次ソロモン沖海戦、ガダルカナル突入作戦、南太平洋海戦、アッツ島沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に従軍した。

軍艦摩耶の碑の説明板

 だが昭和19年レイテ沖海戦で、米潜水艦の雷撃を受けて沈没し、艦長以下470名の船員が戦死した。

 軍艦摩耶の碑は、戦死者の慰霊と摩耶の顕彰のため、昭和59年に艦名にゆかりのあるこの地に建てられた。

 軍艦、ことに日本の重巡洋艦が好きだった死んだ私の父のことを、ここで思い出した。

 さて、さらに石段を登り、寺の境内に至った。

境内の入口

 境内に入って正面にあるのが、摩耶夫人像を祀る摩耶夫人堂である。

摩耶夫人堂

 摩耶夫人堂に祀られる摩耶夫人像は参拝することが出来るが、写真撮影は不可であった。

 鮮やかに彩色された新しい像であった。弘法大師が唐から請来した摩耶夫人像は、どうやら昭和51年の火災で焼けてしまったようだ。

 摩耶夫人堂の前には、石で造った枯山水がある。

枯山水

 特に堂に向かって左手にある、一つの石を四つの石が囲む枯山水は、金剛界曼荼羅大日如来を囲む阿閦如来宝生如来阿弥陀如来不空成就如来を表しているように見える。いわゆる五智如来である。

 宇宙そのものである大日如来智慧が流出し、より具体的なものとして、大日如来を囲む四如来智慧として発現する。さらにその智慧が流出してより具体的な形を取り、最終的に我々が住む世界が形成されている、という真言密教の考え方を表している。

 摩耶夫人堂の脇には、仏足石があった。

仏足石

 仏足石は、釈迦の足の裏を模したもので、そこに釈迦が立っている標幟(ひょうじ)であり、古来から尊重されてきた。

 釈迦は生前、弟子たちが自身の像を刻んで拝むことを禁じていた。なので釈迦入滅後もしばらく仏像が作られることはなかった。

 釈迦を慕う仏教徒たちは、仏像を刻む代わりに釈迦の足跡を模した仏足石を刻んで礼拝した。

 この仏足石は、元治元年(1864年)に製作されたもので、姿・形のよさから、全国有数の仏足石の名品とされているという。

 仏足石の隣には、弘法大師活眼石という石がある。

弘法大師活眼石

 どういういわれのある石かは分からなかった。

 仏足石の前に跪き、額を仏足石につけて礼拝した。

 私が参拝していると、インド系の容貌をした夫婦と女児が天上寺境内にやってきた。

 地元に住むインド系の家族だろう。

 摩耶夫人と釈迦にゆかりのあるこの寺は、日本に住むインド系の人たちにとっても、大切な場所のようだ。

 遠く離れたインドと我が国の縁というものを思った。