芳心寺の北隣に、臨済宗の寺院、龍徳山大隣寺がある。
この寺の境内には、十六羅漢石像や、宝暦六年(1756年)に建てられた三界万霊塔があるという。
山門に近づいてみて驚いた。山門に「境内撮影禁止」と書かれた札が掛かっている。
これで境内に入る気持ちが失せてしまった。入ったら、住職から叱られそうな気がしたからである。
山門を潜らずに右に行くと、墓地がある。
「鳥取県の歴史散歩」によると、この寺には、鳥取藩の重臣箕浦家の墓や、2代目鳥取市長の田中政春の墓、「鳥取藩史」を編纂した梶川正温(まさはる)の墓があるという。
境内は気にせず、これらの墓を捜そうと思い立った。
墓地は、本堂の右手から山に向かって続いている。その斜面を登っていく途中、目に入った十六羅漢像をつい写してしまった。
さて、山に向かって続く墓地の墓石を一つ一つ見ていったが、目当ての墓は一向に見つからない。
大隣寺の墓地は、驚くべきことに、寺の裏山の中腹まで続いていた。
誰もが墓地として思い浮かべるような整然とした姿ではなく、木が生い茂る山の中に、無造作に墓石が林立しているのである。
山中にある墓は、江戸時代から明治時代にかけての古い墓ばかりで、もはや誰も墓参していないのであろう、あちこちの墓石が割れたり倒れたまま放置されている。
ひどいことに、墓石がそのまま地面に埋められて、石段として利用されているものもあった。
凄惨な風景の墓地だったが、それでも墓石を一つ一つ見ていった。
そして山の中腹の墓地の最奥に、ついに田中政春の墓を見つけた。
田中家の数ある墓石の中に、2代目鳥取市長田中政春の墓はあった。
この墓は夫妻の墓で、墓石の両側面に夫と妻の命日が刻まれている。
オシドリ夫婦だったのではないかと思った。
さて、裏山に広がる墓石を可能な限り確認したが、箕浦家の墓も梶川正温の墓も、ついに見つからなかった。
田中家の墓の前に、倒れたり地面に埋まったりした墓石の一群があった。
その中に「梶川」と彫った墓石があったので、ひょっとしたらと思ったが、違った。「鳥取県の歴史散歩」の筆者は、どこでこれらの墓を確認したのだろう。
墓探しを諦め、次の目的地に赴いた。
大隣寺の北隣には、日蓮正宗の寺院、妙囿(みょうゆう)山日香寺がある。
この寺は、池田光仲が母堂の芳春院殿妙囿日香大姉の菩提を弔うため、芳春院の三十三回忌の寛文六年(1667年)に建立した寺院である。
ここには、文久三年(1863年)に京都本圀寺で発生した本圀寺事件に参加した、鳥取藩士で国学者の新貞老(あたらしさだおい)の墓がある。
本圀寺事件とは、尊王攘夷派の鳥取藩士22名が、本圀寺に宿泊中の、彼らを危険視する幕府の側用人3名を惨殺した事件である。
新は、捕縛され獄に繋がれたが、出所後には明治新政府に出仕し、佐渡県知事になる。
新の墓は、寺の裏山に続く墓地の中にある。
上の写真にある、裏山の墓地に続く道を登り、フェンスの始まる辺りの右手にある石段を登っていく。
この石段を登って真っ直ぐ行くと、右手に新貞老の墓が見えてくる。
この墓は、割合すぐに見つけることが出来た。
田中政春にしても、新貞老にしても、明治の官僚は武士階級出身者が多かった。
各藩士の中でも志のある人は、明治新政府に出仕したようだ。
日香寺から北に歩くと、左手に鳥取藩の財政の元締め役だった岡崎平内可之(よしゆき)が天保六年(1835年)に建てた旧岡崎平内邸がある。
可之の孫の岡崎可観(よしみ)は、明治9年に鳥取県が島根県に併合されると、鳥取県の独立・再置運動に尽力し、明治14年の鳥取県再置へ導いた功績がある。
鳥取県会が設置されると初代県会議長になった。
また、明治22年に鳥取に市政が布かれると、初代鳥取市長になった。
翌明治23年に帝国議会が開設されると、初代衆議院議員になった。
数か月で衆議院議員を辞した可観は、地元に帰って地域の産業振興に尽力し、鳥取藩の剣術雖井蛙(せいあ)流の普及に努めた。
戦後、日本で初の女性弁護士になった中田正子が、旧岡崎平内邸を住居兼事務所として使ったという。
幕末から明治にかけて、多くの人材が武士から官僚になった。藩に仕える武士が、天皇の官僚になったわけだ。
そう考えると、人間は柔軟に時代に順応するものだと感心する。