広徳寺の前には、顕本法華宗の寺院、富中山法泉寺がある。
法泉寺も、寛文九年(1632年)の藩祖池田光仲の国替えに従って、岡山から鳥取に移ってきた寺院である。
8歳で夭折した光仲の末娘伊佐子の菩提寺として重んじられたという。
「鳥取県の歴史散歩」によると、法泉寺本堂裏の墓地に、天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦いで戦死した猪平氏累代の墓があるという。
法泉寺の墓地はさほど広くない。私は隅から一つ一つ墓石を丹念に見ていった。
私は墓石を探しながら、鷗外が晩年に執筆した史伝「伊澤蘭軒」の中で、旗本伊澤氏の墓を捜すため、浅草のお寺の墓地を隅から隅まで見て歩いたと書いていたのを思い出した。
晩年の鷗外は、温和で穏やかな生活を送っていたが、過去の人を知るために、凄まじい執念を燃やしていた。私も過去を知るために、鷗外のような浄い情熱を持つことが出来るだろうか。
さて、墓地にある全ての墓石を見たが、ついに猪平氏の墓を見つけることは出来なかった。
見落としだろうか。だが墓石は全て見た。ネット上にも情報はない。私は残念な気持ちで法泉寺を立ち去った。
法泉寺前の道を南に歩くとすぐに、入口に「子安稲荷神社」と書かれた標柱が立った参道が東に延びている。
ここは、かつて子安地蔵と呼ばれた天台宗の寺院、清鏡寺のあった場所である。
明治初年に尼寺になり、その後廃寺になった。
正面の石段の左手に、草むらになった空き地がある。
おそらくここが、かつて清鏡寺のあった場所だろう。今は草むらがただ夏の日盛りの日を浴びてしんとしている。
子安稲荷神社の社殿は、それなりに古そうなものであった。清鏡寺の鎮守だったものが残ったのだろうか。
子安稲荷神社の前の道を更に南に歩くと、「平田眠翁之墓参道」と刻まれた標柱と、俳人尾崎放哉の句碑が建つ三叉路がある。
この三叉路を東に行くと、椿谷墓地という墓地がある。
平田眠翁は、江戸時代後半から明治時代にかけて生きた鳥取の医師・本草学者である。
本草学者とは、薬草の専門家のことである。
「鳥取県の歴史散歩」によると、上の写真の道を歩いて行った奥にある椿谷墓地の最奥に、平田眠翁とその妻の墓があるとのことだった。
私は、標柱のある場所から東に歩いた。
しばらく行くと、「尾崎放哉誕生之地」と刻まれた石碑があった。
尾崎放哉は、明治から大正にかけて活躍した、種田山頭火に並ぶ自由律俳句の俳人である。
自由律俳句とは、五七五と季語に捕われない自由な俳句を指す。
私は山頭火の句集は読んで感心したが、放哉の句は読んだことがない。
放哉が鳥取市の出身であることは、この石碑を見て初めて知った。
さて、更に奥まで歩いて、椿谷墓地まで行ったが、平田眠翁の墓が見つからない。
墓石を一つ一つ丹念に見たが、矢張りない。
椿谷墓地の最奥には、浦上キリシタンの幽閉地だったことを示す標柱と、キリシタンの合葬墓があった。
江戸時代末年から明治時代初頭にかけて、長崎の隠れキリシタンが弾圧され、日本各地に配流となったが、この椿谷もその配流地の一つだったようだ。
ネット上に、この浦上キリシタン幽閉地の近くに平田眠翁の墓があると書いた記事があったので、再度探してみたが、墓石は見つからない。
道を戻って、尾崎放哉誕生之地の碑と椿谷墓地の間にある小さな墓地を覗いてみた。
この墓地の石段の上に、「平田眠翁之墓参道」と刻まれた標柱があった。
椿谷墓地に行くまでに、この標柱の前を通ったが、その時は平田眠翁の墓は椿谷墓地にあるものとばかり思っていたので、この墓地は覗かなかった。
考えてみると、この標柱が入口に建つこの墓地に眠翁の墓があるのは当たり前のことであった。
石段を登って、墓地の奥に行くと、果たして平田眠翁夫婦の墓があった。
「鳥取県の歴史散歩」の記述は誤りであった。
暑い中墓を捜して彷徨し、ついに目当ての墓を見つけた時の興奮は、なかなかのものである。
墓石の側面には、「明治十二年五月十一日没」と、眠翁の命日が刻まれている。
鷗外の書いた医事論文を読むと分かるが、鷗外がドイツから帰朝した明治21年の段階でも、日本で医師と呼ばれる人の大半は漢方医で、大学医学部を卒業して西洋の医学を修めた洋医はまだ主流ではなかった。
漢方医は、和漢の医書や本草書を読んで医学を学んだ人たちである。
鷗外らドイツに留学した医師たちの啓蒙活動によって、明治後半にはようやく西洋医学が日本の主流になった。
その鷗外も、晩年は漢方医だった父や祖父にノスタルジーを感じたのか、伊澤蘭軒のような江戸時代の医師の伝記を書くようになった。
明治12年に死去した平田眠翁は、まだ漢方医や本草家が日本の医家の主流だった時代に亡くなった。
眠翁は、自分の学んだものが世の主流から外れる前の、幸福な時代に亡くなったと言えるのかも知れない。