吉備津神社西側の駐車場の奥に、備中国賀陽郡庭瀬村川入(現岡山市北区川入)出身で、第29代内閣総理大臣になり、昭和7年に発生した五・一五事件で殺害された政治家犬養毅の銅像が建っている。
犬養家(元は犬飼といった)の祖先の犬飼健命は、大吉備津彦命に従って吉備にやってきた武人と伝えられている。犬養家は、江戸時代には地元の大庄屋や庭瀬藩の郡奉行を務めた。
安政二年(1855年)に犬養源左衛門の次男として生まれた犬養毅は、明治8年に上京し慶應義塾に学んだ。
明治10年に西南戦争が起こるや従軍記者となり、その後新聞記者として鳴らしたが、次第に政治運動に傾斜し、明治15年の立憲改進党の結成に参加した。
東林山真如院と旧新宮社跡から南に行った川入の集落内に、犬養毅の生家と記念館がある。
なお、犬養毅は号を木堂(ぼくどう)と称した。生家の近くに、犬養の業績を刻んだ石碑と、犬養の分骨を納めた墓地がある。
犬養毅の生家である旧犬養家住宅は、江戸時代初期に建てられた大庄屋の住宅で、この地方の近世民家の代表的建築として価値があり、国指定重要文化財になっている。
さて、明治15年に立憲改進党の結成に参加した犬養は、政治家としての道を歩み始めた。
歩み始めたと言っても、明治23年の大日本帝国憲法施行まで、日本には地方議会はあったが国会はなかった。また明治15年当時は内閣もなかった。
当時の日本は、奈良時代の律令制度に端を発する太政官制で統治されていた。
明治になっても、未だに太政大臣、左大臣、右大臣が行政機関のトップを占めていた。
これら大臣には、皇族や藤原氏の血を引く公卿が就任していたが、お飾り的な存在だった。
三大臣の下に参議が置かれていた。この参議に、維新に功績のあった大久保利通、木戸孝允、大隈重信などが就任し、これら参議が実質的な政治を動かしていた。
参議による政治は、維新に功績のあった薩長土肥の藩士による政治である。そこに民意は反映されず、薩長土肥に偏った政治が行われるようになった。藩閥政治と言われるものである。
これに対して、欧米のように日本にも憲法を制定して、人民に権利を与え、議会を設け、民意を政治に反映させようとする運動が起きた。自由民権運動である。
明治の自由民権運動は、幕末の尊王攘夷運動に次ぐ政治運動だったと言えよう。
全国に澎湃と起こった自由民権運動に政府は動かされ、明治23年にアジア初の憲法である大日本帝国憲法が成立し、国民の一部に選挙権が与えられ、我が国に国会が出来た。
犬養は、明治23年の第一回衆議院議員選挙に立候補して当選した。35歳だった。
その後の犬養は、様々な政党を渡り歩き、藩閥政治の打破、憲政の確立に尽力した。最も力を尽くしたのは、普通選挙の実現である。
大日本帝国憲法の成立で、国会が出来たと言っても、選挙権は一定以上の税を国に納める富裕な男子にのみ与えられていた。
これでは、全国民に向いた政治は行われない。
また、内閣総理大臣は、現在のように国会が指名するのではなく、天皇の大命降下によって決められていた。
実質は、維新の元老たちが合議して決めた内閣総理大臣候補を天皇に推薦することで決められていた。
現在のように、選挙で第一党となった党首が総理大臣になっていたわけではないのである。
このように、国会が出来たものの、未だに国民の意見は国政に限定的にしか反映されなかった。
犬養らは、納税額に関わらず、ある年齢以上の男子全員に選挙権を与える普通選挙の実現を目指したのである。
明治時代後半から大正時代にかけて、天皇の最高顧問の地位にあった長州藩出身の山縣有朋を始めとする維新の元老たちは、普通選挙の実現に危機感を覚えていた。
明治43年には、社会主義者による明治天皇暗殺計画が発覚し、それに関連したとして社会主義者が続々と逮捕され、多くの者が死刑になった。大逆事件である。
当時は、社会主義が水面下で貧しい労働者に広がりつつあった。
山縣らは、普通選挙が実現し、納税額に関わらず国民に選挙権を与えれば、当時の男子の大半を占めた貧しい労働者、農民らが政治に影響を与えることになり、社会主義が跋扈し、日本の国体が危機に瀕すると考えていた。
大正2年、朝鮮半島に2個師団を増師することを陸軍が政府に要求した。
これには、陸軍元帥だった山縣有朋の意向も与っていた。
西園寺首相がこれを拒否すると、陸軍は陸軍大臣を辞任させて後任を送らないことで内閣を瓦解させた。
西園寺の後任で首相となったのは、陸軍大将の桂太郎だった。
これが原因で、国民の間に、薩長藩閥と軍、官僚による横暴な政治を打破しようという「閥族打破憲政擁護運動」が起こった。
当時国会第一党だった政友会代表の尾崎行雄と、当時国民党代表だった犬養毅がこの憲政擁護運動の先頭に立った。2人は協力して憲政擁護会を結成する。
犬養はこの時から、「憲政の神様」と呼ばれるようになった。
憲政擁護会は桂内閣の不信任決議案を提出しようとした。桂内閣はそれを阻止するため議会を解散しようとした。
桂内閣の打倒と議会の解散阻止を掲げる群衆数万人は、国会を包囲した。
桂は国会の解散を宣言しようとしたが、それにより群衆による騒乱が引き起こされることをおそれて断念し、総辞職した。
憲政擁護運動は、日本で初めて内閣を総辞職に追い込んだ民衆運動となった。
大正の憲政擁護運動は、幕末の尊王攘夷運動、明治の自由民権運動に次ぐ政治運動だったと言ってよい。
憲政擁護運動は、その後衆議院第一党の代表が内閣総理大臣となる政党政治のきっかけとなった。
犬養は桂内閣の次に成立した山本内閣の逓信大臣に就任し、以降閣僚を歴任した。
大正14年、犬養念願の普通選挙法が公布された。満25歳以上の男子全員に選挙権が与えられた。
犬養は、これを機に大臣及び議員を辞職し、政界を引退したが、同年7月の自身の補欠選挙で地元選挙民に選ばれて再選された。犬養は余儀なく再選の結果を受託し、政界に復帰した。
昭和4年、犬養は政友会総裁となり、昭和6年には第29代内閣総理大臣となった。
ところで、旧犬養家住宅のすぐ西隣に犬養木堂記念館が建っている。犬養毅の業績を顕彰し、犬養ゆかりの品や資料を展示するため、平成5年に開館した
館内の展示室は写真撮影禁止であった。
犬養は、幼い時に地元で漢学を学んだ。
犬養は、政治家というだけでなく、書や漢詩に巧みな文人で、刀剣や文房四宝(筆、硯、紙、墨)に深い見識を有していた。
また、中国の孫文、康有為、ベトナムのファン・ボイ・チャウなどと親交を持ち、アジアの民権運動を支援した。
総理大臣となった犬養は、国民の期待を受けていたが、昭和7年5月15日に発生した五・一五事件で、海軍青年将校の襲撃を受け、射殺された。
昭和5年のロンドン海軍軍縮条約で、日本は米英よりも低い海軍力を持つことで条約を批准した。
これに不満を覚えた海軍青年将校と、昭和恐慌に端を発した失業者の増大と農村の貧困に不満を持った民間右翼が手を結び、政治的テロ事件を起こした。それが五・一五事件である。
人口に膾炙している話では、首相官邸にいた犬養を襲撃した青年将校に、犬養が「話せば分かる」と声をかけ、それを聞いた青年将校が「問答無用」と答えて犬養を射殺したことになっているが、実際は少し違うようだ。
実際は、撃たれた直後、まだ息のあった犬養が、駆け付けたお手伝いに「さっきの若者たちに話して聞かせる」「彼らを呼んでくるように」と言ったのだという。
議論を重視した犬養らしい最後である。
犬養の死後、政党政治は瓦解し、軍は統帥権を盾に、内閣や議会の軍への介入を拒み、逆に軍が政治への介入を強めていくようになった。
軍が日本の針路を決めていった結果は、大日本帝国の崩壊であった。
こうして日本の議会政治の歩みを見ると、国民が投票権を持って自分たちの代表を選び、政治に自分たちの意見を反映出来ることが如何に貴重なことであるかが分かる。
明治の自由民権運動、大正の憲政擁護運動が、戦後民主主義の土台になっているのが分かる。
民主主義は万能ではなく、欠陥もあるが、これからの日本が民主主義を放棄することはなかろうと思われる。
民主主義は、国民が自らの責任で政治的意見を表明し、代表を選ぶことで機能する。
選挙民があなた任せの態度では、選ばれた議員も気持ちが入らないだろう。