養宜館跡

 安楽寺の参拝を終え、北西に車を走らせる。

 兵庫県南あわじ市八木養宜中にある養宜館(やぎやかた)跡を訪れた。

養宜館跡東側の土塁跡

 養宜館跡は、暦応三年(1340年)から永正十六年(1519年)までの間、淡路守護として淡路を領有した細川氏七代の居館跡である。

 居館は、ほぼ平坦な微高地の上に築かれた。その周囲は、南北約250メートル、東西約120メートルに渡って築かれた周濠と土塁で囲まれた。

 現在では、養宜館跡の東側と北側に当時の土塁が残っている。

養宜館跡北側の土塁と周濠跡

 初代守護の細川師氏は、暦応三年(1340年)、足利尊氏の命により、阿波から淡路に攻め入り、立川瀬の戦いで南朝方の淡路国人衆宇原兵衛らの軍を破った。尊氏から淡路守護に任命され、養宜館を建てて拠点にした。

 この場所は、古くから大土居と呼ばれ、細川氏の居館が出来るまでは、鎌倉幕府の守護の佐々木氏か長沼氏の居館があったのではないかと言われている。

 永正十六年(1519年)、七代細川尚春が、家臣である阿波の三好之長(ゆきなが)に謀殺され、淡路守護細川氏は滅び、養宜館もなくなった。

養宜館跡内側から見た北側土塁

養宜館跡の内側から見た東側土塁

 阿波と淡路を主君細川氏から奪った三好氏は、淡路から畿内に上陸し、信長が上京するまで畿内を手中に収めていた。

 養宜館跡には、建物は残されていない。礎石も残っていない。ただ養宜館跡の石碑と薬師堂が建っている。

養宜館跡の石碑と薬師堂

養宜館跡の石碑

 養宜館跡の石碑は、昭和2年6月に建てられたもので、旧徳島藩主の子孫である侯爵蜂須賀正韶(まさつぐ)の揮毫によるものである。

 石碑の建つ場所は、少し高くなっている。そこは、西土塁の跡とされている。

西土塁跡に建つ石碑

 石碑の後ろには、二代細川氏春の「五月雨に なほ水深き みなと田は いそぐ早苗も とりぞかねぬる」という和歌を刻んだ歌碑が建つ。

細川氏春の歌碑

 初代師氏は足利尊氏に仕えたが、二代氏春は南朝側に忠を尽くしたそうだ。和歌を能くし、武辺にも優れた文武両道の武将だったらしい。

 石碑のある場所から薬師堂の方を見ると、土塁に囲まれた養宜館が想像出来た。

土塁に囲まれた薬師堂

 薬師堂は、恐らく細川氏滅亡後に、供養のために建てられたものだろう。

薬師堂

薬師如来坐像

 薬師堂の境内には、幕末に尊王攘夷思想の影響を受けて農兵隊を組織し、文久三年(1863年)の大和天誅組の挙兵に参加しようとしたが、露見して幕府に捕えられ投獄された、地元出身の志士武田萬太夫の顕彰碑がある。

武田萬太夫の碑

 萬太夫明治維新後釈放されたが、その後家運振るわず、明治21年に死去した。地元の有志が建てた石碑だろう。

 日本には、戦国時代に築かれた山城跡は数多く残っているが、その前の鎌倉時代室町時代中期までの武士の居館跡はそれほど残っていない。

 そう思えば、約180年間淡路の支配の中心だった養宜館跡が、僅かながら土塁と周濠を残しているのは、貴重なことであろう。