法性山上宮院日光寺 

 産宮神社のすぐ北側にあるのが、浄土宗の寺院、法性山上宮院日光寺である。

日光寺の伽藍

日光寺山門

 私が日光寺を訪れた時、東南アジア系の若いカップルが山門前でスマートフォンで記念写真を撮っていた。

 最近寺社詣でをすると、日本に在住していると思われる外国人が参拝する姿をよく目にするようになった。

山門の彫刻

 これからの日本は移民社会となり、文化もハイブリッドなものになっていくと思われるが、実は日本の寺社こそ、最もハイブリッドな文化であると思う。

 日光寺の創建は古い。推古天皇二十一年(613年)、摂政だった聖徳太子がこの地を訪れた。

 太子が慶野海岸で波間に漂う函を拾い、開けてみると、中に如意輪観音菩薩像が入っていた。

日光寺開基の聖徳太子

 太子は如意輪観音菩薩を祀る七堂伽藍を慶野海岸に建立した。これが日光寺の発祥である。

 日光寺は、南海道紀伊、淡路、讃岐、阿波、伊予、土佐)で最初に開基された仏教寺院である。

本堂(本尊は阿弥陀如来

本堂向拝蟇股の龍の彫刻

 しかるに開創から約700年が経つと、兵乱、地震津波、洪水、大風等により、伽藍は悉く頽廃した。

 元亨年中(1321~1324年)、因幡国に住む一阿上人は、霊夢に日光寺を見たため、急いで海を渡りこの地にやってきた。

薬師堂

薬師如来坐像

 一阿上人は、この地で不思議にも同じ一阿の名を持つ尼僧に出会い、お互いの霊夢を語り合って、その奇瑞を喜び、日光寺再建を誓っいあったという。

 この一阿上人による再興の際に、日光寺は浄土宗の寺院になったのではないか。

不動堂

不動明王の石像

 聖徳太子を祀る寺院は、天台宗に多いが、浄土宗の寺院で太子を祀っているのは初めて見る。上宮院の名は、太子が自身の上宮聖徳勝鬘の名から取ったとされている。

 阿弥陀如来を本尊とする本堂の隣には、聖徳太子を祀る太子堂がある。

太子堂

太子の御像を祀る厨子

 太子堂厨子の中には、太子の御像が祀られている。

 日本に仏教が伝来したころ、物部氏を始めとする旧来の豪族は、仏教を崇めることは、日本の神々を冒涜するものだとして強く反発した。

 用明天皇二年(587年)に発生した丁未の乱蘇我物部合戦)は、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との間の内戦であったが、崇仏派だった太子は、蘇我氏の側に立ち、四天王の像を作って戦勝を祈願し、勝てば仏塔を建立し、仏法の弘通に努めると誓った。

太子堂の前のビャクシン

 戦いには蘇我軍が勝利し、仏教に反対する勢力は衰退した。太子は祈願したとおり難波の地に四天王寺を建立し、仏教の弘通を始めた。

 日本に仏教を弘めた第一の功労者は太子である。日本で最も歴史が古い寺院の創建には、悉く聖徳太子が関わっている。

 さて、境内にある観音堂は、中に入ることが出来て、如意輪観音菩薩坐像を間近に拝することが出来る。

観音堂

如意輪観音菩薩坐像

 如意輪観音菩薩は、衆生を救い、世間、出世間の願いを全て満たす菩薩とされている。

 六臂の像が多いが、この像は四臂であった。右第一手は思惟の形をしているが、これは衆生をいかに救うか菩薩が思案していることを表している。

 如意輪観音菩薩像の左右には、西国三十三所観音霊場の本尊の分身が安置されている。

西国三十三所霊場観音菩薩の分身

 ところで日光寺は、元々は慶野松原付近の播磨灘沿いに建っていたが、いつしか現在の松帆櫟田の集落に移転した。災害を避けるための移転だろう。

 移転の時期は詳らかではないが、明応年間(1492~1501年)の勧進帳に、「後に峩々たる高山あり、前に冷々たる蒼海あり」とあるため、それ以降と言われている。

 本堂の横には、広大な墓地が広がっている。その中央に、古い石造五輪塔があり、左右に二基づつ宝篋印塔が建っている。

石造五輪塔と宝篋印塔

 中央の石造五輪塔には、元亨二年(1322年)の銘がある。

石造五輪塔

元亨二年の銘

 元亨二年は、一阿上人が日光寺を再興したころである。この石造五輪塔は、一阿上人の墓碑であると言われている。

 石造五輪塔の左右に隣接する二基の宝篋印塔には、応安七年(1374年)の銘がある。

向かって左側の宝篋印塔

応安七年の銘

向かって右側の宝篋印塔

応安七年の銘

 石造五輪塔と銘文のある二基の宝篋印塔は、兵庫県指定文化財となっている。無銘の宝篋印塔は、銘文のある宝篋印塔よりやや時代が下がるようだ。

 この石塔群は、日光寺の移転に伴って、この地に移されたことだろう。

 さて、日光寺の墓地の西側には、両墓制の埋め墓がある。

埋め墓

 両墓制とは、一故人のために、遺体埋葬地である「埋め墓」と、墓参用の「詣り墓」の二つの墓を作る日本の墓制習俗である。一般に土葬が行われていた時代に行われていた。

 埋め墓は、人里離れた山林に置かれることが多かったという。日光寺の埋め墓のように、土を盛り上げただけの墓もあれば、石塔を置いた墓もあったという。

 一方の詣り墓は、墓参用の墓で、遺体を埋葬していないため、石造五輪塔や笠塔婆、多宝塔、宝篋印塔などの塔が緊密に並べられていることが多い。

 火葬が主流になると、いつしか両墓制は行われないようになっていった。

 日光寺になぜ埋め墓が残っているのか分からないが、今では火葬が当然とされる日本の葬祭も、昔は土葬が主流であった。

 現在伝統的な習俗と思われているものが、実は新しい習俗であることはよくあることだ。

 習俗の変化というものも、追っていけば面白いものだと思う。