5月21日に但馬の史跡巡りをした。
最初に訪れたのは、兵庫県豊岡市気比にある絹巻(きぬまき)神社である。
絹巻神社は、但馬を南北に縦断するように祀られている但馬五社の一つである。但馬五社は、粟鹿神社、養父神社、出石神社、小田井縣神社とこの絹巻神社である。
この絹巻神社を参拝したことにより、私は但馬五社の全てを参拝したことになる。
絹巻神社の祭神は、天火明(あめのほあかり)命で、相殿に海部直(あまのあたえ)命、天衣織女(あまのえおりめ)命が祀られている。
第15代応神天皇の三年四月、大山守命は、但馬国黄沼前県主(きぬさきのあがたぬし)だった武身主(たけみぬし)命の子である海部直命に、但馬の海政を執らせることにした。具体的に言うと、海人の統率である。
黄沼前(きぬさき)県は、現在の城崎の地名の元となった県だろう。
その際、海部直命は、自分たちの祖先である天火明命を祀る清明宮(すがみや)をこの地に建立した。
第16代仁徳天皇の十年八月、海部直命は、清明宮を現在地の絹巻山麓に移し、絹巻神社と名を改めた。
第17代履中天皇の御代、海部直命の子、西刀宿禰(せとのすくね)が黄沼前県主となり、円山川の河口を塞いでいた土砂を浚渫した。
これにより、円山川の氾濫は治まり、円山川沿岸の人々は、洪水禍を免れるようになったという。
但馬の伝説は、朝鮮半島から渡来した新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)が、円山川河口の瀬戸を塞いでいた大岩を除けて、豊岡平野に溜まっていた水を流して、湖だった豊岡平野を穀倉地帯にしたと伝えている。
西刀宿禰の行った浚渫工事は、半島から来た渡来人の土木工事の技術に頼って行われたことだろう。いつしかそれが、天日槍の伝説になったのではないか。
絹巻神社の現在の本殿は、文化十一年(1814年)に再建されたものらしい。だが覆屋に覆われていて拝観することは出来なかった。
絹巻神社の裏山である絹巻山の暖地性原生林は、兵庫県天然記念物に指定されている。ヒメハルゼミの生息地として有名らしい。
拝殿に向かい、太古に城崎の地を開発した神々に手を合わせた。
絹巻神社の西側には、円山川が滔々と流れている。
かつてここを土砂が埋めて、円山川の流れが日本海に流れ込むのを防いでいたのだ。
絹巻神社から北に進むと、海水浴場の気比の浜がある。
当ブログを始めてから約4年。兵庫県たつの市の史跡巡りから始まった当ブログも、ついに日本海に到達した。
この4年間の時の経過を思った。
さて、この気比の浜は、円山川の河口の東側にある。
上の写真には、海に突き出た山とその麓の家並が見えるが、家並は円山川の左岸である。
家並の手前に円山川の河口がある。
大正元年、気比が浜の石切場からの石切出しの最中、銅鐸4個が出土した。
この時出土した銅鐸は、東京帝室博物館(現東京国立博物館)に買い上げられ、今でも東京国立博物館が所蔵している。
昭和48年に、この銅鐸と同じ模様の鋳型が、大阪府茨木市の東奈良遺跡から発掘されたそうだ。
銅鐸が作られたのは、弥生時代である。今の茨木市で造られた銅鐸が、当時近畿一円に流通していたのだろうか。
古代の人間の交流圏は、現代人が思っているよりも広い。
古代の日本人の逞しさを思った。