徳光院の参拝を終えて、南に歩き、JR新神戸駅の南側に出る。
竹中大工道具館を運営しているのは、大手ゼネコンの竹中工務店である。
竹中工務店の元となる会社は、織田信長の家臣で普請奉行だった竹中藤兵衛正高が、慶長十五年(1610年)に尾張で創業した。
江戸時代には、神社仏閣の建築に携わったが、明治時代になって西洋の建築技術を取り入れ、開港して都市化した神戸に進出した。今の竹中工務店は神戸で設立された。
竹中大工道具館は、古くから神社仏閣のような日本建築に携わってきた竹中工務店が、日本の大工道具を展示するために開いた資料館である。大工道具を展示する資料館としては、日本で唯一のものである。
館は、モダンだがどことなく日本建築の伝統を感じさせる造りだった。展示スペースは、館の地下にある。
展示スペースに入ってまず目に入るのは、日本の寺社建築でよく見る斗栱である。
斗栱は、中国から伝来した建築技法で、柱の上に組み物を載せて、横木や軒を支える部材の一群である。
横木を受ける肘木と、肘木を受ける斗で成り立っている。
斗栱は、屋根などの上部構造の重量を分散して受け、最終的に集約して1本の柱に伝える機構だ。
ところで、竹中工務店は、奈良の唐招提寺金堂の平成の大修理に携わった。
唐招提寺金堂の肘木や柱の型板が展示されていた。
まさに千年先に伝わる仕事である。大工という仕事は、歴史に関わる仕事である。
この奥のコーナーでは、大工道具の歴史を紹介している。
大工道具の中で、最も歴史が古いものは、斧である。
写真の上の斧は、縄文時代中期(約5000年前)の石斧を再現したものである。
下の石斧は、弥生時代中期(約2000年前)の遺跡である大阪の池上遺跡から出土したものの復元である。
石の斧は、当然鉄器と比べれば切れ味が悪い。1本の木を切り倒すのにも、かなりの日数と労力がかかったことだろう。
縄文時代に既に大工道具があったのは意外だが、例えば縄文時代中期に建てられた、三内丸遺跡の大型竪穴住居などのような巨大な建造物を造ろうと思えば、それなりの道具が必要であったことだろう。
大型竪穴住居は、直径最大80センチメートルの柱が19本使われたらしい。縄文時代には大工道具は石斧しかなく、柱の加工も石斧のみで行っていたそうだ。時間がかかったことだろう。
弥生時代になると、朝鮮半島から鉄器が伝来し、大工道具にも鉄が使用されるようになる。
上の写真の一番上の鉄斧は、福岡県の板付遺跡から出土したものの復元である。板付遺跡は、弥生時代前期の遺跡である。まだ紀元前のものである。
一番下の斧は、5世紀の奈良県塚山古墳からの出土品の復元だが、見た目は現代の斧とほとんど違いはない。
鉄器の普及によって、木材の伐採、加工の効率と精度が飛躍的に向上した。
弥生時代後期には、吉野ケ里遺跡のように巨大な高床式の建造物が建てられるようになった。鉄器によって、より複雑な木造建造物が建てられるようになった。
また、弥生時代から古墳時代にかけて、鑿やヤリガンナといった道具が登場してきた。
5世紀には、既に見た目には現代の道具と変わらない大工道具が使われていたことが分かる。
6世紀には、大陸から仏教が伝来し、寺院建築の技法も伝来した。7世紀には、日本各地に寺院が建立された。
その代表が、世界最古の木造建造物である法隆寺だろう。
その法隆寺の古材の刀痕から復元された釿(ちょうな)などの大工道具が展示されていた。
釿は、木材の表面を粗く削るための道具である。今でも日本では、建築物の起工式で、釿を最初に振り下ろす釿始めという儀式が行われている。
斧で山から切り出された丸太は、木製の楔などで割られて、最終的に板に加工される。
その板を最初に削るのに使われるのが釿である。釿では、板の表面が粗く削られる。
釿で削られた部材は、荒々しい表面をしているが、これはこれで味があり、このまま建物の床材に使っている古い民家もある。
釿で削った部材を更に削って表面を滑らかにするのがヤリガンナの役目である。
法隆寺建立のころは、まだ台鉋(だいがんな)はなかった。当時の木造建造物の部材表面の仕上がりは、今よりも荒かったことだろう。
また、このころから鋸が使われるようになったが、当時の鋸は分厚く、力を入れなければ木材を切ることができなかったようだ。
それにしても、木材を山から切りだし、設計図に基づいて部材の寸法を測って加工し、組み上げていくという作業は途方もなく大変な作業である。
だが労力を集め、技術の粋を尽くせば、法隆寺のように1000年以上の時を越えて後世に伝わる。大工とは何ともやりがいのある仕事である。
大工に限らず、我々が普段従事する仕事は、どんな仕事でも源流を遡ればそれなりの歴史や伝統を持っている。昔から伝えられている職業上のコツもどんな業種にもあるだろう。
我々は日々の仕事を通じて、日本の文化に参与し、それを受け継いで後世に伝えていると言えるのだ。