進路を北に取り、円山川を越えて、兵庫県養父市八鹿町伊佐にある甘棠亭(かんとうてい)を訪れた。
甘棠亭は、延宝四年(1676年)に出石藩の6代目藩主小出英安(ふさやす)が、伊佐の新田を視察に来た時に、藩主の御座所とするために建てられた一亭である。
藩主の御座所とは言え、小さな茶室くらいの大きさの建物である。
茅葺屋根、一重入母屋造である。内部は非公開だったが、説明板によると、6帖の上段の間と3帖の下段の間に分かれていて、上段の間は床の間や平書院が付く格式高い部屋であるそうだ。
こんな小さな建物が、よくも今まで残っていたものだ。
甘棠亭が建てられた際、藩主を出迎えるため、庭に九思の松と呼ばれる黒松も植えられた。
九思の松は、長らく八鹿町のシンボルとして仰がれていたが、昭和52年に滅失してしまったらしい。今は、松の跡に石碑が残されている。
石碑の碑文を読むと、この甘棠亭を建てたのは、藩主と同族の小出親俊という人物だったようだ。
甘棠亭の北側には、旧小出医院の建物が隣接し、南側には小出家本邸が建っている。小出親俊の子孫が建てたものだろう。
旧小出医院は、大正7年に医師小出揚が地元大工を雇って建てた。まるで江戸川乱歩や横溝正史の世界のようなレトロな病院建築だ。
木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺きで、外壁は大津壁塗り、軒はモルタル塗りである。
窓が割れていて、整備をしなければいずれ崩れてしまいそうだ。
これらの建物の東側に、「小出」という表札の上がった現代の豪邸が建っていた。江戸時代初期から続く小出家の子孫は今も健在のようだ。
甘棠亭の見学を終え、ここから養父市八鹿町宿南にある青谿書院に向かった。
青谿書院は、江戸時代後期から明治時代にかけての儒学者・池田草庵が弘化四年(1847年)に開いた私塾である。池田草庵は「但馬聖人」とも呼ばれている。
池田草庵は、文化十年(1813年)に宿南村に生まれ、11歳で今の養父市十二所にある満福寺に入り、修行して僧籍に入った。
当時の満福寺では、仏教と儒教の両方を教えていた。草庵が18歳の時に、但馬に来ていた儒学者相馬九方の講義を受けて、仏教よりも儒教に興味を持ち、寺を出奔して京都に行き、相馬の門下生になった。
草庵は、相馬の下で塾頭になったが、その後松尾神社の庵を借りて、そこで6年間読書思索に没頭した。
草庵は、次第に儒者として頭角を現し、豊岡藩に請われて藩士に講義をしたり、京都に私塾を開くなどした。
そして31歳で郷里に戻り、立誠舎という私塾を開いた。
35歳の時に故郷の宿南に青谿書院を建てて移り住み、そこで朱子学と陽明学を融合させた学問を子弟に教えた。
私が青谿書院を訪れた火曜日は、閉館日であった。残念ながら内部を紹介することは出来ない。
私は、数年前に青谿書院を訪れたことがある。その時は開館していたので、建物に入ることが出来た。北側に面した広々とした畳敷きの座敷に文机が並べて置かれ、儒学を学ぶ場に相応しい簡素な空間であった。
青谿書院は、全国から673名の門下生を集めた。その中には後に東京大学総長、文部大臣になった浜尾新や、京都府知事、北海道庁長官になった北垣国道などの俊秀がいる。
青谿書院の一角には、門下生が消灯後に籠り、蝋燭の灯りで勉強したという便所がある。
便所の戸には、門下生が中に籠って蝋燭の火で勉強した際についた焦げ跡が残っていた。
幕末から明治初期の若者の向学心の高さを感じた。
私は、池田草庵の学問についてはよく知らない。しかし、草庵が、「慎独」ということを重視したことは知っている。
慎独とは、「大学」に出てくる言葉で、自分一人でいる時も身を慎み、道を踏み外さないという意味だそうだ。
誰しも一人でいる時は、「ばれないならいいか」と安易な方向に考えが流れがちだが、そんな時こそ、その人の倫理観が問われる。慎独を実践するのはなかなか難しいことだが、人の襟を正させる言葉だ。
池田草庵は明治11年に66歳で没した。その学問は現代ではあまり知られていないが、慎独ということを多くの人に植え付けたことは、明治の日本の指導者の倫理観の形成に、多少とも与るところがあったことだろう。