祢布交差点から北東に進んだ兵庫県豊岡市日高町国分寺に、但馬国分寺跡がある。
寺院の跡地は今は広い空き地になっていて、七重塔の礎石が残されている。塔の礎石の奥には、国分寺の名を冠する寺院が建っている。
今までの史跡巡りで、私は播磨、美作、備前の国分寺跡を訪れた。これで4つ目の国分寺跡を訪れたことになる。
国分寺は、聖武天皇が、仏教による鎮護国家のために天平十三年(741年)に詔して、日本全国に一伽藍づつ建立させたものである。
各国の国分寺には、七重塔が建てられ、「金光明経」「法華経」の写経が納められた。
昨日紹介した豊岡市立歴史博物館「但馬国府・国分寺館」には、但馬国分寺の1/100スケールの模型が展示してあった。
それにしても、奈良時代にあっては、七重塔の威容は人を驚かすに十分だったろう。
但馬国分寺は、本堂に当る金堂を中心に伽藍が整備された。
金堂の跡には、礎石すら残されていない。天皇が国家の威信をかけて造営した国分寺だが、総国分寺の位置づけの東大寺を除けば、現在まで元のまま存続した国分寺は皆無である。
金堂の西側の塔跡には、二つの礎石が原位置にそのまま残されている。その内一つは塔の中心の柱を受ける心礎であった。
全国を測量した伊能忠敬も、文化十一年(1814年)にここを訪れ、「国分寺旧跡田地中に柱の敷石三ツあり」と記録を残している。
もう一つの南大門の礎石は、現在の国分寺の境内にあるそうだ。
昭和48年に但馬国分寺跡の発掘調査が行われた。
大量の瓦や、土器など国分寺で使用された遺物が発掘された。それらの遺物は、豊岡市立歴史博物館「但馬国府・国分寺館」にて展示されている。
貴重な水煙の破片も見つかっている。確かにこの地に七重塔は屹立していたようだ。
但馬国分寺跡から約1キロメートル北上すると、豊岡市立日高東中学校があるが、学校前に但馬国分尼寺の建物の礎石が一つ残っている。
国分尼寺は、国分寺と並んで各国に一つづつ建てられた官制の尼寺である。伊能忠敬の「測量日記」には、国分尼寺の礎石を七つ確認したことが書かれている。
今では残り六つの所在が分からなくなってしまった。
国分寺、国分尼寺は、国家が造立した官制の寺院である。人々から自然に沸き起こった信仰心から生まれた寺院ではない。ほとんどの国分寺は中世に廃絶した。
廃絶後、国分寺の名を受け継いで、当初と異なる宗派になって再建された国分寺も数多い。
その土地に根差した信仰心から生まれたものでなければ、長らく世に残ることはないようだ。