養父市大屋町蔵垣・大杉地区

 城の山古墳と池田古墳の見学を終え、一路兵庫県養父市大屋町を目指す。

 大屋町は、山に囲まれた谷間に集落が点在する農村地帯である。

 この大屋町の蔵垣、大杉地区は、江戸時代から養蚕業が盛んである。

 宝暦三年(1753年)、蔵垣に生まれた上垣守国は、明和七年(1770年)に養蚕研究のため、上州、奥州を旅し、安永元年(1772年)に蚕種を但馬に持ち帰った。

 上垣は、但馬、丹波、丹後地方に養蚕を広め、享和二年(1802年)に、養蚕の技術についての著述「養蚕秘録」を執筆し、翌年出版した。

 この「養蚕秘録」は、その後来日したシーボルトがヨーロッパに持ち帰り、仏語訳して出版した。「養蚕秘録」は、ヨーロッパの養蚕技術の改良に貢献したとされ、日本の文化輸出第一号と言われている。

 蔵垣には、但馬周辺に養蚕業を普及させた上垣守国の業績を記念する上垣守国養蚕記念館がある。

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上垣守国養蚕記念館の案内標識

 県道沿いに上垣守国養蚕記念館の案内標識が出ているが、標識上の蚕の模型が、私にはどう見てもモスラの幼虫に見える。

 昭和ゴジラ世代なら分かってくれるだろう。

 養蚕業は、蚕という家畜化された昆虫(蛾の一種)を使って絹糸を生産する産業である。

 発祥は中国大陸で、古代に日本に伝わった。蚕の幼虫に桑の葉を食べさせて育て、蚕が蛹になる時に作る繭を湯でほぐし、繭の糸を練り合わせて絹糸を作る。

 蚕は、人間が絹糸の生産のために品種改良を重ねて作り上げた、完全に家畜化された昆虫である。自然界では生きていくことが出来ない虫だ。蚕の幼虫を天然の桑の葉の上に載せても、足の吸着力が弱くぼとりと落ちてしまうらしい。

 成虫には羽があるが、飛ぶことは出来ない。成虫は餌を食べずに交尾だけをして、産卵後には死んでしまう。成虫が生きている期間は10日ほどである。

 まさに、絹糸を生産するための一生である。

 上垣守国記念館を訪れてみたが、残念ながら閉館していた。

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上垣守国養蚕記念館

 上垣守国養蚕記念館は、三階建ての特異な形状をした民家である。平成7年に、典型的な養蚕民家を復元したものとして建てられた。

 この地域の養蚕民家は、1階を生活スペースとして使い、2階、3階で養蚕をする。

 2,3階には掃き出し窓を設け、屋内に溜まったごみをすぐ屋外に掃き出して、室内の清潔を保てるようにしている。

 そして、屋根の上に抜気(ばっき)という、風通しを良くし、繭をゆでた時の蒸気を逃がす機構が付けられている。

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上垣守国養蚕記念館1階間取図

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上垣守国養蚕記念館2,3階間取図

 記念館の隣には、蔵垣かいこの里交流施設があるが、ここも閉館していた。

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蔵垣かいこの里交流施設

 閉館していたが、表側のショーウィンドウに、絹糸で作った製品や、絹糸生産用の道具などが展示されていた。

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絹糸の玉

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絹の打掛

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糸車

 それにしても、見た目がグロテスクな蚕から出来た絹糸から、こんな美しく滑らかな肌触りの製品が生み出されるのだから不思議なものだ。

 大屋川を挟んで蔵垣地区の北側にある大杉地区は、27棟の主屋の内、12棟が3階建ての養蚕民家で、国が選定する伝統的建造物群保存地区になっている。

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大杉地区の街並み

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 集落の氏神である二宮神社のある高台から見下ろすと、屋根の上に抜気がある三階建ての建物が数多く目に入る。

 集落内を散策すると、空き家になっているものや、旅館に改装されているものなど、様々な養蚕民家を目にすることが出来る。

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空き家の養蚕民家

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旅館に改装された養蚕民家

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 また、シルク製の服や、バッグなどの小物を展示販売するギャラリーもあった。

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ギャラリー養蚕農家

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 明治時代になって、絹糸は日本の主力輸出品となった。養蚕業と製糸業が盛んに行われるようになった。

 大屋町においても、明治から昭和中期にかけて養蚕業が主力産業となり、建てられた養蚕民家の数は日本一となった。

 その後は安価な化学繊維に押されて、養蚕業も製糸業も廃れてしまった。

 日本における養蚕は、弥生時代から行われていたとされ、「古事記」「日本書紀」にも養蚕に関する記述がある。

 第21代雄略天皇は、皇后に養蚕を勧めたとされているが、近代皇室においても、明治時代の昭憲皇后から現代の雅子皇后まで、養蚕を公務として行うことが受け継がれている。

 日本の文化の一つとなった養蚕は、これからも絶えずに続いてもらいたいものだ。

 さて、大杉地区の氏神である二宮神社には、「大杉ざんざこ踊り」という踊りが伝わっている。

 二宮神社の石段を登ると、静かな境内が広がっていた。

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二宮神社参道

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二宮神社社殿

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拝殿の龍の彫刻

 二宮神社拝殿の彫刻は、中井権次一統の作品である。

 二宮神社社殿の裏手には、大福寺という寺のお堂がある。ここにも神仏分離が徹底されなかった名残がある。

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大福寺

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大福寺本堂内陣

 大福寺本堂内を覗くと、内陣の欄間の龍の彫刻が爛爛と目を光らせていた。これも中井権次一統作の彫刻である。

 慶安二年(1649年)に、時の庄屋が村の疲弊を憂えて伊勢に参宮し、帰路に寄った奈良の春日大社で踊りを習った。

 郷に帰り、氏子繁栄のためにその踊りを始めたのが、今に伝わる大杉ざんざこ踊りであるそうだ。

 踊りの歌詞には、室町風の門賞め(かどぼめ)や、因幡うた、京うた、「梁塵秘抄」の中の歌などがあり、踊りぶりにも風流の形が見られるという。

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大杉ざんざこ踊り

 踊りは、陣笠を被り麻裃を着た1人の新発地(しんぼち)が指揮し、4人の中踊りが唐うちわを背負い、その周りを数十人の側踊りが輪舞する。

 大杉ざんざこ踊りは、毎年8月16日に行われる。丁度盆踊りの時期だ。

 今回紹介した、大屋町の蔵垣・大杉地区は、不思議と心惹かれる地域だった。

 昔養蚕業を生業としていた人たちは、自分たちの人生の浮沈も蚕しだいなので、蚕を「おかいこ様」と呼んで敬ったそうだ。

 蚕という人間が家畜化した虚弱な昆虫から生み出される絹糸に、村人の生活がかかっていたことが、今に残る集落の建物からも窺われる。

 ここを訪ねて、人々が生業に生きることの尊さを感じた。