神戸市兵庫区の平野交差点から北に約250メートルほど歩くと、山の中腹にある祇園神社が見えてくる。
鳥居を潜って急な石段を登った先に境内があるが、境内に並べられたのぼり旗を麓から眺めると、戦国時代の山城のようだ。
姫路市にある廣峯神社は、素戔嗚尊と習合された祇園精舎の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていた神社である。
貞観十一年、京都で悪疫が流行り、多くの人々が亡くなった。
悪疫を鎮めるため、播磨国廣峯神社に祀られている牛頭天王の分霊を、京に移して祀ることになった。牛頭天王の分霊を乗せた神輿が、廣峯神社から京に向かう途中、この地で一泊した。
それから、この地にも牛頭天王が祀られるようになった。牛頭天王が守護する釈迦の説法地・祇園精舎に因んで、祇園神社と呼ばれるようになった。
神社の西にある天王谷や天王川という谷や川の名も、牛頭天王から来ている。
祇園神社の現在の祭神は、素戔嗚尊とその妻・櫛稲田媛命である。
京で牛頭天王の分霊が祀られたのが、今の八坂神社である。八坂神社も江戸時代までは祇園社と呼ばれていた。京の祇園の地名もそこから来ている。
今となっては、播州の廣峯神社よりも京都の八坂神社の方が全国的な知名度は圧倒的に上だが、廣峯神社が八坂神社の元宮だと知ると、播州人として誇らしい気分になる。
拝殿は、四方に壁のない吹き抜けの造りとなっている。
本殿は、切妻造、妻入りの屋根に向拝が付いているので、春日造に似ているが、向拝が唐破風であるところは美作の中山造に似ている。
小さな本殿だが、彫刻が微細に彫られており、なかなかの力作だ。
本殿の脇には、「明治二十七、八年役従軍者記念碑」があった。
明治二十七、八年役とは、その年に戦われた日清戦争のことである。明治時代には、日清戦争という名称はまだなく、明治二十七、八年役と呼ばれていた。
同じように日露戦争は、明治時代には明治三十七、八年役と呼ばれていた。
日露戦争に関する記念碑は、各地の神社に残っているが、日清戦争を記念するものは初めて目にした。
地元から出征した兵士の名が刻まれている。こういう石碑が神社に建てられているのを見ると、大日本帝国時代の日本にとって、神社が地元の精神的支柱として機能していたのが分る。
境内の裏手には、素戔嗚尊の娘神である市杵嶋媛(いちきしまひめ)を祀る市杵嶋媛社がある。
市杵嶋媛社の裏に、祇園神社創建時からあるという霊石がある。石を撫でて祈れば、一つだけ願いを叶えるという一願石である。
私もこの石を撫でて、史跡巡りの継続を願った。
牛頭天王は、祇園精舎の守護神と言われているが、どうやら日本独自の神仏習合の神様であるようだ。
その神像は、密教の明王像のように憤怒の形相をしており、頭の上に牛の頭を載せている。
明治の神仏分離令で、牛頭天王を祀る社は、素戔嗚尊を祭神にすることを強いられたが、現在も周辺の地名や神社の由来の中に牛頭天王の名が残っている。
長い間信仰されてきた神様を追放するのは、なかなか難しいようだ。