乙倉山金剛寺

 養宜館跡から南東に走り、兵庫県南あわじ市八木大久保にある真言宗の寺院、乙倉山金剛寺を訪れた。

乙倉山金剛寺

 乙倉山金剛寺は、第79代六条天皇の御代である仁安二年(1167年)に、鳥羽天皇第五皇子で仁和寺総法務職に就いていた覚性法親王が、仏法興隆のため全国に建立した金剛名の支院の一つである。

 当初は淡路の中心である国分村に建てられていたが、天明二年(1782年)に発生した火災により、現在地に移転した。

本堂

 本堂に向かって左の生垣の前に、康永二年(1343年)の銘のある成相寺町石がある。

 成相寺は、金剛寺の東方約1キロメートルにある真言宗の寺院である。成相寺までの距離を示す町石が、南北朝時代に複数建てられていた。

 その中で唯一現存する町石が、金剛寺にあるのである。

成相寺町石

側面に残る康永二年の銘

 兵庫県下に残る在銘町石の内、最古のものは、南あわじ市灘黒岩の諭鶴羽(ゆづるは)神社にある建武元年(1334年)の五輪卒塔婆町石である。

 金剛寺に残る康永二年(1342年)の町石は、兵庫県下で二番目に古い在銘町石である。

 地図もナビゲーションもない時代には、道端に建つ町石が寺社参拝の目印だった。金剛寺の町石は、そんな時代の貴重な遺物である。

 金剛寺の境内には、臼曼荼羅と称する石臼で造られた塔がある。

曼荼羅

 石臼が使われなくなってから、村で余った石臼をここに集めて塔を作ったのだろう。

 境内には、本尊千手観世音菩薩像を祀る観音堂がある。

観音堂

観音堂内陣

 文明七年(1475年)、養宜館を拠点とする淡路守護の細川成春が仏法に帰依し、淡路島内の霊跡に33体の観音菩薩像を奉安した。

 これが、淡路西国三十三ヵ所観音霊場の興りである。

千手観世音菩薩

 金剛寺は、淡路西国三十三ヵ所観音霊場の第十番札所である。

 淡路の守護職であった細川氏は、領内に仏像を奉安し、国内が安寧になることを願ったことだろう。

 その後細川氏は、下剋上の戦国乱世において、家臣の三好氏に無残にも滅ぼされたが、細川氏が淡路の安寧を願って建立した霊場が、500年以上経過した今も島内の尊崇を集め、淡路を見守っているのを見て、少しは救われた気分になった。