法雲山妙願寺

 津山市の中心にある百貨店天満屋に車を駐車して、徒歩で津山城下の寺社等を巡ることにした。

 最初に訪れたのは、平沼騏一郎首相の旧宅を復元した知新館である。津山市南新座にある。

f:id:sogensyooku:20200927201434j:plain

知新館

f:id:sogensyooku:20200927201517j:plain

 平沼騏一郎は津山出身の法曹家で、検事総長大審院(現在の最高裁)院長を歴任したのち政界に進出し、司法大臣や枢密院議長などを務めた。昭和14年1月に第35代内閣総理大臣となったが、同年8月、同盟国ドイツがソ連との間に独ソ相互不可侵条約を締結したのを受けて、「欧州の天地は複雑怪奇」なる言葉を残して内閣総辞職をした。

 ドイツのヒトラーソ連スターリンがまともな信義に基づいて条約を結ぶはずもなく、条約締結直後にドイツはポーランドに侵攻し、同時に東からポーランドに攻め入ったソ連と同国を分割した。ドイツは独ソ相互不可侵条約があるため、背後のソ連国境との防衛に兵力を割く必要がなく、全軍を西欧に集中させ、ベネルクス3国とフランスを征服する。フランス征服後の1941年6月に、ドイツは条約を破ってソ連に侵攻する。

 国際情勢は、世界各国が自国の利益を最大化するために動いているという目で見て初めて理解できる。同盟国ドイツが日本と敵対するソ連と不可侵条約を結んだ意図を見抜けなかった平沼は、政治家として一寸ナイーブだったと思う。

 知新館は、昭和13年に、平沼騏一郎古稀の祝いに、法曹界や郷土の有志が、平沼騏一郎生家を元の地に復元したものである。

 昭和25年に津山市に寄贈され、昭和63年まで津山郷土館として利用されていた。私が訪れた日は休館日だった。

 知新館から北に歩き、津山市戸川町にある浄土真宗の寺院、法雲山妙願寺を訪れた。

f:id:sogensyooku:20200927204952j:plain

妙願寺山門

f:id:sogensyooku:20200927205040j:plain

森家の鶴丸紋の入った瓦

 妙願寺は、元々森氏旧城下の美濃国金山に建立された寺院である。

 津山藩初代藩主森忠政の父・森可成(よしなり)は、信長配下の武将で、美濃国金山城主だった。猛将として信長の尾張統一、美濃攻略戦で活躍したが、元亀元年(1570年)の浅井朝倉連合軍との戦いで戦死する。可成の長男・可隆もこの戦で戦死する。

 可成の妻は、この時夫のみならず、長男の可隆も失ったことから、浄土真宗に帰依し、剃髪して仏門に入り、妙向尼と称するようになった。

f:id:sogensyooku:20200927211719j:plain

妙願寺に建つ妙向尼石像

 その後信長は勢力を拡大し、浄土真宗門徒を率いる石山本願寺と衝突し、全面戦争となる。日本史上最大の宗教戦争となる石山戦争である。

f:id:sogensyooku:20200927210527j:plain

妙願寺本堂

 信長は、今の大阪城の地にあった石山本願寺を総攻撃しようとした。

 浄土真宗門徒の妙向尼は、本願寺の危機を救うため、信長と本願寺との間に和睦を成立させるため奔走した。天正八年(1580年)に両者の間で和睦が成立した。

 信長は、妙向尼に提案した和睦の条件の一つとして、美濃金山の地に浄土真宗の寺院妙願寺を建立した。

 妙向尼は、慶長元年(1596年)に没した。本願寺は、妙向尼の功績を讃えて彼女の肖像画を描いた。

 妙向尼の六男忠政が津山藩主になった際、妙願寺も津山に移転した。元和三年(1617年)のことである。

 元和七年(1621年)、西本願寺門主准如が、妙向尼画像を妙願寺二代目住職紹向に贈った。

f:id:sogensyooku:20200927212324j:plain

妙向尼画像説明板

 妙向尼画像は、戦国武将夫人の肖像画として岡山県下で最も古いものである、岡山県指定重要文化財となっている。

 妙願寺は、妙向尼消息も所蔵している。こちらも岡山県指定重要文化財となっている。

 その他にも、森忠政書簡、妙願寺板戸障壁画、庫裏及び客殿が津山市指定重要文化財である。

f:id:sogensyooku:20200927213013j:plain

妙願寺庫裏及び客殿

 妙向尼の6人の男子のうち、長男・可隆は父可成と共に元亀元年に戦死し、次男・長可は小牧長久手の合戦で徳川軍に敗れ戦死した。三男・成利(蘭丸)、四男・長隆、五男・長氏は、3人とも信長の小姓となっており、本能寺の変で信長に従い明智勢に討たれた。

 出家して妙願寺に僧侶として入っていた六男・忠政が唯一生き残り、還俗して森家の家督を継ぎ、徳川の世になってから津山藩主となり、森家の血統を残した。

 夫が信長の躍進に貢献し、3人の子が信長の小姓となっていたからこそ、信長は妙向尼の意見に耳を傾け、本願寺と和睦したのだろう。

 妙願寺の静かな境内に佇み、夫と5人の子を戦乱で失った妙向尼の数奇な生涯にしばし思いを致した。