医王山佛教寺

 JR弓削駅から南下し、岡山県久米郡久米南町仏教寺にある医王山佛教寺を訪れた。ここは真言宗の寺院である。

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仁王門

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 佛教寺は、寺伝によれば、和銅三年(710年)に喜恵上人が開基した。9世紀には真言密教の道場になっていたようだ。

 寺を訪れると、まず立派な仁王門が出迎えてくれる。

 仁王門は、元々は本堂の南東二町先にあったが、いつしかこの場所に移転された。

 仁王門の中には、木造金剛力士像が二躯置かれていたが、現在は宝物庫で保管されている。

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宝物庫

 仁王門に向かって右側に置かれていた阿形像の背部内面左肩から、建長元年(1249年)己酉三月と書かれた墨書が発見され、鎌倉中期の金剛力士像であることが分った。岡山県下では、唯一の鎌倉中期以前の金剛力士像である。同像は、岡山県指定文化財となっている。

 本堂に祀られている御本尊は薬師如来で、脇仏として不動明王毘沙門天を安置している。この三体の仏像は、南北朝期に文観上人が寄進したものだという。

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本堂

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本堂の彫刻

 佛教寺は、天正九年(1581年)の兵火により伽藍を焼失した。慶長九年(1604年)、津山藩初代藩主森忠政の手により寺院は復興した。

 今の本堂は、元は文殊堂として使用されていた。元の本堂が明治19年に崩壊したため、明治20年に境内の文殊堂を移築して本堂としたという。

 元の文殊堂のあった場所に替りに建てたと思われる、小さな文殊堂があった。

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文殊

 寛永十三年(1636年)、美作地方が旱魃に見舞われた際、藩主森長継は、群奉行と村役人に、「佛教寺の龍王祠に雨乞いせよ」と命じた。すると、即日大雨の霊験を得た。

 長継は、お礼にバンバ踊りと呼ばれる踊りを奉納した。「白い菅笠に紙垂を切りかけて、バンバと踊れば雨が降る」。これはバンバ踊りの歌詞の一節である。

 佛教寺への請雨祈願は、近代に入ってからも行われた。昭和時代に4回、渇水がひどかった平成6年にも行われた。

 そのたびに慈雨を得て、バンバ踊りが奉納された。バンバ踊りは、岡山県無形民俗文化財となっている。

 境内の最も奥に、寺の鎮守社が鎮座している。

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鎮守社

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 最初に鎮守社が建築されたのがいつかは分からぬが、現在の鎮守社は、寛文二年(1662年)に再建されたものだそうだ。その後、安永三年(1774年)、天保六年(1835年)、明治25年に修理された。

 三間社流造りの形式で、細部に室町期の特色を残しているらしい。美作地方には珍しい中世神社建築の様式を残した建物だそうだ。岡山県指定文化財である。

 こういう古い木肌剥き出しの建物が、最近好きになって来た。

 境内にある鐘楼堂は、明治26年に再建されたものである。享保十七年(1732年)、寛文二年(1662年)にも再建されているらしい。

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鐘楼堂

 境内から少し離れたところに、文和三年(1354年)の銘のある宝篋印塔が建っている。

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石造宝篋印塔

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 鎌倉期や南北朝期の建物はなかなか残っていないが、こうした石造物は数多く残っている。長い年月を越えて来た石造物だ。

 ところで、平成の世になっても、雨乞いという呪術的な儀式が行われていたというのが驚きである。

 人間は、自分たちの力でどうしようもない時に天に祈るが、天候はまさに自分たちではどうすることも出来ない。

 これからも、佛教寺では度々雨乞いが行われることだろう。