城下町津山は、慶長八年(1603年)に、森蘭丸の末弟・森忠政が、信濃国川中島より美作18万6500石に封ぜられ、その後歴代藩主が町づくりをしたことで形成された。
忠政は、慶長九年(1604年)、鶴山に城を築くことを決め、鶴山の地名を津山に改めた。
津山城の東側を流れるのが宮川である。宮川の東側は、城東地区と呼ばれ、東西に続く旧出雲街道沿いに、町家が立ち並んでいる。
城東地区の建物群が往時の姿をよく留めているため、同地区は平成25年に重要伝統的建造物群保存地区に指定された。
津山城方面から、宮川にかかる宮川大橋を渡れば、その城東地区に至る。
城東地区は、北の丹後山と南の吉井川に挟まれた地区で、北の山際には寺社が建ち並び、その南側が武家地、その南側の出雲街道沿いが町人地であった。
現在でも、出雲街道沿いの町人地に、出格子窓、なまこ壁、袖壁などを残した多くの町家が残っている。
この城東地区の町家の中で、一般向けに公開されているのが、津山市東新町にある旧梶村家住宅である。現在は城東むかし町家という名称で公開されている。
旧梶村家住宅は、国登録有形文化財となっている。
梶村家は、もとの屋号を米屋といい、元禄年間には出雲街道の南側に居住していたらしい。その後現在地に移り住んだ。
宝暦年間(1760年ころ)には、山内屋を称していたが、何の商いをしていたかは不明である。
明和四年(1767年)には、札元並という町役に任命され、藩から名字を名乗ることを許され、茂渡姓を名乗った。梶村姓を名乗るのは、明治4年になってからである。
旧梶村家住宅は、江戸時代後期に建てられ、明治期に改築された主屋と、大正期に建てられた座敷、裏座敷、洋館、東蔵。昭和初期に建てられた西蔵、茶室からなる。
主屋の入口から入ると、広々とした土間が広がる。
土間に入って右手にある小店(商家に訪れた客に商品を見せる場所)に、津山藩主松平家が使用していた、参勤交代用の大名かごの複製品が展示してあった。
このかごは、将軍や御三家しか使用できなかった最高級のかごと同仕様であるらしい。
当時最高級であったとしても、現代から見たら、中で寝転がることも出来ず、冷暖房もついていない、窮屈で不便極まる乗り物である。
土間の奥には竈があり、竈の近くに広い板敷きの台所がある。
台所の上の空間は、天井が高く、大きな梁が交差している。
台所から上がって西に行くと、中の間と仏間がある。小さな和室である。
中の間の西は、明治期に建て増しされた新座敷である。新座敷の周りには縁側が巡らされ、その西側には泉水のある庭園がある。
新座敷の障子などの建具のデザインが凝っている。
新座敷床の間の床框は、黒光りする木材である。名称は分らないが、銘木なのだろう。付書院の建具の意匠も繊細である。
この新座敷から眺める庭園の景色がまた格別である。
古い日本の住宅は、何しろ蒸し暑い日本の夏を過ごしやすくすることを主眼に建てられている。
このような住宅であれば、夏の湿気を土壁と木材が吸ってくれて、日差しを長い軒庇が遮って、涼しい風が屋内を吹き抜けることだろう。
その代り、冬の寒さは相当応えただろうと思われる。
日本の暑い夏を、冷房を使わずに、このような日本家屋の中で、自然の風に当りながら過ごしてみたいと夢見ている。