浜坂先人記念館「以命亭」 前編

 8月20日に但馬の史跡巡りを行った。兵庫県美方郡新温泉町を巡る旅であった。

 私が住む西播磨から新温泉町に行くには、播但連絡道路を使って豊岡に出てから西に行くよりも、鳥取自動車道を使って鳥取に出てから東に行った方が早く安あがりである。今回もそのルートで行った。

 最初に訪れたのは、新温泉町浜坂にある、浜坂先人記念館「以命亭(いめいてい)」である。

浜坂先人記念館「以命亭」

 浜坂先人記念館「以命亭」は、江戸時代に浜坂村の庄屋を務め、酒造業や製糸業を営んでいた七釜屋森家の屋敷を、浜坂町が先人顕彰の施設として修築公開したものである。

 平成4年に開館し、平成20年には国登録有形文化財に指定された。

以命亭の入口

 享保元年(1716年)に初代與右衛門が七釜村から浜坂村に住居を移し、質屋を本業として商売を始めた。

 與右衛門は、商売が軌道に乗ると、兄の利右衛門、弟の伊兵衛を七釜村から浜坂に呼び、森家の基礎を固め、農地経営や商業活動を拡大した。

森家の家系図

 その後代々この地に居を構え、浜坂村の庄屋を務めた。

 森家歴代当主には、文人、教養人が多く、江戸や上方、伊勢、出雲を旅しては、紀行文や地図を残した。

 昭和62年に森家9代目の奥さんが、千葉県に住む10代目の下に身を寄せるためにこの家を出た。

 森家を譲り受けた浜坂町が、改修工事を行い、平成4年に先人記念館として開館した。

 以命亭とは、二代目與右衛門が天明二年(1782年)に屋敷の裏に建てた隠居所の名である。

 茶室が設けられ、森家歴代当主は、ここで和歌、俳諧漢詩、茶道を楽しみ、風雅な余生を送ったという。

 この隠居所としての以命亭は既になくなっているが、記念館の名として使われることになった。

 七釜屋森家の母屋は、明治21年の火災で2/3が焼失し、その後再建された。今残る母屋は、明治に再建された建物である。

母屋の間取り

 母屋の特徴は、縦3つ、横3つ、計9つの部屋があることである。

 庄屋の家は、襖を外せば集会所になるように、真ん中に廊下が通らないように作られている。

 以命亭母屋も、襖を外せば9つの部屋が1つの空間になる。

表の間から中の間、客間を見通す

中の間

 中の間の襖絵は、鳥取の絵師大畠松谷の大正11年の作「松原」である。

 襖を全て閉じれば、絵の全貌が見られるだろう。

大畠松谷作「松原」

 奥の客間には、漢学者となった森家6代目與十郎の弟周一郎(梅園)に関する展示品が置いてある。

客間の書院

床の間

 森梅園は、天保九年(1838年)に生まれ、安政四年(1857年)に但馬聖人と呼ばれた陽明学者・池田草庵に入門し、池田の私塾青蹊書院にて勉学に励んだ。

 梅園は、明治2年に浜坂に私塾味道館を設立し、明治26年には鳥取市にも味道館を設立した。

 生涯を通して漢学、儒学の教育に当たり、門弟は1,000人を越したという。

客間から眺める庭

客間の文机と漢籍

唐宋八大家文」

 日本人にとって漢学が必須の素養でなくなってから、梅園のような儒者は姿を消した。

 次は店の間を見学する。森家初代與右衛門が始めた質屋に関する遺物などが展示されている。

店の間

 店の間は、商売の勘定を行っていたいわゆる帳場である。部屋の真ん中に帳場格子で囲まれた文机がある。

帳場格子と文机

 店の間の奥には、銭戸棚があり、その上のケースに私札、組合札が展示されている。

銭戸棚

私札、組合札

 江戸時代には、藩が発行する紙幣である藩札が流通していたが、明治時代には、国家が発行する紙幣以外に、個人が発行する私札や、県や村が発行する組合札が流通していたようだ。

 国以外の者が紙幣を発行するのは現代では考えられない。当時は豊富に金銀を持っていた個人や県や村が紙幣を発行したのだろう。

 考えてみれば紙幣はただの紙切れである。この紙切れを金行や銀行に持っていけば、いつでもその紙幣に書いてある価値と同じ価値の金や銀と交換してもらえるという信用があるから、紙幣は価値あるものとして流通する。

 現代では金本位制や銀本位制はもうないから、国が発行する紙幣の価値には、本来何の裏付けもない。

 その紙幣に書いてある金額分の買い物が出来ると国が保証し、皆がそれを信じて使っているから、紙幣に価値が生じているに過ぎない。

 そう思えば、商業というものは、仮想ゲームのようなものである。

 犬や猫などの動物は、紙幣や金銀を見ても何も思わない。彼らを動かすものは、飲食物だけだ。

 動物の中で、人間だけが紙幣や貨幣に目を眩ませる。生物の本能と関係のない想像力が、金銀紙幣に価値があると思わせる。
 つまり人間の肥大化した想像力が、経済を回しているのだ。

 店の間の隅に、昭和30年ころに販売されていた真空管ラジオがあった。

真空管ラジオ

 この真空管ラジオは、ナショナルが昭和30~32年に販売していたBL-280というモデルらしい。

 価格は14,300円である。当時の小学校教員の初任給が7,800円だったそうだから、今の価格にしたら40万円ほどだろうか。

 いずれは今の人が使っている最新型のiPhoneも、このようなレトロ品の扱いを受けるようになるのだろう。

 店の間には、神棚もある。

神棚

 昔の商家は、仏壇と神棚の両方を自宅兼店舗に祀っていた。
 森家は、典型的な江戸時代の商家である。

 江戸時代の地方では、庄屋が文化的中心を担っていたことが多い。森家も浜坂地方の文化を担っていたようだ。