新型コロナウイルス対策のために発出された緊急事態宣言のため、史跡巡りは自粛中である。
宣言前に訪問した史跡は、今回紹介する本経寺で最後である。今日以降は、史跡の紹介は暫く休むことになる。
柵原鉱山資料館から西に行ってすぐの場所にあるのが、顕本法華宗の寺院、本経寺である。
当地には、元々真言宗の弘法寺があったが、中世に戦乱で荒廃した。
明応五年(1496年)、京都妙満寺の日扇上人が法華宗の寺院を創建した。初めは桂昌寺と称したが、元和九年(1623年)に本門経王寺と改称した。その後、本経寺と称するようになった。
本堂は、元和四年(1618年)の建築である。
元和四年(1618年)は、姫路城の西の丸が完成し、今に残る姫路城が出来上がったのと同じ年である。桁行三間、梁間三間、入母屋造りの小ぶりな本堂である。岡山県指定文化財である。
本経寺は、日蓮宗を美作南東部に広めた最初の寺院である。寺宝として、唐紙30枚を綴り合せて書かれた伝日蓮上人筆の帆曼荼羅がある。加藤清正が文禄の役の先鋒として朝鮮半島に渡海する際、この曼荼羅を帆にかけたため、帆曼荼羅と呼ばれるようになったという。
本堂内部は、桃山様式の豪華絢爛な装飾が施されているらしいが、拝観できなかった。
鐘楼は、元和九年(1623年)に新築されたもので、正徳五年(1715年)に再建された。
銅鐘を鳴らすと、美しい音色が響いた。
本経寺のある美咲町吉ヶ原は、吉井川沿いの地域で、江戸時代には津山藩の陣屋や舟番所が置かれ、川湊のある町場が形成されていた。
出雲往来が整備される慶安元年(1648年)までは、松江藩と新見藩の参勤交代で、吉井川を上下するのに高瀬舟が使われた。
吉ヶ原は参勤交代の宿場町となり、本陣が置かれた。今でも旧道沿いは、古い町並みを残している。
かつて本陣のあった跡には、土塀が残っている。
すぐそばを流れる吉井川を眺めて、ここを高瀬舟が往来した昔を憶った。
吉ヶ原は、参勤交代の宿場町から鉱山の町となり、今は静かな時間が流れる町となった。
小さな町の歴史に思いを寄せるのも、いいものである。