岡山県瀬戸内市邑久町豊原にある砥石山上に、戦国乱世の梟雄宇喜多直家が出生した場所とされる砥石城跡がある。
砥石山は、高さ100メートルほどの低山である。直家の祖父・宇喜多能家(よしいえ)の居城がここにあった。
「備前軍記」によれば、大永年間(1521~1528年)ころから浦上村宗の配下にあった能家だったが、天文三年(1534年)6月に、高取城主・島村豊後守の夜襲を受け、砥石城は落城し、能家は自害した。
能家の死後、浦上宗景によって砥石城は浮田大和守に与えられた。宇喜多直家は、天文十八年(1549年)、浮田大和守を攻撃して砥石城を奪取した。城主に弟の春家を任じた。
直家は、後に岡山城を奪取し、さらに主家の浦上宗景を天神山城に攻めて追放し、美作の後藤勝基を打ち破り、備前美作のほぼ全域を支配下に置くことになる。
砥石城跡は、砥石山上にある五連郭の本城と、谷を挟んで向かいの山上にある出城とで構成されている。
本城跡からの眺めはよく、現在の岡山市方面から来る敵を、手に取るように把握できたことだろう。
この場所が戦略的に重要だったことが理解できる。
砥石城跡から少し西に行くと、宇喜多直家が浦上宗景から与えられた、直家最初の居城である乙子(おとご)城跡がある。
乙子城跡は、砥石山より更に低い、ほとんど岡である乙子山の上にある城跡である。
乙子城跡への登り口は、乙子山の南側にある鳥居の脇にある。少し登ればすぐ山頂に至る。
山頂の説明板に、戦国時代の乙子城周辺の地図が載っていた。乙子城は地図の中心にある。
今はほとんど干拓地になっている児島湾が、当時は広大な海で、乙子城は吉井川の河口付近に位置していた。
邑久郡を領する浦上宗景は、児島郡の細川氏、上道郡の松田氏の攻撃を防ぐため、天文十三年(1544年)に乙子城を築き、宇喜多直家に30人の足軽を授けて城を守らせた。
直家は、この小さな山城からスタートして、備前美作を制圧していった。
直家の子の秀家は、秀吉に仕えて五大老の一人になったが、関ヶ原の戦いで東軍に敗れて、大名宇喜多家は廃絶した。秀家は八丈島に島流しとなり、そこで果てた。
大名家の栄枯盛衰は、面白いものである。
さて、乙子城周辺の先程の地図を見ると、城の南側に幸島新田という干拓地がある。
江戸時代に入って、岡山藩の郡代で土木技師だった津田永忠が開拓した新田である。
幸島新田だけでなく、児島湾を干拓して出来た沖新田の開発も津田の仕事である。この地図を見ると、津田永忠によって、いかに劇的に干拓地が広がったかが分る。
津田永忠は、天和四年(1684年)に幸島新田の干拓を成功させる。
津田は、千町川を延長させ、その水を新田内に引き入れた。
今の千町川は、まるで運河のようにゆったりと流れている。
幸島新田の完成とほぼ同時に完成したのが、神崎川分水樋門である。
この樋門は、本流である手前の千町川が増水した時に、支流に水が行かないように堰き止めるために作られた。
石護岸も、津田永忠が建設した当時の姿を留めており、何と建設から約330年以上経った現在でも、現役の樋門として使用されている。
岡山県下で確認できる石造の樋門としては、最古のものだろう。
いやもう唯々格好いい。令和元年10月4日付の当ブログ「日生町 後編」で紹介した元禄防波堤のように、江戸時代初期に築かれた土木建造物が、現在も現役で人々の生活を支えているというのが、何とも言えない感動を呼び起こす。
また、令和元年11月5日付の当ブログ「田原井堰と田原用水」で紹介したように、津田は吉井川の水流から取水するための田原用水を建設して、干拓した沖新田まで水を導いた。
この津田の一大土木プロジェクトが、いかに岡山藩の食糧生産水準を押し上げたか。
江戸時代に岡山藩領内で百姓一揆が起こったという話を聞いたことがないが、人々の生活を安定させた津田の功績は絶大である。
現在、岡山藩と津田永忠の土木工事の遺跡を世界遺産に申請しようという動きがあるそうだ。もし実現すれば、喜ばしいことである。
昭和40年に樋門を改修した時に出土した神崎川分水樋門の用材が、その南側に建設された現在の樋門の横に二本建てられている。
一本は貞享四年(1687年)の銘があり、もう一本には享保廿年(1735年)の銘がある。
宇喜多直家のように権謀術数を用いて領地を広げるのも人間の事業なら、津田永忠のように土木技術を通じて人々の生活水準を上げるのも人間の事業である。
大名宇喜多家も、岡山藩も滅亡したが、津田永忠の土木工事の功績は現在も残って人々の生活を潤している。