岡山市東区西大寺中にある高野山真言宗別格本山金陵山西大寺は、いわゆる「裸祭り」の俗称で知られる奇祭・西大寺会陽で有名である。
私も会陽のイメージでしか西大寺を捉えていなかったが、訪れて見ると、神仏習合が今に息づく、なかなか力強さを感じさせる寺院であった。
参拝者を迎えるのは、元文五年(1740年)建立の仁王門である。
岡山県下でも最大級の三間一戸の楼門で、和様と禅宗様を併用し、組物を多用している豪壮な門である。
組物間の中備には、北面から時計回りに十二支の彫刻が彫られている。
これほど豪快な組物と彫刻を組み合わせた仁王門ながら、文化財としての指定は受けていない。
さて、西大寺の縁起であるが、天平勝宝三年(751年)に、周防国玖珂庄に住んだ藤原皆足姫(ふじわらみなたるひめ)が、妙縁により観音像を手に入れた。
この観音像は、大和国長谷観音の化身が彫ったものであった。皆足姫は、御礼参りのため、大和国に向かって船旅をした。途中備前国金岡庄(今の西大寺の辺り)に船を停泊し、夫が勤務する国府を訪れ、しばらく逗留した。いざ船を出そうとすると、船は微動だにしなかった。姫が観音像を陸に移すと船が軽やかに動き出した。
姫は観音像と金岡に妙縁を感じ、ここに草庵を建てた。これが西大寺の起源である。
宝亀八年(777年)、大和国長谷寺で修行中の安隆上人に、観音様から「備前金岡の観音堂を修繕せよ」と夢告があった。安隆上人は、皆足姫の助けを得て、観音堂修築のための資材を船に載せて備前金岡に向かった。上人は、吉井川の河口付近で、犀の角を持った仙人に出会った。仙人から、「この犀の角が自ずと鎮まる所が観音大士影向の聖地。そこに御堂を移したまえ」との霊告があった。
安隆上人は、犀の角が鎮まった現在地に観音堂を移し、犀戴寺(さいだいじ)を建立した。
後年後鳥羽天皇から賜った祈願文から、寺名を西大寺と改称した。
弘法大師空海が、海を隔てた讃岐に生まれたのは宝亀五年(774年)である。西大寺が犀の角を奉じて現在地に移った3年前である。西大寺は後年高野山真言宗の寺院となったが、何か弘法大師との縁も感じさせる。
高祖堂は、延宝三年(1671年)の建立で、安永九年(1780年)に修復された。祀られている宗祖弘法大師像は、延宝三年に大阪天満の吉右衛門が彫ったものである。高祖堂の扁額は、高僧佐々南谷の筆によるという。
仁王門の南側には、経蔵がある。
経蔵の中には、自由に出入り出来る。今まで、様々な寺院で経蔵を見てきたが、自由に入ることが出来る経蔵は初めてだ。
経蔵は、嘉永七年(1854年)の建設である。内部には、六角形の書架がある。小さな抽斗が多数設置された回転型の書架である。
この書架の抽斗の中には、全六百巻の「大般若経」の巻物が収められていて、この回転式書架を一回転させると、「大般若経」六百巻を唱えたのと同じ功徳があるという。
私も回転式書架を押して一回転させてみた。
経蔵内部の壁には、仏、菩薩、縁覚、声聞の四聖道と、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道を合わせた十界の絵図が展示されている。
最後に展示されている「熊野観心十界曼荼羅」の図が、仏の世界と恐ろしい地獄の世界を描いていて興味深かった。
中世日本人の心の中の世界を覗き見るような絵図である。
さて、仁王門と本堂との間には、三重塔が聳えている。
私が史跡巡りで訪れた11番目の三重塔である。
この三重塔は、延宝六年(1678年)の建築である。岡山県下の仏塔の中でも、一際古式を残した優美な塔であるらしい。岡山県指定重要文化財である。
三重塔内部には、大日如来坐像が御本尊として安置されている。
この西大寺三重塔には胎蔵界大日如来が祀られているが、先日紹介した餘慶寺三重塔には、金剛界大日如来が祀られている。両寺院の三重塔にお参りすることにより、両界の大日如来を参拝したことになるそうだ。
さて、境内の南側には、文政二年(1819年)に建立された石門がある。
石門は、正式名称は龍鐘楼(りゅうしょうろう)と言う。下階は石造、上階は一軒扇垂木の木造で、漆喰で塗り込められている。
門の内側には、寄進者の名が彫られているが、頼山陽が筆にしたものであるらしい。
石門を潜ると鳥居があり、その向こうに観音像が立っている。
鳥居の向う、観音像の周囲は、一段と低くなっているが、西大寺会陽の時には、ここに水が張られ、裸体となった男たちが、ここで垢離取りを行い、身を清めるのである。
西大寺会陽は、裸の男たちが、福を授かるため、二本の宝木を求めて激しくぶつかる祭りである。仏教寺院の祭りにしては、珍しく力強い祭りである。
西大寺は、未だに神仏習合の匂いが強く残っている。いい意味で雑多なパワーに満ち溢れた寺院であると感じた。
とはいえまだ西大寺の紹介は序の口である。この寺院の持つ魅力を、後の回で伝えることが出来るだろうか。