赤松氏の下で備前国守護代をしていた浦上氏は、応仁の乱後、主家の赤松氏よりも強大になった。
浦上村宗は、大永元年(1521年)、主君である赤松義村を殺害し、その子赤松政村(後の晴政)を傀儡として、播磨、備前、美作の実権を握った。
村宗は、中央での細川晴元との政争に敗れた管領細川高国と連合して上洛し、中央の政争に介入することを計り、播磨を制圧、摂津に侵攻したが、享禄四年(1531年)、援軍に来た赤松政村の寝返りに遭い、背後から急襲されて戦死した(大物崩れ)。
政村は、村宗に殺された父義村の仇を討つため、寝返ったのだろう。
その享禄四年、浦上村宗の子である浦上宗景は、拠点を三石城から天神山城に移した。その後天正五年(1577年)の落城まで、天神山城は、浦上氏の拠点となる。
天神山城跡は、岡山県和気郡和気町田土・岩戸にある天神山の山上にある。
天神山(標高409メートル)と別峰山(標高338メートル)にかけての尾根上に、約500メートルに渡って、連郭式の山城が築かれた。
宗景は、享禄四年に天神山の山頂に太鼓丸城(前期天神山城)を建て、その後天文二年(1533年)に別峰山頂に天神山城の本丸等を建てた。
別峰山頂にあった天津社は、この時山麓に移され、天石門別(あまのいわとわけ)神社となった。
天神山への登山口は、天石門別神社の脇にある。ちなみに天石門別神社の社頭にある備前焼の狛犬と和気清麻呂像が見事であった。特に清麻呂像は、生きているかのような表情をしていた。
清麻呂の足元によりそう猪が可愛らしい。
登山口から天神山を登り始めた。
ところで、山に登り始める前、麓に「クマ出没注意」という看板があったのが気になった。最近ここでツキノワグマの目撃情報があったという。
登り始めてしばらくすると、私の左後方で「がさがさ」という音がするのに気づいた。
最初は鹿か何かだろうと思って気にしなかった。鹿ならば、こちらの存在に気づけば逃げていく筈である。
その後200メートルほど登ったが、先程と同じくらいの距離・方角から「がさがさ」という音が聞こえる。何者かが私をつけてきていることに気づいた。鹿ではない。猪が人間をつけてくるというのも考え難い。ひょっとして熊ではないかと思い、尾根上から斜面の下を覗いた。
すると、こちらからは何も見えないが、向こうからはこちらが見えたのか、「がさがさ」という音が「がさがさがさっ」と激しくなり、音だけがどんどん近づいてきた。
姿は見えないが、私は「熊だ」と思い、全力で登攀を始めた。しかし、足場の悪い急坂であったため、100メートルも登ると、息切れがして、これ以上の速度で登れなくなった。
ここで追いつかれたら戦うしかないと覚悟を決め、武器になるものを探したが、周りには石くらいしかなかった。
その後のろのろとした速度で歩き続けた。何者かの音は聞こえなくなり、結局私の前に熊は現れなかった。それにしても音だけがどんどん近づいてくるという恐怖は相当なものである。
さて、しばらく登ると、かつて見張り所があった場所に出た。
さすがに見張り所だけあって、ここからの眺望が抜群であった。
南側には、11月5日の「田原井堰と田原用水」の記事で紹介した、新田原井堰が見える。
西側もまた見事な眺めである。
天神山は、吉井川に対して、南西方面に突き出ている形だが、吉井川に沿って攻めてくる敵はここから丸見えである。
山頂にあった鳥瞰図を参考に掲げる。
この鳥瞰図は、天正初年ころの天神山城の姿を再現したものである。この右側には、前期天神山城である太鼓丸城の鳥瞰図が続いている。
見張り所から登ると、鳥瞰図の一番左にある下の段の石垣が見えてきた。
下の段は、西から攻めてくる敵を上から攻撃するための隠曲輪で、50騎が入る曲輪である。
これから天神山城跡の遺構を紹介していくが、鳥瞰図のとおりの山城が残っていたとしたら、相当な偉観であったろうと想像する。
浦上宗景は、家臣の宇喜多直家の裏切りにより天神山城を追われるが、その後の消息は杳として知れない。
主を失った城跡は、今もひっそりと戦に備えた形を残している。