瑠璃寺 宇野氏主従供養碑

 上三河農村舞台から更に北上し、佐用町船越に入ると、瑠璃寺の山門が見えてくる。

 船越山の中腹にある真言宗の寺院・瑠璃寺の山門である。

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瑠璃寺山門

 山門は寛永十五年(1638年)の造営である。しかし、所々痛みがあって、長年月の風雪に耐えてきたことを物語っている。

 この山門から、寺院の中心地までは、約800メートルある。

 途中に何故か昆虫館があったが、平日だったので休館していた。

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昆虫館

 瑠璃寺は、神亀五年(728年)に、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開山したと伝えられる。

 近世までは、南光坊とも称し、修験本山派の寺院として栄えた。修験道の寺院だったころは、付近に山伏や修験者が多く居住していた。

 今は高野山真言宗の別格本山となっている。

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本坊への門

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本坊

 修験者の修行の場に相応しく、寺院は鬱蒼とした杉林に包まれている。

 本坊には自由に上がって参拝できる。中には真言密教須弥壇が設置され、弘法大師空海が祀られている。本坊自体は昭和の建築である。

 本坊の裏には、護摩堂がある。護摩堂には、国指定重要文化財である木造不動明王坐像が祀られている。

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護摩

 護摩堂の不動明王坐像は、カヤの一木造りである。両端の牙が上を向く彫刻は、不動明王坐像としては、広隆寺不動明王像と並んで2つしかなく、珍しいらしい。兵庫県最古の不動明王像だそうだ。

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木造不動明王坐像

 窓の隙間から不動明王坐像を撮影したが、護摩壇の柱があって、お顔が奇麗に写せなかった。ありがたく拝むのみである。

 本堂に進む道は、石段に苔が生え、両側に高い杉が並び、深山の中を行くが如くである。

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本堂への参道

 この船越山は、シダ植物を始め様々な植物が豊富に繁茂し、野鳥の宝庫でもある。岡山と鳥取県境に近い佐用町奥地は、雨がよく降り、冬は積雪する。自然豊かな場所である。

 本堂は、古びて痛んでいる。あまり修復されていないように見える。しかし、彫刻は見事である。

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本堂

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本堂軒下の彫刻

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 本堂内には、千手観音坐像が祀られているが、秘仏である。

 本堂の脇には、鐘楼がある。鐘楼にかかる銅鐘は、応安二年(1369年)の銘があり、赤松円心の三男で、赤松惣家を継いだ赤松則祐の名が刻まれている。

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鐘楼

 瑠璃寺は、赤松家と関係深い寺である。瑠璃寺中興の祖は、赤松円心の末弟の赤松覚祐である。

 鐘楼の隣の開山堂には、覚祐坐像が祀られている。

 ここでも赤松氏の足跡を見出した。何だか嬉しい。

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開山堂

 瑠璃寺境内には、「船越山モンキーパーク」という、野生の猿放し飼いの動物公園がある。突然変異の金色の毛の猿を呼び物にしている。

 昭和36年に、野生猿を餌付けして開園したそうだ。モンキーパーク見学は有料である。しかし、寺院が猿を餌付けして集め、動物公園にして見世物にしているところが、いかにも「何でもあり」の真言宗らしくていい。私はモンキーパークは遠慮して見なかった。

 さて瑠璃寺を更に北上すると、宍粟市千種町に入る。千種町の中心近くに大森神社がある。

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大森神社

 なかなか立派な神社だが、境内に河呂農村歌舞伎舞台がある。

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河呂農村歌舞伎舞台

 上三河町の農村舞台よりはこぶりだが、江戸時代末期の建築で、明治30年に大改修されている。皿回式回り舞台や分解式の花道を有する。

 現代には、スマートフォンさえあれば、他に何もいらないというほど、それだけで娯楽を得ることが出来るが、江戸時代や明治時代にはラジオもテレビも映画もなく、娯楽と言えば芝居だった。

 江戸や大坂、京都といった都市では歌舞伎を観ることが容易にできたが、農村部の人たちは芝居に飢えていた。なので、播州のあちこちに農村歌舞伎舞台が出来て、農村の者が芝居を自分達で演じたのだろう。

 大森神社から少し東に行くと、宇野氏主従供養碑がある。今年8月6日の長水城址の記事で書いたが、秀吉に攻め落とされた長水城主宇野氏主従が城を脱出し、秀吉軍の追撃を受ける中、自刃したのがこの辺りであった。

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宇野氏主従供養碑説明板

 赤松氏も元々は宇野氏から分かれた支族であった。赤松円心の代に、赤松氏が播州武士の中心となり、宇野氏は播磨守護赤松氏の下で、西播磨守護代となる。

 戦国時代には、赤松惣家の力が衰え、宇野氏は独立し、今の宍粟市を中心に勢威を張った。

 天正八年(1580年)に、播磨平定中の秀吉軍に長水城を攻められ、宇野政頼らは再起を図り城を脱出した。しかし、この地で秀吉軍に包囲され、もはやこれまでと主従自刃して果てた。

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宇野氏主従供養碑

 宇野政頼の五歳の末子は、乳母に守られて、今日紹介した船越山の瑠璃寺に逃れ、匿われた。長じて船越山二十七世中興法師権大僧都真賢大和尚となり、政頼の三十三回忌である慶長十七年(1612年)に、この地に供養碑を建てた。それがこの供養碑である。供養碑は、400年に渡って、宇野氏主従の慰霊をしてきた。

 今まで西播磨の史跡を巡って気づいたが、鎌倉時代末期から南北朝時代室町時代を通じて、西播磨を支配してきた赤松氏や寺社勢力を一掃し、支配構造をリセットしたのが、秀吉率いる織田軍であった。

 赤松氏や宇野氏は、播磨の中世的なものを象徴する存在である。彼らの支配の痕跡は、今や城跡や寺院、神社に僅かに残るだけだが、そうした痕跡を見つけると、「あ、ここに中世が生きている」と思うようになった。

 私も長年西播磨に住んでいるが、史跡巡りを始めるまで、そんなことを思ったこともなかった。何かを始めてみれば、何がしかの新たな発見があるものである。