當勝神社 後編

 當勝神社の本殿は、安政六年(1859年)の再建とされている。

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當勝神社本殿

 本殿には、拝殿のような濃密な彫刻は施されていない。本殿建築には中井権次一統は参加していないものと思われる。

 その代わり、三手先まで組まれた斗栱と尾垂木が見事である。

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本殿の組み物

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 屋根の重量を柱の上に集約する斗栱の構造の面白さ。それが同時に美的景観を生み出すところは、木造建築の醍醐味であろう。

 「兵庫県の歴史散歩」下巻によると、本殿の柱には、台湾総督や逓信大臣を歴任した地元出身の政治家・田健次郎が、明治7年に19歳で故郷を離れた際に書いた落書きが残っているという。

 しかし、その落書きを見つけることは出来なかった。

 本殿の東隣には、當勝天神の社が建っている。

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當勝天神

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 當勝天神は、学問の神様・菅原道真を祀っているのだろうが、當(まさ)に勝つという社の名前が如何にも御利益がありそうなので、受験生が捧げたと思われる絵馬が多数下がっている。

 よく見ると、檜皮葺の屋根の上に、それを保護するかのように瓦葺の屋根が載っている。屋根だけの覆屋だろうか。

 當勝天神の建物も、組み物に特徴がある。尾垂木や木鼻には、干支の動物と思われる種々の動物が彫られている。

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組み物

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 よく見ると、猿や兔や鼠の彫刻がある。

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尾垂木の龍や木鼻の麒麟、獏

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軒下の彫刻

 當勝天神の彫刻はなかなかユーモア溢れるものである。この社の築造年代は分らないが、これらの彫刻にも中井権次一統の手が加わっているのかも知れない。

 當勝神社の社叢は、粟鹿山の中腹に広がる森林である。

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當勝神社の稲荷社への石段

 稲荷社への石段を見上げると、神寂びた杉の林が続いている。

 私は山の多い地方に住んでいるが、山の麓には、大抵小さなお社と鳥居がある。

 日本人にとって、山そのものが神様という考えは、すんなりと腑に落ちる。

 数千年の間、鬱蒼とした山に囲まれた暮らしをしてきた日本人の文化の中に自然と生まれた考えなのだろう。

當勝神社 前編

 粟鹿神社の参拝を終え、そこから粟鹿の集落を少し奥に進む。

 その先にあるのが、當勝(まさかつ)神社である。

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當勝神社

 この神社の祭神は、天照大御神須佐之男命の誓約(うけい)から生まれた、天照大御神の子の正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)である。

 なぜこの神様がここに祀られているのか、由来はよく分からない。

 當勝神社の創建は天平二年(720年)と言われている。

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二の鳥居

 朱色の一の鳥居を潜って、森に覆われた境内に入っていく。境内には、縹渺とした空気が漂っている。

 連続する鳥居を潜って行くと、目の前に随身門が見えてくる。

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随身

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 随身門は、切妻造、軒唐破風付の唐門で、唐門に中井権次一統の凝った彫刻が施されている。山東町指定文化財となっている。

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唐破風

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 今の當勝神社の拝殿と本殿は、幕末に建てられたものらしい。時代的には、中井権次一統七代目の中井権次橘正次の作であろう。この随身門も同時代に建てられたものだろう。

 随身門の蟇股に当たるところに彫られている力士の像が面白い。

 随身門の唐門を潜って上を見上げると、天井の下にも蟇股や手挟みに透かし彫りが施されている。

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随身門天井の透かし彫り

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 まことに中井権次一統が北近畿各地の寺社に施した微細な彫刻は、当地方の至宝である。

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随身門の獅子の彫刻

 随身門を過ぎると、御神木が手前にあり、その奥に拝殿が見えてくる。

 拝殿は、慶応四年(1868年)に建てられたものだそうだ。

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御神木

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拝殿

 拝殿の手前の狛犬が、すっとぼけた表情をしていた。

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拝殿前の狛犬

 さて拝殿に近づくと、この建物に施された彫刻が尋常なものでないことがすぐに分かった。

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拝殿の全景

 拝殿は、唐破風の向拝が付いた入母屋造、銅板葺きの建物である。唐破風の上に小さな千鳥破風が付いていて、その下に狛犬の顔の彫刻が施されている。

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狛犬の顔の彫刻

 そして唐破風の下の彫刻は、もうやりすぎだろうと言うほどの濃密な彫刻群である。

 言葉を失う圧巻の作品だ。

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鳳凰の彫刻

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唐破風の下の彫刻

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獅子たちの彫刻

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龍の彫刻

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木鼻の彫刻

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手挟みの彫刻

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 空白を埋めるかのような、密度の濃い彫刻である。霊獣たちの目の後ろが赤く塗られているが、これが中井権次一統の彫刻の特徴である。

 よく見ると、木目も彫刻の中に生かされていて、味を出している。

 當勝神社は、兵庫県下でも知名度のあまりない神社で、観光客も少ない。こんな人気のない奥地でこんな贅沢な彫刻を見ると、自分だけの宝物を見つけたような気になる。

粟鹿神社

 楽音寺の見学を終え、東に車を走らせる。次なる目的地は、朝来市山東町粟鹿にある但馬国一宮の粟鹿(あわが)神社である。

 実は、但馬には一宮が二つある。もう一つは豊岡市出石町にある出石神社である。なぜ但馬に一宮が二つあるかは分からない。

 粟鹿神社に向かう途中、但馬最古級の古墳、若水(わかす)古墳を見学しようと思ったが、どうやら北近畿豊岡自動車道の工事で墳丘が破壊されてしまったようだ。

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若水古墳のあった辺り

 古墳に行きつく道もない。仕方なく、かつて墳丘のあった辺りを写真に収めた。

 若水古墳は、直径約40メートルの円墳で、3世紀後半に築造された。ここからは、中国製の鏡2枚が発掘されたらしい。但馬では最も古い古墳で、この地を切り開いた王者が埋葬されたのだろう。

 粟鹿神社は、この若水古墳から数百メートル先にある。

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粟鹿神社の鎮守の森

 粟鹿神社の周囲は、鎮守の森に覆われている。森の北側には、御神木の古い杉が生えている。

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御神木

 粟鹿神社は、粟鹿山の山麓に位置する。祭神の彦火火出見(ひこほほでみ)命が但馬を平定し、山に登って国見をした時、三本の粟をくわえた鹿が現れ、粟を命に献上したという。それ以来、その山を粟鹿山と呼ぶようになったとされている。

 彦火火出見命は初代神武天皇の祖父で、山幸彦と同一とされている。この神様が活躍した舞台は、記紀神話では南九州で、どうもこの但馬の地と結びつかない気がする。 

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鳥居

 また第9代開化天皇の第三皇子、日子坐王(ひこいますおおきみ)を祭神とする説もある。

 「古事記」では、第10代崇神天皇が、弟の日子坐王を丹波道に派遣して、丹波方面を平定させたとされている。

 粟鹿神社の本殿裏には、どう見ても人工的に造られた墳丘のような塚があるが、これが日子坐王の墓だという伝承がある。

 丹波から更に北西に進軍すると朝来に至る。丹波を平定した日子坐王が、この地で力尽きて亡くなったというのもあり得る話だ。

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粟鹿神社の勅使門と随身

 神社の近くにある若水古墳は、築造年代が崇神天皇の時代と重なる。日子坐王にまつわる伝承も、強ち間違っていない気がする。

 粟鹿神社は、「延喜式」の明神大社に列せられており、古来から社格は高かったようだ。

 その証拠に、天皇の勅使を迎えるための勅使門が神社に備えられている。この門は四脚門である。

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勅使門

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 元寇の際に敵国調伏を祈るための勅使が粟鹿神社に派遣された。勅使門はその時に建てられたという。

 今建っている勅使門がいつのものかは分からないが、少なくとも応仁の乱よりは前のものであるらしい。

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勅使門

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羽目板の鳳凰の彫刻

 粟鹿神社には、国家の危難に際し、四回勅使が派遣されたそうだ。この門を再度勅使が潜る時が来るのだろうか。粟鹿神社勅使門は朝来市指定文化財である。

 随身門の表側には、朝来市指定文化財となっている木造著色随身倚像が置かれている。

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随身

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木造著色随身倚像(阿形)

 随身倚像の制作年代は分らないが、随身門の棟札から、天和三年(1683年)に門が再興されたと分かっている。その時に作られたものか。

 随身門の裏側には、朝来市指定文化財の木造著色狛犬像二体が安置されている。

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木造著色狛犬像(阿形像)

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木造著色狛犬像(吽形像)

 この狛犬像も、江戸時代初期の制作とされている。

 随身門を潜って境内に入ると、杉が林立する森閑とした空気が辺りを領していた。

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森閑とした境内

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弁天堂

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天満宮

 杜の中の社である。

 鹿が粟を加えてきたという逸話は、農耕がこの地に伝わったことを暗示している。

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拝殿

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拝殿前の狛犬

 3世紀後半に大和王権の支配がこの地に及ぶ前から、この地では農耕が行われていただろうが、弥生時代の農耕より一段進んだ文化を齎したのは大和王権だったろう。

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本殿

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 本殿の裏には、人工的に土が盛られたと思われる墳丘のようなものがある。日子坐王の墓だと伝承されている塚だ。

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本殿裏の塚

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境内の裏側から見た塚

 この丘が墳丘だとしたら、粟鹿神社は明らかにこの墳丘に眠る者を祀るために建てられたものである。
 若水古墳と粟鹿神社の墳丘に埋葬された者は、この地に大和王権に関連する先進の文化を齎した者だろう。

 古墳時代には、その土地の発展に寄与した者は、大きな墓に葬られたが、文字がなかったため、時と共に墓に葬られた者が誰だったのか分からなくなってしまった。

 後世の我々は、古墳から発掘された遺物や、近くの神社の伝承、記紀風土記から、被葬者を想像するよりほかなくなった。

 我が国は、古墳時代からの政権が今に続く、現存する世界最古の国だが、国家の発祥が謎に包まれている世界唯一の国である。

正覚山楽音寺

 茶すり山古墳の見学を終え、次なる目的地、正覚山楽音寺に行く。

 兵庫県朝来市山東町楽音寺にある真言宗の寺院である。

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楽音寺

 楽音寺の創建は、大同二年(807年)である。明賢上人が、紀州那智の滝を拝して念誦していると、深淵中に五色の光明が見えた。上人が怪しんで近寄ると、即ち薬師仏金像と迦葉仏像があった。

 上人は喜んで小堂を建てて仏像を祀った。ある時上人は、「但馬朝来の地は我が有縁の地なり」という薬師如来のお告げを受けた。

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楽音寺鐘楼門

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鐘楼門の龍の彫刻

 お告げを受けた明賢上人は、薬師仏金像をこの地に移し、楽音寺を建てた。

 楽音寺は創建時、南都六宗のいずれかの宗派の寺院だったが、堀河天皇の寛治年間(1087~1093年)に真言宗の寺院となった。

 この当時の楽音寺は、七堂伽藍、僧坊七院を備えた大寺院だったという。

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住房

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 その後大火が発生し、堂宇悉く焼尽したが、幸い薬師仏は残り、小堂を再建して安置された。

 大正14年、今の楽音寺から100メートルほど山中に入った旧屋敷跡から経瓦が発掘された。

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、末法思想が流行し、人々は経文を紙や布に書いて経筒に収めたり、腐らない銅板や瓦に刻んで残した。

 楽音寺の経瓦は、その当時の人々が作ったものである。瓦に五列三段の阿弥陀如来像が彫られ、それぞれの如来像の腹に文字が一文字ずつ彫られているという変わったものだそうだ。兵庫県指定文化財となっている。

 天正年間(1573~1593年)に、盗賊が薬師仏を盗んだという。竹田の町の鍛冶屋で溶かそうとしたところ、仏像が「がくおんじがくおんじ」と叫んだという。盗賊は恐ろしくなり、仏像を楽音寺の前にある泥池に投げ捨てた。

 当時の住職秀伝が泥池を見ると、七色に光輝いていた。そこに薬師仏があるのを見つけ、謹んで祀ったという。

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泥池の跡に建つ福寿弁財天

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 盗賊が薬師仏を捨てた泥池には、今、福寿弁財天が建つ。

 この祠の前で、弁財天の真言「オンソラソバテイエイソワカ」を唱えると、何だか力が湧いてくる気がした。

 さて、那智の滝の滝壺から現れたという薬師仏は、本堂に祀られている。

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本堂

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本堂内陣

 御本尊の薬師仏金像は、秘仏として50年に一度公開されている。

 大同年間に那智の滝の底から現れたとされる薬師仏を今ここで私が拝むのも、何かの縁である。

 地球上に生命が生まれたのは、とんでもない偶然が重なった結果だとよく言われる。   

 そう考えると、毎日目にする風景や、人々との出会いも、二度と遭遇することのない偶然の上に成り立っている。まさに全てが縁である。

 毎日何気なく過ごす日々が、実は奇跡の連続であることを、仏は不断に教えているような気がする。

茶すり山古墳

 竹田城跡の見学を終え、次に朝来市和田山町筒江にある茶すり山古墳を訪れた。

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茶すり山古墳

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 茶すり山古墳は、5世紀前半に築かれた円墳である。直径約90メートル、高さ約18メートルで、近畿地方最大の円墳である。現在は国指定史跡となっている。

 この古墳が発見されたのは、最近のことである。平成13年の北近畿豊岡自動車道の工事の事前調査で、ここに古墳があることが判明した。

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発掘調査前の茶すり山古墳

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発掘調査中の茶すり山古墳

 茶すり山古墳は、当初は城跡だと思われていた。しかし調査が進むにつれ、二段式の円墳であることが分かった。

 そして墳頂から、二つの埋葬施設が見つかった。その内の一つには、長大な棺が埋められ、鏡や鎧、刀剣、鏃などの武具が大量に収められていた。

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第一埋葬施設

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第二埋葬施設

 第一埋葬施設に収められた副葬品の豪華さと円墳の大きさから、茶すり山古墳は、古代にこの地を治めた王の墓だと言われている。時代背景を考えれば、大和王権と関係の深かった当時のこの地方の族長の墓であろう。

 茶すり山古墳のすぐ北側には、北近畿豊岡自動車道が建設されたが、同時に史跡整備事業により、過去の円墳の姿が復元された。

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建設中の北近畿豊岡自動車道と茶すり山古墳

 その結果、全体が芝生で覆われた美しい円墳の姿を取り戻したが、茶すり山古墳は、元々は芝生ではなく葺石に覆われていたようだ。

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復元された古墳の全景図

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芝生に覆われた円墳

 円墳の二段目は、「テラス」と呼ばれている。テラスの上には、円筒形埴輪が並べられていた。今はその状態が復元されている。

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テラス上の埴輪

 茶すり山古墳の背後に回ってみると、この古墳が完全に独立した円墳ではなく、背後の山地に連なっているのが分る。

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古墳の横顔

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背後の山地に連なる古墳

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 墳丘上に登ると、墳頂は平らになっており、円形に埴輪が並べられている。

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墳頂部

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 墳頂部には、第一、第二の埋葬施設が再現され、ガラスケースで覆われている。

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第一埋葬施設の再現

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第一埋葬施設の発掘状況

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王の埋葬場所の再現

 王が埋葬された場所は、頭部の下に朱が撒かれ、頭の上に鏡とガラスの首飾り、勾玉、菅玉が置かれ、体の左右に刀剣が置かれていた。

 恐らく生前の王が、権力の証として身近に置いていたものなのだろう。

 これらのものは、記紀神話に書かれた三種の神器と共通する。恐らく大和王権は、各地の豪族に、地方における自分たちの代理支配の証として鏡、剣、玉を分け与え、前方後円墳を築くことを許可したのだろう。豪族たちはそれを自分たちの支配の正当性の証としたのだろう。

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墳頂から眺める和田山盆地

 そうなると、豪族に支配の正当性の証を分け与える大王(天皇)にも、当然誰かから授かった支配の正当性の証が必要となる。

 それが、天照大神から邇邇芸命に授けられ、現在も皇室に伝わるとされる皇位継承の証、三種の神器である。

 平成から令和への代替わりでも、賢所の儀、剣璽等継承の儀が行われ、三種の神器は新天皇に受け継がれた。

 古墳時代の王位継承の文化が、現在の日本にも続いている。つくづく日本は面白い国だ。

 茶すり山古墳の近くにある道の駅に隣接して、古代あさご館という、朝来市内から見つかった古代の遺物を展示する資料館がある。

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古代あさご館

 古代あさご館の中には、茶すり山古墳から発掘された円筒形埴輪や家形埴輪が展示されている。

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円筒形埴輪

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家形埴輪

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 これらの埴輪は、国指定重要文化財である。

 朝来の地は、播磨方面と丹波方面と豊岡方面への道が交差する場所である。古代にも重要な場所とされていたことだろう。

 古代大和王権が、地方の豪族を服属させる先端技術を、どのように入手したのか、興味は尽きない。

竹田城跡 後編

 二の丸から本丸に近づく。天守台の上が、この山で最も高い場所である。

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本丸と天守

 本丸の西側から天守台に上がることが出来る。

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天守

 天守台に登り四囲を見渡すと、まず目につくのは、南二の丸と南千畳の全景である。

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南二の丸、南千畳の全景

 このアングルから眺めた南二の丸、南千畳は、竹田城跡の観光写真などでよく見かける。

 北西を見下ろすと、北近畿豊岡自動車道のアーチ橋が見える。

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眼下の北近畿豊岡自動車道

 北近畿豊岡自動車道は、丹波から豊岡にかけて通る無料の自動車専用道路である。この道路のおかげで、昔と比べ豊岡への時間がかなり短縮された。

 今後の但馬の旅で再々利用することになるだろう。

 北を眺めれば、今まで歩いてきた二の丸、三の丸が目に入る。

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二の丸、三の丸

 こうして見ると、北千畳は本丸よりかなり下にあるのが分る。

 天守台から下りて、本丸の西側を見ると、今は立入禁止になっている曲輪の一つ、花屋敷がある。

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本丸西側の花屋敷

 本丸の西側を回って、南二の丸に進む。本丸の西側は、急傾斜の石垣で覆われている。

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本丸西側

 こちらから本丸を攻撃するのは無理だろう。本丸を攻め落とすには、矢張り3つの曲輪のどれかを攻略する必要がある。

 本丸をぐるりと回って、南二の丸に進む。

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南二の丸

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南二の丸

 南二の丸から本丸を見返ると、重層的な石垣が目に映える。

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南二の丸から眺めた本丸

 昨日の記事で、竹田城跡は建物が無い方がいいと書いたが、一方で、建物が建っていたころの竹田城を一度見てみたいという気持ちもある。

 南二の丸を出ると、広い曲輪の南千畳に至る。

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南二の丸の出入口

 それにしても感心するのは、竹田城跡の石垣に使用されている石が、形は違えども材質や色合いが統一されていることである。

 この石をどこから調達してきたのだろう。そしてこれだけの石を山上まで運んだ労力は尋常ではなかったろう。

 南千畳は、芝生に覆われた広々とした空間である。

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南千畳

 南千畳の南端からは、生野方面(播磨方面)からやって来る敵の動きを手に取るように把握することが出来る。

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生野方面の眺望

 南千畳から本丸方面を振り返ると、南二の丸から本丸、二の丸に続く石垣群が視野に入る。

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南千畳から眺める石垣群

 南千畳には、一本の赤松が独立して生えている。そう古い木ではないだろうが、これからも竹田城跡を見守っていく木だろう。

 とりあえず、この木の今の姿を写真に収め、記録に留めることにした。

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南千畳の赤松

 城を巡ってつくづく思うのは、城は生きている、ということである。どんな建造物も、その建造物なりの建てられた目的があって、その目的を表す形をしている。

 城は、敵軍からの防御のために築かれたものである。建物がなくなっても、石垣や曲輪や堀切や竪堀や虎口や切岸などの防御機構が残っていれば、その城の防御に関する設計思想を窺うことが出来る。

 時代が下り、世の有様が変わっても、城は防御のための有機的な統一体として地上に残っている。

 廃城であっても、城好きが見れば、その城の設計思想が昔のまま現在に生き残っていると感じるだろう。

 城は生きている、と思う。

竹田城跡 中編

 法樹寺の北側から竹田城跡への登山道が始まる。

 赤松家の陣屋跡である法樹寺のすぐ側から始まるこの登山道は、赤松広秀も登った道だろう。

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竹田城跡登山口

 竹田城跡への登山ルートは、3通りある。駅裏登山路、表米神社登山路、山城の郷駐車場からの登山路である。

 この中で、一般的なのは駅裏登山路である。私も駅裏登山路を登り始めた。

 竹田城跡のある虎臥山の標高は、約354メートルである。そう高くない山だが、登ってみると結構きつい。私が訪れた日は、蒸し暑い日で、ぼたぼた汗が流れた。

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登山路

 登山口から約30分で、城跡の手前の料金所に着いた。ここで入場料を支払うことになる。私が過去に竹田城跡を訪れた時は、無料で見学出来た。

 竹田城跡の石垣群を維持するためには、やむを得ないのではないか。とは言え入場料は大人500円である。この城跡の見事さからすれば、割安と言える。

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竹田城跡の縄張り

 竹田城跡は、本丸を中心に、北側(図右)に北千畳、南側(図左)に南千畳、西側(図上)に花屋敷という3つの曲輪が張り出している。

 この内、花屋敷は、土砂の流出が続いており、曲輪の保護のため現在は観光客の立ち入りを禁止している。

 城の規模は、南北約400メートル、東西約100メートルである。上の図を見れば分るが、石垣の下には竪堀がいくつか掘られている。これは、太田垣氏が城主だった時代の遺構らしい。

 料金所から石段を上ると、石垣群が見えてくる。

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石垣群が見えてくる。

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野面積みの石垣

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 竹田城跡の石垣は、野面(のづら)積みという積み方である。大小様々で形も不揃いの自然石を、あまり手を加えずにそのまま積むというもので、野趣があって私は好きである。

 近江穴太(あのう)衆が、安土城の石垣を築いた穴太積みと呼ばれる積み方に似ているそうだ。

 竹田城跡の石垣は、近年補修されているのだろうが、赤松広秀の改修から400年以上経った今でも、これだけ見事な石垣群が残っている。野面積みが、ラフなようでいかに堅牢な積み方であるかが分る。

 さて、見学順路では、まず北千畳に入ることになる。大手門跡から北千畳に入っていく。

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大手門跡

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 大手門跡からは、観光客が歩く道の下に灰色のシートが敷かれるようになる。私が過去に竹田城跡を訪れた時にはなかった設備だ。

 あまりにも多くの観光客が城跡を歩くので、地面が崩れないように張ったシートだろう。

 このシートのおかげで、城跡が守られているのは確かだが、400年前そのままの景観を味わうことは出来なくなっている。まあ、仕方がないことだ。

 北千畳は、芝生が張られた広々とした曲輪である。

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北千畳

 桜の木がまばらに生えており、花見の季節には美しい場所となることだろう。

 北千畳から振り返ると、東側に面した三の丸、二の丸の石垣群を眺めることが出来る。

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三の丸、二の丸の石垣

 北千畳の端は急傾斜の石垣につながる。防御力は高そうだ。

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北千畳の一角

 そして北千畳から北を望むと、和田山の盆地が見える。

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和田山の街並み

 ここから、北の八鹿(ようか)方面から来る敵に睨みを効かせることが出来る。

 北千畳からは、本丸や天守台が見える。

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北千畳から望む本丸

 更に北千畳から三の丸へと向かう。

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三の丸への入口

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 三の丸は、北千畳より一段高くなっている。三の丸に上がり、二の丸に向けて歩いていく。行く手には本丸が見える。

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三の丸から二の丸への道

 二の丸からは、真下に竹田の町を見下ろすことが出来る。ささやかな町である。この城跡と共に時を過ごしてきた町だ。

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竹田の町

 また二の丸から南を望むと、本丸から南千畳に連なる石垣群を眺めることが出来る。

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本丸から南千畳に連なる石垣

 二の丸から本丸に向かって歩き始める。

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二の丸から本丸に向けて歩く

 本丸に近づくと、南に張り出した南千畳の全貌が視野に入る。

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南千畳

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南千畳の中央に立つ赤松

 南千畳の中心には、印象的な赤松がすっくと立っている。山上にぽつんと立つ樹木は、素敵である。何だかこの木に出迎えてもらった気がする。

 ふと今の竹田城主は、この赤松ではないかと思った。

 さて、城の中心に位置する本丸に向かって歩き始めた。

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本丸

 竹田城跡は、その石垣を遠くから眺めると、虎が臥したように見えることから、虎臥(こが)城とも呼ばれてきた。

 この石垣群の上に、白壁の城郭建築が残っているところを想像してみた。どう考えてみても、石垣だけの現在の姿の方がいいように思える。石垣の上に建物があると、虎が臥したようには見えなかっただろう。

 本来あるべきものがそこにないと、想像を膨らませる余地が出来る。

 廃城になってから420年間、山上に横たわり続けた城跡に流れた時間に対して、想像を広げてみた。同じ時間は、これからも流れ続けることだろう。