竹田城跡 前編

 6月20日で、私の住む兵庫県に出ていた新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言が終わった。

 そのため、4月24日以来控えていた史跡巡りを再開した。

 今日訪れたのは、久々に但馬である。スイフトスポーツで播但連絡道路を北上し、和田山ICで下車した。

 先ずは兵庫県朝来市和田山町竹田にある竹田城跡を訪れた。私が訪れた6番目の日本百名城になる。

f:id:sogensyooku:20210627210128j:plain

竹田城跡の遠望

f:id:sogensyooku:20210627210207j:plain

山上の石垣群

 竹田城跡は、今では「天空の城」や「日本のマチュピチュ」と呼ばれて、知名度は全国的なものになっている。

 しかしそうなったのも、平成18年に竹田城跡が日本百名城に選ばれてからのことである。

 私は、竹田城跡の知名度が上がる前に一度訪れたことがあるが、その時と今とでは若干違いがある。それについては追々書いていこうと思う。

 竹田城下の竹田の街は、古い家々を残していて、兵庫県の歴史的景観形成地区に指定されている。

 私は、観光駐車場に車をとめて歩き始めた。

 前回竹田城跡を訪れた時は、山上へと続く道路を使って、城跡の直近までマイカーで行く事が出来た。

 今はタクシーか観光バスでないと城の直近まで行けない。それ以外は徒歩での登山となる。観光客が増えて、マイカーを規制する必要が出たのだろう。

 しかし、徒歩での登山は竹田城の「山城らしさ」を味わうために必要な過程である。これは好い変化だと言える。

 さて歩き始めると、古民家をリノベーションした様々な建物が見えてくる。

f:id:sogensyooku:20210627211710j:plain

旧木村酒造場

 竹田城跡をバックに建つ「旧木村酒造場EN」は、寛永二年(1625年)に創業し、昭和54年に廃業した木村酒造場を、平成になって朝来市が買い取ってリノベーションし、ホテル、レストラン、観光拠点を兼ねる建物としてオープンさせた。

 私が前を通った時も、宿泊客が古い酒蔵を改装したレストランの中で、竹田城跡を眺めながら、朝食をとっていた。

 竹田の町は、古民家が多数残っていて、かつての宿場の雰囲気を残している。

f:id:sogensyooku:20210627212443j:plain

竹田の街並み

 「HOTEL」と染めた暖簾を下げた古民家が建っている。

f:id:sogensyooku:20210627212555j:plain

古民家HOTEL

 これも先ほどの旧木村酒造場ENの宿泊施設の一つだろう。

 さて、更に歩いてJR竹田駅の西側の寺町通に行く。

 ここは、4つの寺院が並んでおり、どの寺院も白壁の土塀で囲まれている。寺院の前には、川床が砂地のままの水路が流れていて、どの寺院も石橋を有する。そして寺院の前には松並木が続いている。

f:id:sogensyooku:20210627213118j:plain

寺町通

f:id:sogensyooku:20210627213416j:plain

川床が砂地の水路

 寺院前の水路には、鯉が放されている。現代の水路はほとんどコンクリートで舗装されているが、砂地のままというのが珍しい。この寺町通の風景は、江戸時代とほとんど変わらないだろう。
 4つの寺院の最も北側にあるのが、浄土宗の寺院、見星山法樹寺である。

f:id:sogensyooku:20210627213645j:plain

法樹寺

 法樹寺は、天正六年(1578年)に、東町に開創された。今、法樹寺の建っている場所は、竹田城の最後の城主・赤松広秀の陣屋があった場所である。

 竹田城が廃城となってしばらく経った慶長十一年(1606年)、法樹寺はこの地に移転してきた。

 今この寺には、赤松広秀の供養塔がある。

 門前の石橋は、享保八年(1723年)に架橋されたものらしい。

f:id:sogensyooku:20210627214553j:plain

門前の石橋

 また本堂は、寛文七年(1667年)から貞享五年(1688年)の間に再建されたそうだ。今の本堂は、新しいので、それより後に建てられたものだろう。

f:id:sogensyooku:20210627214815j:plain

法樹寺本堂

 ここで竹田城最後の城主赤松広秀に至る赤松家の歴史について説明する。

 播磨国佐用郡土豪赤松則村(円心)は、足利尊氏と組んで鎌倉幕府討滅に活躍した。その功績のため、室町幕府が成立してから、赤松家は播磨、備前、美作の守護となった。

 しかし、則村の曾孫の赤松満祐が、室町将軍を暗殺したことが原因で起こった嘉吉の乱で、赤松家は一度滅亡する。

 その後、赤松家の遺臣たちが吉野に侵入し、南朝から神器を奪い返した(長禄の変)ことで赤松家は室町幕府から再興を許された。赤松正則が応仁の乱の混乱に乗じて播磨を制圧し、赤松家を再興、置塩城を拠点とした。

 この正則の娘婿の赤松義村が、赤松惣家を継いだ。正則の子だった赤松村秀は、庶子だったため、惣家を継げず、分家となって龍野城主となった。

 広秀は、この村秀の孫である。天正五年(1577年)、龍野城に押し寄せた秀吉軍の前に、広秀は戦わずして降伏した。

f:id:sogensyooku:20210627222116j:plain

赤松広秀の供養塔の案内

 その後の広秀は、秀吉の家臣蜂須賀正勝の与力となり、四国の役、九州の役、小田原攻め、文禄の役等に参加した。

 天正十三年(1585年)に、広秀は今までの功績が認められ、竹田城主となった。

 皮肉なことに、竹田城は、嘉吉の乱で、山名氏が赤松氏を攻撃するために築いた城だった。

 その竹田城を、広秀は改築し、今も残る野面積みの石垣を多数有する山城にした。

 広秀は、関ケ原の合戦では西軍に参加するが、西軍が敗北した後は東軍に加わり、西軍側だった鳥取城攻めに参加する。

 しかし、広秀は鳥取城下の民家を多く焼き払ったことを家康に咎められ、鳥取の真教寺で自刃した。

 赤松広秀の死により、竹田城は廃城となり、赤松氏の陣屋も取り壊された。

 法樹寺本堂の裏には、その赤松広秀の供養塔が建っている。

f:id:sogensyooku:20210627222249j:plain

赤松広秀供養塔

f:id:sogensyooku:20210627222337j:plain

赤松広秀供養塔説明板

f:id:sogensyooku:20210627222528j:plain

 この供養塔の下に、広秀の骨が埋まっているかは分からない。

 竹田城は、嘉吉三年(1443年)に山名持豊が築き、太田垣光景が初代城主となった。室町時代竹田城は、土の城であった。

 現在の「日本のマチュピチュ」と呼ばれるような山上の見事な石垣群を築いたのは、最後の城主赤松広秀である。

 姫路城を最初に築いたのは、赤松則村と言われている。現在の兵庫県を代表する2つの城郭、姫路城と竹田城跡の両方の築造に赤松家が関わっているというのが面白い。

 竹田城跡は、石垣の規模と美しさでは、日本随一の山城だろう。

f:id:sogensyooku:20210627223654j:plain

有名な雲海の上の竹田城跡の写真

 竹田城跡は、今も数多くの観光客が訪れ、虎が臥したような石垣の美しさを写真に収めようと、多くの写真愛好家が写真を撮りに来る。

 赤松則村が築いた姫路城は、その上に現在の姫路城が築かれているので跡形もないが、竹田城跡は、赤松広秀が築いたままの石垣を残している。

 赤松一族が残した具体的な遺物の中で最大最高の傑作は、この竹田城跡だろう。

 赤松ファンである私は、竹田城跡に「登城」しながら、何故か誇らしい気持ちになった。

「ボヘミアン・ラプソディ」

 2018年に公開された映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、英国のロックバンド、クイーンとそのボーカル、フレディ・マーキュリーを描いた映画である。

 公開当時、この映画が評判になっているのは知っていたが、私はそれほどクイーンのファンというわけではなかったので、観てはいなかった。

 最近この映画が地上波とBSで放映された。私はBSで放送された「ライブ・エイド完全版」を録画して、視聴した。

 最初に結論を書くと、これは掛け値なしにいい映画である。映画を観て涙を流すという経験を久しぶりにした。

 私は、20歳になってビートルズを聴き始めてから、英国ロックに興味を持つようになり、英米のロックの歴史の中で外せないバンドの全アルバムを購入しようと思い、買い集め始めた。今も買い続けている。

 そのため、クイーンの全アルバム(ライブアルバムを含む)を持っているし、回数は多くないが、彼らが作った全曲を聴いてもいる。

f:id:sogensyooku:20210619162637j:plain

クイーンのベストアルバム。中央がフレディ。

 しかし私は、ブルースを基調としたロックが好みで、ローリング・ストーンズの最盛期のアルバム「ベガーズ・バンケット」「レット・イット・ブリード」「スティッキー・フィンガーズ」「メインストリートのならず者」あたりが最も好みの音楽に近い。   

 昔からクイーンの音楽は、うるさいロック原理主義者から、「ゲテモノ」「キワモノ」扱いされてきた。ブルースロック好きな私からしても、彼らの音楽は、さほど好みではなかった。

 メンバーの名前も、フレディ・マーキュリーリードギターブライアン・メイを覚えているだけで、バンドの経歴もほとんど知らなかった。

 しかし映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、そんな私でも十分に楽しめた。

 映画のストーリーは、ある意味で紋切型である。

 移民の子として差別されながら空港で働くフレディが、ライブハウスで見かけたスマイルというバンドに加入し、ボーカルになる。

 バンドは名称をクイーンに変え、アルバムを制作する。彼らのアルバム制作の様子がレコード会社の目に留まり、メジャーデビューをすることになる。

 それから後、バンドは栄光への階段を駆け上る。成功の中、フレディは自身がゲイであることに気づき、恋人のメアリー(女性)に告白する。メアリーとは別れることになり、フレディは孤独を深める。彼はバンドの仲間とも対立するようになり、フレディがソロ契約をしたことで他のメンバーとの亀裂は決定的になる。

 孤独感に苛まされたフレディは、アルコールとドラッグに溺れ、身を持ち崩す。そして自身がエイズにかかっていることを知る。

 彼の身を心配したメアリーが、フレディを訪れ、彼の居場所はバンドの中にあると諭した。

 思い直したフレディは、わだかまりを抱えたメンバーと会って話し合い、バンドに戻ることとなる。

 20世紀最大のチャリティーコンサート、ライブエイドに出演する前、フレディはメンバーに自分がエイズにかかっていることを告白する。メンバーは衝撃を受けるが、ライブでの成功を誓い合う。

 ライブエイドで、クイーンとフレディは圧巻のパフォーマンスを見せる。

 このライブエイドのシーンは、本当に素晴らしい。フレディ役を務めたラミ・マレックの演技は、本物のフレディはこうだったのではないかと思わせるほど鬼気迫るものである。

 この映画は、公開されてから大多数の観客に称賛された。

 しかし、一部からは、時代考証がおかしいとか、出来事の順番が違うという批判が沸いた。例えばメンバーがフレディの病気について知るのは、実際はライブエイドの後であるらしい。クライマックスのライブエイド前にメンバーが病気について知らされたことにする方が、シナリオ的には盛り上がるので、そうしたのだろう。

 しかし、「ボヘミアン・ラプソディ」はあくまで映画であって、歴史ドキュメンタリーではない。逆に言うと、この映画を観て、これが伝記的事実だと思うのも間違っていることになる。

 これは私の持論であるが、ある芸術作品を鑑賞するにあたって、その作品の外の予備知識がないと楽しめない作品は、三流の作品である。作品の中に登場する要素だけで完結して楽しめるのが、自立した作品である。

 例えば、美術館の絵画の展覧会に行くと、絵そのものをあまり観ずに、絵の横に書いている作品の説明文を一生懸命読んでいる人がいる。私は説明文はなるべく読まずに絵そのものを観るようにしている。

 その作品を、どんな人が、いつ、どこで、どんな条件で描いたかを知らなくても、観て見事だと思える絵画は見事な作品なのである。

 文学作品にしろ、絵画にしろ、音楽にしろ、映画にしろ、千年後、二千年後になって、その作品の作者や時代背景を知らない人が鑑賞してもいいと思える作品が、古典と呼ばれる資格のある作品である。

 クイーンの音楽で言えば、後世フレディがエイズが原因で死んだことを知らない人が聴いても、いいと思われるようでなければ、クイーンの音楽は古典にはならない。

 そう思えば、この映画が実話と違うところがあるという批評は、作品に対する批評としてはほとんど意味をなさない。

    そして、この映画は、クイーンのことをあまり知らない人が観ても楽しめるし、感動すると思う。その点で、まずまず成功した映画である。

 この映画の何がそんなに人を感動させるのか考えてみた。映画で流れるクイーンの音楽そのものが、才能あふれるものだというのも一つである。

 この映画の中で、フレディが自己のセクシャリティに悩み、自分の居場所を見失い、酒やドラッグで現実逃避した果てに、本来の自分の居場所を見つけて、その中で残り少ない命を燃焼させようと決意した過程が、多くの人の感動を呼ぶのだと思う。

 身分制が固定されていた時代には、自分が何者かを悩む必要がなかった。武士の子は武士であり、百姓の子は百姓になるしかなく、その中で生きるしかなかった。

 自由を与えられた人間は、その代償に自己が何者なのかに悩まなければならなくなった。どこかに今の自分と違う本当の自分がいると思い、不満を感じるようになった。

 ライブエイドの前に、フレディがメンバーに病気を告白した際、彼は印象的なことを言う。

 「俺が何者であるかは、俺が決める」

 この「ボヘミアン・ラプソディ」という映画は、フレディに捧げられた頌歌であるが、全ての自由なる人々に捧げられた生きるヒントでもあると思う。

宇谷山豊乗寺

 上板井原集落から再び智頭宿に下りてきた。智頭宿から西にしばらく行った篭山の山麓にある真言宗の寺院、宇谷山豊乗寺(ぶじょうじ)を訪れた。

 地名で言えば、鳥取県八頭郡智頭町新見にある。

f:id:sogensyooku:20210614200944j:plain

豊乗寺

 豊乗寺は、嘉祥年間(848~851年)に、弘法大師空海実弟の真雅僧正により創建されたと伝えられている。

 しかしこれは伝説上の話である。

 今は無き梵鐘の銘文には、「開山五代の末葉、範恵阿闍梨、明応五年(1496年)に梵鐘を鋳る」とあったという。一代30年として、明応五年から五代150年遡れば14世紀半ばである。南北朝時代だ。しかし後に触れるように、この寺には、平安時代の作の寺宝もある。結局豊乗寺の詳しい来歴は分かっていない。

 豊乗寺の石段の下には、清美(せいみ)地蔵という名の地蔵が祀られている。

f:id:sogensyooku:20210614202203j:plain

清美地蔵

 昔、豊乗寺のある新見村の隣の惣地村に、西尾という農家があり、そこに清美という18歳の娘がいた。

 清美は、新見の領主河村安芸守の若君と恋仲になり、豊乗寺の蓮池のほとりを通って若君の屋敷に通った。

 ある時、清美が若君の屋敷に行くと、若君は他の女性と結婚の祝宴を挙げていた。若君に裏切られたと思った清美は、蓮池に戻り、入水したという。

 この地蔵は、清美の供養のために、若君と西尾家が建てたものとされている。豊乗寺の山門下の石段も、河村、西尾両家が清美の供養のために寄進したものだそうだ。

 その石段を登ると、延享元年(1744年)建立の仁王門がある。

f:id:sogensyooku:20210614203009j:plain

仁王門

 仁王門の中には、仏師運慶が彫ったとされる仁王像が立つが、これも伝説上の話だろう。

f:id:sogensyooku:20210614203128j:plain

伝運慶作の仁王像

f:id:sogensyooku:20210614203235j:plain

仁王門の裏側

 仁王門は、山陰らしく石州瓦を載せていた。豊乗寺の仁王門は鳥取県指定文化財である。

 豊乗寺は、戦国時代に入って最盛期を迎え、12坊の僧坊を数えるまでになった。天正八年(1580年)の秀吉の鳥取攻めの際に、豊乗寺の僧侶は秀吉軍の襲来を恐れ、仏像や梵鐘を地中に埋めて退散した。寺は秀吉軍に焼き払われた。

f:id:sogensyooku:20210614203721j:plain

境内の杉

 寛永年間(1624~1643年)に、中興の祖真慶を迎え、十一世秀尊の代に地中から仏像仏具や梵鐘を掘り出し、寺を再建した。

 貞享二年(1685年)に本堂を再建した。 

f:id:sogensyooku:20210614204046j:plain

本堂

f:id:sogensyooku:20210614204137j:plain

本堂蟇股の彫刻

f:id:sogensyooku:20210614204302j:plain

手挟みや木鼻の彫刻

 御本尊は、無量寿如来、即ち阿弥陀如来である。

 弘法大師空海を祀る大師堂は、天明二年(1782年)の建立である。茅葺屋根で、建立当時の風情を残すお堂だ。大師堂も鳥取県指定文化財である。

f:id:sogensyooku:20210614204550j:plain

大師堂

f:id:sogensyooku:20210614204629j:plain

破風下の池田家の家紋

 大師堂の破風には、鳥取藩主池田家の揚羽蝶の家紋が付けられていた。池田家の信仰を集めていたのだろう。

 ところで豊乗寺には、何故か名宝と言われる文化財が数多く所蔵されている。

 国宝・絹本著色普賢菩薩像と国指定重要文化財・絹本著色楊柳観音像は、現在東京国立博物館に寄託されている。

f:id:sogensyooku:20210614205325j:plain

絹本著色普賢菩薩像と絹本着色楊柳観音

 普賢菩薩像は、平安時代後期(12世紀)の作のようだ。説明板の写真は暗くてよく見えないが、日本仏画の最高傑作の一つとされている。

 また、国指定重要文化財毘沙門天立像も、12世紀の作と言われている。

f:id:sogensyooku:20210614205827j:plain

毘沙門天立像

 その他にも、鳥取県指定文化財となっている絹本著色両界曼荼羅図や絹本著色不動明王像がある。

f:id:sogensyooku:20210614210012j:plain

絹本著色両界曼荼羅

f:id:sogensyooku:20210614211107j:plain

絹本著色不動明王

 このような山間の寺院に、なぜこのような名宝が請来されたのか。またこれらの名宝がどうやって天正の兵火を逃れたのか。謎である。

 真雅僧正が開山したという豊乗寺の寺格が高かったというのが、最も分り易い答えだろう。結局のところは分らない。

 寺の裏手に回ると、鳥取県天然記念物の豊乗寺のスギがある。

f:id:sogensyooku:20210614212205j:plain

豊乗寺のスギ

 幹回り約2メートルの雄大な杉だ。

 豊乗寺のスギの下には、池泉庭園がある。

f:id:sogensyooku:20210614212349j:plain

庭園

 山間の静かな寺院はいいものだ。

 今回の智頭の旅シリーズは一旦終わる。次に因幡の地を訪ねる時は、もう秋風が吹いているかも知れない。

上板井原集落

 石谷家住宅の見学を終え、智頭宿を散策した後、スイフトスポーツで鳥取県八頭郡智頭町市瀬板井原にある上板井原(かみいたいばら)集落を目指して走る。

 上板井原集落は、牛臥山の北側の山腹にある集落である。標高約430メートル、智頭の町からでも約130メートルは高い所にある。

 智頭宿の外れにある智頭警察署の裏手から、集落へ至る細い山道が分岐している。そこからは長い長い山道になる。スイフトスポーツは水を得た魚のように走る。

 山上の上板井原集落に着くと、そこは明治時代そのままの姿の場所であった。

f:id:sogensyooku:20210613163338j:plain

上板井原集落

 上板井原集落は、享和三年(1803年)に新田村落として成立したという。生業は、焼畑農業、炭焼き、養蚕であった。

 江戸時代には、農民たちが新たな収入を得るために、山を開拓して田畑を作り、集落を築いたようだ。

 しかし上板井原集落には、享和以前の宝篋印塔があるそうで、江戸時代より前から村落があった可能性がある。ひょっとしたら、平家の落ち武者が来ていたのかも知れない。

f:id:sogensyooku:20210613164143j:plain

上板井原集落の入口

 上板井原集落は、赤波川の左岸に出来た集落である。

 江戸時代後期は、30軒の民家があったが、現在は23軒にまで減少している。

 明治32年(1899年)の大火で、18軒の主屋が焼失したが、復興もすぐに行われた。

 江戸時代の地割で家が建っているので、当然集落内に車は入ることは出来ない。赤波川にかかる小さな橋を渡って集落内に入っていった。

f:id:sogensyooku:20210613164532j:plain

土壁の建物

f:id:sogensyooku:20210613164622j:plain

集落内の道

 集落の建物は、ほとんどが明治32年の大火以降に再建されたものだろう。大半の建物が築100年以上は経っているものと思われる。

 江戸時代の地割をそのまま残すこの集落は、平成16年に鳥取県伝統的建造物群保存地区に選定された。

 上の写真の中央の道が、この集落のメインストリートだろう。

 このメインストリートに面して、智頭町有形文化財の藤原家住宅がある。

f:id:sogensyooku:20210613165337j:plain

藤原家住宅

 藤原家住宅は、明治32年の大火後すぐに再建された建物で、木造平屋建て、茅葺入母屋造の建物である。

 藤原家住宅の隣には、古民家を改造したカフェがあった。

f:id:sogensyooku:20210613165731j:plain

古民家カフェ

 またその向かいには、民芸品や雑貨を売る店があった。

f:id:sogensyooku:20210613170027j:plain

雑貨店

 上板井原集落は、冬は深い雪に閉ざされる。冬になる前に、住民のほとんどは麓に下りてしまうらしい。春夏秋の間だけ人が住む集落だ。

 このような集落は、住民が高齢化し、年々維持が難しくなってくる。若手が入ってきて古民家を改造し、店舗としてオープンすることで、集落に新しい命が吹き込まれる。

 集落を散策すると、趣のある民家が多数目に入る。

f:id:sogensyooku:20210613170249j:plain

民家

f:id:sogensyooku:20210613170403j:plain

 上板井原集落の隣には、板井原集落という集落があったが、こちらは昭和50年に廃村となったそうだ。

 上板井原集落、板井原集落と麓の智頭宿との間は、昔は徒歩でしか通行できなかった。

 昭和42年に古峠の下にトンネルが開通して、車で町と集落を行き来できるようになると、急速に過疎化が進んだ。

 交通の便が悪いと誰もが地元に留まるが、便が良くなると、みな外に仕事や買い物に出て行ってしまい、地元が廃れてしまう。いわゆるストロー効果である。

 大阪も、東海道新幹線が開通するまでは、東京と張り合う大都会だったが、新幹線が開通して、東京から日帰り出来るようになると、大阪の会社は本社を東京に移してしまい、大阪は支社の町になってしまった。

 今工事が進んでいるリニア新幹線が出来ると、東京以外の沿線の町は皆衰退するだろう。リニアの駅を地元に引っ張ろうと頑張っている自治体は、それを予測しているのだろうか。

 人口の大半が農業に従事していて、ほとんどの人が土地に縛られていた時代は、皆土地を離れなかったが、工業化が進展すれば人は仕事のある場所に移動するようになる。これは仕方がないことである。

 鉄道各社はコロナ禍と人口減による鉄道需要の減少で、地方路線を廃線にすることを考えている。またテレワークがこれから進んでいき、自動車の自動運転も進展することだろう。

 2000年にはスマートフォンというものが夢物語で、今の状況を誰も想像すら出来なかったように、今では想像もつかない全く新しい産業が将来出てくる可能性もある。

 そんな未来に、日本の人口分布がどうなっていくのか、興味深いところである。

石谷家住宅 その5

 2階の廊下を洗面室と反対の方向に行くと、突き当りに表の間がある。

f:id:sogensyooku:20210612193927j:plain

表の間に向かう

f:id:sogensyooku:20210612194005j:plain

表の間

f:id:sogensyooku:20210612194047j:plain

表の間の床柱と床脇

 表の間は、山で樹を守る仕事をしていた山番たちの新年会に使われた部屋だという。

 この表の間の欄間の彫刻が、山陰らしくて面白かった。

f:id:sogensyooku:20210612194342j:plain

隠岐の島の彫刻

f:id:sogensyooku:20210612194435j:plain

大山の彫刻

 彼方に見える隠岐の島と大山の彫刻である。美作と襖1枚隔てたような場所にある智頭だが、石谷家には山陰の文化圏に所属する誇りがあったのだろう。山陰を代表する風景が彫刻されている。

 螺旋階段と別の階段で1階に降りる。

f:id:sogensyooku:20210612195058j:plain

もう一つの階段

 1階に降りて、囲炉裏の間に戻り、囲炉裏の間につながる喫茶室を通る。

f:id:sogensyooku:20210612195422j:plain

喫茶室

f:id:sogensyooku:20210612195519j:plain

 喫茶室は旧食堂である。土間で作った料理を、囲炉裏の間を通って、女中がここまで運んできたことだろう。

 喫茶室は、昭和11年ころ、鳥取民芸の指導者・吉田璋也がデザインしたものだという。

 襖は和紙ではなく染め布張りで、床はケヤキ材を市松模様に組んでいる。

f:id:sogensyooku:20210612200712j:plain

ケヤキ材で造られた市松模様

 喫茶室の襖隔てた隣室は、かつての居間だが、今はこちらが本物の喫茶室になっている。観光客は、ここでお茶を飲むことが出来る。

f:id:sogensyooku:20210612200114j:plain

襖の向こうは本物の喫茶室

 喫茶室を通り過ぎると、主人の間という和室がある。

f:id:sogensyooku:20210612200254j:plain

主人の間

f:id:sogensyooku:20210612200402j:plain

 主人の間は、主屋1階で最も格の高い部屋で、床脇に違い棚が付く書院造の座敷である。床柱には、高級な杉の天然絞り丸太を使用している。

 正月にはここに家族が集まり、新年を祝ったという。

f:id:sogensyooku:20210612200631j:plain

床脇

 主人の間には縁側があり、そこからは、庭園が見渡せる。

f:id:sogensyooku:20210612200949j:plain

主人の間から見渡す庭園

 静かで美しい庭だ。主屋の見学を終えて外に出る。

f:id:sogensyooku:20210612201635j:plain

主屋の北側

 主屋の北側には薪が積まれていて、薪を投ずる風呂の設備がある。

f:id:sogensyooku:20210612205456j:plain

薪と風呂の設備

 また、石谷家住宅には、蔵も多数ある。

f:id:sogensyooku:20210612201252j:plain

主屋の生活スペース

f:id:sogensyooku:20210612201350j:plain

連なる蔵

 大きな蔵が3つあるが、それぞれ1号蔵、2号蔵、3号蔵という名称が付けられている。

 3号蔵は、智頭史料蔵となっているが、私が訪れた日は開いていなかった。

f:id:sogensyooku:20210612201852j:plain

1号蔵

 2号蔵は、様々な竹製品などを展示するスペースになっている。

f:id:sogensyooku:20210612202105j:plain

2号蔵

f:id:sogensyooku:20210612202839j:plain

2号蔵の内部

 2号蔵の内部は、リフォームされたようで、木材も新しい。展示品で気になったのは、建築家の茶谷正洋氏が考案した、折り紙を使用して建物を表現する、「オリガミック・アート」である。

 1枚の紙に切れ目と折り目を入れて、立体的な建物を浮き出させるものだ。

f:id:sogensyooku:20210612203310j:plain

オリガミック・アート

 この写真のように、折り紙の技法を用いて、世界中の著名な建造物を表現していた。展示即売をしていたが、このような部屋に置いたら高級感が上がりそうな立派なものが、材料が紙であるためか、1点500円で販売していた。

 3号蔵では、版画家桑田幸人氏の、牛を題材にした版画が展示されていた。

f:id:sogensyooku:20210612204944j:plain

3号蔵

f:id:sogensyooku:20210612204909j:plain

f:id:sogensyooku:20210612205043j:plain

牛の版画展のポスター

 石谷家住宅は、繊細に数寄を凝らした建物というよりは、豪壮に木材を使用した木の殿堂と呼ぶのが相応しい邸宅である。

 築100年も経たないうちに国指定重要文化財に指定されたことからも、その文化的価値が認められたことが分かる。

 数ある我が国の近代和風建築の中でも、名建築と呼ぶに相応しいものである。

 私は石谷家住宅の存在を今年になって知ったが、今回見学したことで確実に私の人生は以前よりは豊かなものになった。

石谷家住宅 その4

 石谷氏庭園をしばし眺めてから、石谷家住宅の2階へ上がる。

 ある意味で、この建物の最大の特色は、2階へ上る階段にある。

f:id:sogensyooku:20210611213731j:plain

洋風螺旋階段

f:id:sogensyooku:20210611213818j:plain

 石谷家住宅は、典型的な和風建築だが、階段は洋風の螺旋階段である。あくまでも洋風の木造階段で、和テイストを色濃く残している。曲線を描いた手摺が見事である。

 この木製螺旋階段を上がっていくと、頭上に木製の太鼓橋が見えてくる。

f:id:sogensyooku:20210611214120j:plain

太鼓橋

 私は今まで色んな邸宅を見てきたが、家の中に橋が架かっているのは初めて見た。

f:id:sogensyooku:20210611214237j:plain

太鼓橋

f:id:sogensyooku:20210611214315j:plain

 この太鼓橋を渡るとき、床が抜けないか心配したが、離れて眺めてみると、曲線を描いた手摺が、橋の上を通る重量を支える構造になっているのが分かる。

 和モダンと言っていいしつらいだ。

 さて、2階に上がってから、まずは洗面室を覗いてみる。

f:id:sogensyooku:20210611214857j:plain

洗面室への通路

 現在の洗面室は、元々は眺望のよい書斎として使用されていた。国指定重要文化財に指定される前の平成元年に、書斎が客用の洗面室に改装された。

f:id:sogensyooku:20210611215140j:plain

洗面室

f:id:sogensyooku:20210611215226j:plain

 洗面室の天井は、棹を組み合わせた複雑な形状の格天井である。

f:id:sogensyooku:20210611215327j:plain

洗面室の格天井

 アールデコ調の木製格天井で、大正から昭和初期の和洋折衷の様式を思わせる。

 今度は太鼓橋を渡って、奥の神殿室に行く。

f:id:sogensyooku:20210611215550j:plain

太鼓橋を渡る

 太鼓橋を渡ると、座敷が幾つかあり、そこを通ると神殿室に至る。

f:id:sogensyooku:20210611215754j:plain

座敷

f:id:sogensyooku:20210611215832j:plain

神殿室入口の欄間

 神殿室入口の欄間は、智頭出身の仏師、国米泰石による透かし彫りの彫刻が施されている。

f:id:sogensyooku:20210611220007j:plain

欄間の透かし彫り

f:id:sogensyooku:20210611220048j:plain

 影絵のような見事な彫刻だ。

 神殿室は、造り付けの拝殿を設けている。一室が丸々神殿となっている。神殿室は、主人の間の真上にあり、石谷家住宅で最も神聖な部屋である。

f:id:sogensyooku:20210611220446j:plain

神殿室の拝殿

 正月には、拝殿の右手に山鳥、左手に餅花をかけ、年桶を置いて祭祀を行っていたという。

 神殿室の天井は、これまた見事な格天井だ。

f:id:sogensyooku:20210611220840j:plain

神殿室の格天井

 神殿室から奥に行くと、さらに座敷があり、脇床に松平家の葵の家紋と池田家の揚羽蝶の家紋を描いた掛硯箱のようなものが置いてある。

f:id:sogensyooku:20210611221418j:plain

2階奥の座敷

f:id:sogensyooku:20210611221537j:plain

掛硯箱ようのもの

 しかし掛硯箱にしては大きいような気がする。どういう由来のものなのだろう。

 この奥座敷の欄間の彫刻のデザインも面白いものだった。

f:id:sogensyooku:20210611221815j:plain

欄間の彫刻

 2階の窓から庭園を見下ろすと、池から北側の庭園の様子を窺うことが出来る。

f:id:sogensyooku:20210611221935j:plain

2階から眺める庭園

f:id:sogensyooku:20210611222033j:plain

 石材を配った枯山水が眼下にある。

 ところで、石谷家住宅は、建物の北半分の家人の生活スペースだった部屋部屋は非公開となっている。

 公開スペースだけでもこれだけ広大なのだから、建物全体がどれだけ広いか想像がつかない。

 2階の窓から、非公開の建物北側の屋根が見える。

f:id:sogensyooku:20210611222440j:plain

建物北側の屋根

 それにしても驚くべき邸宅だ。

 石谷家住宅は、木の殿堂とも言うべき名邸宅である。しかしこのような邸宅を造ると、引き継いでいく子孫は大変である。

 後世文化財として認められる邸宅を造るのもいいが、一生仮住まいというのも、後に何も残らずシンプルでいいのかも知れない。

石谷家住宅 その3

 和室応接の見学を終え、奥にある新建座敷への畳敷きの渡り廊下を行く。

f:id:sogensyooku:20210608214212j:plain

畳敷きの渡り廊下

 この渡り廊下の左手に、江戸時代の書家・市河米庵の書が書かれた屏風がある。

f:id:sogensyooku:20210608214331j:plain

市河米庵の書

 市河米庵は、安永8年(1779年)から安政五年(1858年)を生きた書家である。父市河寛齋、林述齋、柴野栗山といった儒者に学んだ。

 私は、森鷗外が晩年に著した史伝が好きだが、「澁江抽齋」の中には、鷗外が澁江抽齋を調べる過程で浮かび上がった膨大な数の同時代の文化人が顔を出す。

 その中に市河米庵の名もあった。鷗外史伝の世界に浸るようになって、江戸時代後期の儒者漢詩人の世界を身近に感じるようになった。

 ここで市河米庵の書に出会って、鷗外史伝の世界に迷い込んだ気がした。

 この廊下の突き当りに、仏間がある。

f:id:sogensyooku:20210608215740j:plain

仏間の仏壇

f:id:sogensyooku:20210608215929j:plain

仏壇の長押

f:id:sogensyooku:20210608220019j:plain

仏壇の飾り

f:id:sogensyooku:20210608220137j:plain

仏間の天井

 仏間は、旧主屋にあったものを、改築の際に曳家をしてここに移築したものらしい。この真言宗の仏壇には、見事な装飾が施されているが、江戸時代後期のものと言われている。

 仏間は、昭和16年に新築された新建座敷につながっている。

f:id:sogensyooku:20210608221419j:plain

新建座敷前の畳敷きの廊下

 新建座敷の前には畳敷きの廊下があり、廊下は中庭に面している。後で石谷家住宅のパンフレットを見て気が付いたが、この廊下の突き当りを左に行けば、江戸期に建てられた江戸座敷があったようだ。

 見学時には気が付かず、見学することなく反転してしまった。

 新建座敷は、国登録名勝の石谷氏庭園に面した明るい閑雅な座敷である。

f:id:sogensyooku:20210608222148j:plain

新建座敷

 天井材には奈良の春日杉、欄間や床柱には屋久杉が使われている。

f:id:sogensyooku:20210608222306j:plain

欄間の彫刻

f:id:sogensyooku:20210608222422j:plain

新建座敷の床の間

 床脇の床と違い棚、天袋板は、鮮やかな春慶塗である。

f:id:sogensyooku:20210608222618j:plain

床脇の床

f:id:sogensyooku:20210608222737j:plain

床脇の天袋

 また壁紙は、和紙の袋貼りである。清楚な美しさを見せている。

 床の間の天井の板も、複雑な木目である。銘木なのであろう。

f:id:sogensyooku:20210608223101j:plain

床の間と書院

f:id:sogensyooku:20210608223138j:plain

床の間の天井

f:id:sogensyooku:20210608223225j:plain

書院の欄間

f:id:sogensyooku:20210608223527j:plain

書院甲板

 書院甲板の木材からも、杢目が浮き出ている。これも銘木なのだろう。
 床の間の前にある机は、中国風の彫刻が施された名品であった。

f:id:sogensyooku:20210608223736j:plain

新建座敷の机

f:id:sogensyooku:20210608223858j:plain

 このような机を目の前にして、庭園を眺めながら、書き物や読書をする生活に憧れる。
 新建座敷の縁側に面して国登録名勝の池泉庭園がある。

f:id:sogensyooku:20210608224308j:plain

新建座敷の縁側

f:id:sogensyooku:20210608224400j:plain

石谷氏庭園全体図

 池泉庭園は、新建座敷、江戸座敷、茶室に面している。庭を眺めるが、静かである。

 奥の茶室からの眺めが最も良いだろう。

f:id:sogensyooku:20210608224636j:plain

池泉式庭園(右が江戸座敷、奥が茶室)

f:id:sogensyooku:20210608224742j:plain

f:id:sogensyooku:20210608224820j:plain

f:id:sogensyooku:20210608224859j:plain

f:id:sogensyooku:20210608224938j:plain

 庭を彩る植物は生きている。苔もそうだ。手入れを怠れば、苔は枯れ、雑草が生え、庭木も伸び放題で、庭の美しい眺めは維持できなくなる。
 我々が普段生活している人間社会も、働いている人たちがさぼれば秩序も人の生活も景観も維持できなくなる。

 今朝家を出てから家に帰るまで出会った職業人が、みんなさぼっていたら、到底自分は生きてはいけないと感じる。
 庭の手入れと人間社会の維持は似たようなものだ。どんな仕事でも、人の生活を支えるのに必要なものだ。そう思えば、職業や身分に上下はないことに気づく。
 静かな庭を眺めながら、そんなことを考えた。