粟鹿神社

 楽音寺の見学を終え、東に車を走らせる。次なる目的地は、朝来市山東町粟鹿にある但馬国一宮の粟鹿(あわが)神社である。

 実は、但馬には一宮が二つある。もう一つは豊岡市出石町にある出石神社である。なぜ但馬に一宮が二つあるかは分からない。

 粟鹿神社に向かう途中、但馬最古級の古墳、若水(わかす)古墳を見学しようと思ったが、どうやら北近畿豊岡自動車道の工事で墳丘が破壊されてしまったようだ。

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若水古墳のあった辺り

 古墳に行きつく道もない。仕方なく、かつて墳丘のあった辺りを写真に収めた。

 若水古墳は、直径約40メートルの円墳で、3世紀後半に築造された。ここからは、中国製の鏡2枚が発掘されたらしい。但馬では最も古い古墳で、この地を切り開いた王者が埋葬されたのだろう。

 粟鹿神社は、この若水古墳から数百メートル先にある。

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粟鹿神社の鎮守の森

 粟鹿神社の周囲は、鎮守の森に覆われている。森の北側には、御神木の古い杉が生えている。

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御神木

 粟鹿神社は、粟鹿山の山麓に位置する。祭神の彦火火出見(ひこほほでみ)命が但馬を平定し、山に登って国見をした時、三本の粟をくわえた鹿が現れ、粟を命に献上したという。それ以来、その山を粟鹿山と呼ぶようになったとされている。

 彦火火出見命は初代神武天皇の祖父で、山幸彦と同一とされている。この神様が活躍した舞台は、記紀神話では南九州で、どうもこの但馬の地と結びつかない気がする。 

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鳥居

 また第9代開化天皇の第三皇子、日子坐王(ひこいますおおきみ)を祭神とする説もある。

 「古事記」では、第10代崇神天皇が、弟の日子坐王を丹波道に派遣して、丹波方面を平定させたとされている。

 粟鹿神社の本殿裏には、どう見ても人工的に造られた墳丘のような塚があるが、これが日子坐王の墓だという伝承がある。

 丹波から更に北西に進軍すると朝来に至る。丹波を平定した日子坐王が、この地で力尽きて亡くなったというのもあり得る話だ。

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粟鹿神社の勅使門と随身

 神社の近くにある若水古墳は、築造年代が崇神天皇の時代と重なる。日子坐王にまつわる伝承も、強ち間違っていない気がする。

 粟鹿神社は、「延喜式」の明神大社に列せられており、古来から社格は高かったようだ。

 その証拠に、天皇の勅使を迎えるための勅使門が神社に備えられている。この門は四脚門である。

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勅使門

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 元寇の際に敵国調伏を祈るための勅使が粟鹿神社に派遣された。勅使門はその時に建てられたという。

 今建っている勅使門がいつのものかは分からないが、少なくとも応仁の乱よりは前のものであるらしい。

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勅使門

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羽目板の鳳凰の彫刻

 粟鹿神社には、国家の危難に際し、四回勅使が派遣されたそうだ。この門を再度勅使が潜る時が来るのだろうか。粟鹿神社勅使門は朝来市指定文化財である。

 随身門の表側には、朝来市指定文化財となっている木造著色随身倚像が置かれている。

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随身

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木造著色随身倚像(阿形)

 随身倚像の制作年代は分らないが、随身門の棟札から、天和三年(1683年)に門が再興されたと分かっている。その時に作られたものか。

 随身門の裏側には、朝来市指定文化財の木造著色狛犬像二体が安置されている。

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木造著色狛犬像(阿形像)

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木造著色狛犬像(吽形像)

 この狛犬像も、江戸時代初期の制作とされている。

 随身門を潜って境内に入ると、杉が林立する森閑とした空気が辺りを領していた。

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森閑とした境内

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弁天堂

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天満宮

 杜の中の社である。

 鹿が粟を加えてきたという逸話は、農耕がこの地に伝わったことを暗示している。

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拝殿

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拝殿前の狛犬

 3世紀後半に大和王権の支配がこの地に及ぶ前から、この地では農耕が行われていただろうが、弥生時代の農耕より一段進んだ文化を齎したのは大和王権だったろう。

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本殿

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 本殿の裏には、人工的に土が盛られたと思われる墳丘のようなものがある。日子坐王の墓だと伝承されている塚だ。

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本殿裏の塚

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境内の裏側から見た塚

 この丘が墳丘だとしたら、粟鹿神社は明らかにこの墳丘に眠る者を祀るために建てられたものである。
 若水古墳と粟鹿神社の墳丘に埋葬された者は、この地に大和王権に関連する先進の文化を齎した者だろう。

 古墳時代には、その土地の発展に寄与した者は、大きな墓に葬られたが、文字がなかったため、時と共に墓に葬られた者が誰だったのか分からなくなってしまった。

 後世の我々は、古墳から発掘された遺物や、近くの神社の伝承、記紀風土記から、被葬者を想像するよりほかなくなった。

 我が国は、古墳時代からの政権が今に続く、現存する世界最古の国だが、国家の発祥が謎に包まれている世界唯一の国である。