「ボヘミアン・ラプソディ」

 2018年に公開された映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、英国のロックバンド、クイーンとそのボーカル、フレディ・マーキュリーを描いた映画である。

 公開当時、この映画が評判になっているのは知っていたが、私はそれほどクイーンのファンというわけではなかったので、観てはいなかった。

 最近この映画が地上波とBSで放映された。私はBSで放送された「ライブ・エイド完全版」を録画して、視聴した。

 最初に結論を書くと、これは掛け値なしにいい映画である。映画を観て涙を流すという経験を久しぶりにした。

 私は、20歳になってビートルズを聴き始めてから、英国ロックに興味を持つようになり、英米のロックの歴史の中で外せないバンドの全アルバムを購入しようと思い、買い集め始めた。今も買い続けている。

 そのため、クイーンの全アルバム(ライブアルバムを含む)を持っているし、回数は多くないが、彼らが作った全曲を聴いてもいる。

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クイーンのベストアルバム。中央がフレディ。

 しかし私は、ブルースを基調としたロックが好みで、ローリング・ストーンズの最盛期のアルバム「ベガーズ・バンケット」「レット・イット・ブリード」「スティッキー・フィンガーズ」「メインストリートのならず者」あたりが最も好みの音楽に近い。   

 昔からクイーンの音楽は、うるさいロック原理主義者から、「ゲテモノ」「キワモノ」扱いされてきた。ブルースロック好きな私からしても、彼らの音楽は、さほど好みではなかった。

 メンバーの名前も、フレディ・マーキュリーリードギターブライアン・メイを覚えているだけで、バンドの経歴もほとんど知らなかった。

 しかし映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、そんな私でも十分に楽しめた。

 映画のストーリーは、ある意味で紋切型である。

 移民の子として差別されながら空港で働くフレディが、ライブハウスで見かけたスマイルというバンドに加入し、ボーカルになる。

 バンドは名称をクイーンに変え、アルバムを制作する。彼らのアルバム制作の様子がレコード会社の目に留まり、メジャーデビューをすることになる。

 それから後、バンドは栄光への階段を駆け上る。成功の中、フレディは自身がゲイであることに気づき、恋人のメアリー(女性)に告白する。メアリーとは別れることになり、フレディは孤独を深める。彼はバンドの仲間とも対立するようになり、フレディがソロ契約をしたことで他のメンバーとの亀裂は決定的になる。

 孤独感に苛まされたフレディは、アルコールとドラッグに溺れ、身を持ち崩す。そして自身がエイズにかかっていることを知る。

 彼の身を心配したメアリーが、フレディを訪れ、彼の居場所はバンドの中にあると諭した。

 思い直したフレディは、わだかまりを抱えたメンバーと会って話し合い、バンドに戻ることとなる。

 20世紀最大のチャリティーコンサート、ライブエイドに出演する前、フレディはメンバーに自分がエイズにかかっていることを告白する。メンバーは衝撃を受けるが、ライブでの成功を誓い合う。

 ライブエイドで、クイーンとフレディは圧巻のパフォーマンスを見せる。

 このライブエイドのシーンは、本当に素晴らしい。フレディ役を務めたラミ・マレックの演技は、本物のフレディはこうだったのではないかと思わせるほど鬼気迫るものである。

 この映画は、公開されてから大多数の観客に称賛された。

 しかし、一部からは、時代考証がおかしいとか、出来事の順番が違うという批判が沸いた。例えばメンバーがフレディの病気について知るのは、実際はライブエイドの後であるらしい。クライマックスのライブエイド前にメンバーが病気について知らされたことにする方が、シナリオ的には盛り上がるので、そうしたのだろう。

 しかし、「ボヘミアン・ラプソディ」はあくまで映画であって、歴史ドキュメンタリーではない。逆に言うと、この映画を観て、これが伝記的事実だと思うのも間違っていることになる。

 これは私の持論であるが、ある芸術作品を鑑賞するにあたって、その作品の外の予備知識がないと楽しめない作品は、三流の作品である。作品の中に登場する要素だけで完結して楽しめるのが、自立した作品である。

 例えば、美術館の絵画の展覧会に行くと、絵そのものをあまり観ずに、絵の横に書いている作品の説明文を一生懸命読んでいる人がいる。私は説明文はなるべく読まずに絵そのものを観るようにしている。

 その作品を、どんな人が、いつ、どこで、どんな条件で描いたかを知らなくても、観て見事だと思える絵画は見事な作品なのである。

 文学作品にしろ、絵画にしろ、音楽にしろ、映画にしろ、千年後、二千年後になって、その作品の作者や時代背景を知らない人が鑑賞してもいいと思える作品が、古典と呼ばれる資格のある作品である。

 クイーンの音楽で言えば、後世フレディがエイズが原因で死んだことを知らない人が聴いても、いいと思われるようでなければ、クイーンの音楽は古典にはならない。

 そう思えば、この映画が実話と違うところがあるという批評は、作品に対する批評としてはほとんど意味をなさない。

    そして、この映画は、クイーンのことをあまり知らない人が観ても楽しめるし、感動すると思う。その点で、まずまず成功した映画である。

 この映画の何がそんなに人を感動させるのか考えてみた。映画で流れるクイーンの音楽そのものが、才能あふれるものだというのも一つである。

 この映画の中で、フレディが自己のセクシャリティに悩み、自分の居場所を見失い、酒やドラッグで現実逃避した果てに、本来の自分の居場所を見つけて、その中で残り少ない命を燃焼させようと決意した過程が、多くの人の感動を呼ぶのだと思う。

 身分制が固定されていた時代には、自分が何者かを悩む必要がなかった。武士の子は武士であり、百姓の子は百姓になるしかなく、その中で生きるしかなかった。

 自由を与えられた人間は、その代償に自己が何者なのかに悩まなければならなくなった。どこかに今の自分と違う本当の自分がいると思い、不満を感じるようになった。

 ライブエイドの前に、フレディがメンバーに病気を告白した際、彼は印象的なことを言う。

 「俺が何者であるかは、俺が決める」

 この「ボヘミアン・ラプソディ」という映画は、フレディに捧げられた頌歌であるが、全ての自由なる人々に捧げられた生きるヒントでもあると思う。