6月20日で、私の住む兵庫県に出ていた新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言が終わった。
そのため、4月24日以来控えていた史跡巡りを再開した。
今日訪れたのは、久々に但馬である。スイフトスポーツで播但連絡道路を北上し、和田山ICで下車した。
先ずは兵庫県朝来市和田山町竹田にある竹田城跡を訪れた。私が訪れた6番目の日本百名城になる。
竹田城跡は、今では「天空の城」や「日本のマチュピチュ」と呼ばれて、知名度は全国的なものになっている。
しかしそうなったのも、平成18年に竹田城跡が日本百名城に選ばれてからのことである。
私は、竹田城跡の知名度が上がる前に一度訪れたことがあるが、その時と今とでは若干違いがある。それについては追々書いていこうと思う。
竹田城下の竹田の街は、古い家々を残していて、兵庫県の歴史的景観形成地区に指定されている。
私は、観光駐車場に車をとめて歩き始めた。
前回竹田城跡を訪れた時は、山上へと続く道路を使って、城跡の直近までマイカーで行く事が出来た。
今はタクシーか観光バスでないと城の直近まで行けない。それ以外は徒歩での登山となる。観光客が増えて、マイカーを規制する必要が出たのだろう。
しかし、徒歩での登山は竹田城の「山城らしさ」を味わうために必要な過程である。これは好い変化だと言える。
さて歩き始めると、古民家をリノベーションした様々な建物が見えてくる。
竹田城跡をバックに建つ「旧木村酒造場EN」は、寛永二年(1625年)に創業し、昭和54年に廃業した木村酒造場を、平成になって朝来市が買い取ってリノベーションし、ホテル、レストラン、観光拠点を兼ねる建物としてオープンさせた。
私が前を通った時も、宿泊客が古い酒蔵を改装したレストランの中で、竹田城跡を眺めながら、朝食をとっていた。
竹田の町は、古民家が多数残っていて、かつての宿場の雰囲気を残している。
「HOTEL」と染めた暖簾を下げた古民家が建っている。
これも先ほどの旧木村酒造場ENの宿泊施設の一つだろう。
ここは、4つの寺院が並んでおり、どの寺院も白壁の土塀で囲まれている。寺院の前には、川床が砂地のままの水路が流れていて、どの寺院も石橋を有する。そして寺院の前には松並木が続いている。
寺院前の水路には、鯉が放されている。現代の水路はほとんどコンクリートで舗装されているが、砂地のままというのが珍しい。この寺町通の風景は、江戸時代とほとんど変わらないだろう。
4つの寺院の最も北側にあるのが、浄土宗の寺院、見星山法樹寺である。
法樹寺は、天正六年(1578年)に、東町に開創された。今、法樹寺の建っている場所は、竹田城の最後の城主・赤松広秀の陣屋があった場所である。
竹田城が廃城となってしばらく経った慶長十一年(1606年)、法樹寺はこの地に移転してきた。
今この寺には、赤松広秀の供養塔がある。
門前の石橋は、享保八年(1723年)に架橋されたものらしい。
また本堂は、寛文七年(1667年)から貞享五年(1688年)の間に再建されたそうだ。今の本堂は、新しいので、それより後に建てられたものだろう。
ここで竹田城最後の城主赤松広秀に至る赤松家の歴史について説明する。
播磨国佐用郡の土豪赤松則村(円心)は、足利尊氏と組んで鎌倉幕府討滅に活躍した。その功績のため、室町幕府が成立してから、赤松家は播磨、備前、美作の守護となった。
しかし、則村の曾孫の赤松満祐が、室町将軍を暗殺したことが原因で起こった嘉吉の乱で、赤松家は一度滅亡する。
その後、赤松家の遺臣たちが吉野に侵入し、南朝から神器を奪い返した(長禄の変)ことで赤松家は室町幕府から再興を許された。赤松正則が応仁の乱の混乱に乗じて播磨を制圧し、赤松家を再興、置塩城を拠点とした。
この正則の娘婿の赤松義村が、赤松惣家を継いだ。正則の子だった赤松村秀は、庶子だったため、惣家を継げず、分家となって龍野城主となった。
広秀は、この村秀の孫である。天正五年(1577年)、龍野城に押し寄せた秀吉軍の前に、広秀は戦わずして降伏した。
その後の広秀は、秀吉の家臣蜂須賀正勝の与力となり、四国の役、九州の役、小田原攻め、文禄の役等に参加した。
天正十三年(1585年)に、広秀は今までの功績が認められ、竹田城主となった。
皮肉なことに、竹田城は、嘉吉の乱で、山名氏が赤松氏を攻撃するために築いた城だった。
その竹田城を、広秀は改築し、今も残る野面積みの石垣を多数有する山城にした。
広秀は、関ケ原の合戦では西軍に参加するが、西軍が敗北した後は東軍に加わり、西軍側だった鳥取城攻めに参加する。
しかし、広秀は鳥取城下の民家を多く焼き払ったことを家康に咎められ、鳥取の真教寺で自刃した。
赤松広秀の死により、竹田城は廃城となり、赤松氏の陣屋も取り壊された。
法樹寺本堂の裏には、その赤松広秀の供養塔が建っている。
この供養塔の下に、広秀の骨が埋まっているかは分からない。
竹田城は、嘉吉三年(1443年)に山名持豊が築き、太田垣光景が初代城主となった。室町時代の竹田城は、土の城であった。
現在の「日本のマチュピチュ」と呼ばれるような山上の見事な石垣群を築いたのは、最後の城主赤松広秀である。
姫路城を最初に築いたのは、赤松則村と言われている。現在の兵庫県を代表する2つの城郭、姫路城と竹田城跡の両方の築造に赤松家が関わっているというのが面白い。
竹田城跡は、石垣の規模と美しさでは、日本随一の山城だろう。
竹田城跡は、今も数多くの観光客が訪れ、虎が臥したような石垣の美しさを写真に収めようと、多くの写真愛好家が写真を撮りに来る。
赤松則村が築いた姫路城は、その上に現在の姫路城が築かれているので跡形もないが、竹田城跡は、赤松広秀が築いたままの石垣を残している。
赤松一族が残した具体的な遺物の中で最大最高の傑作は、この竹田城跡だろう。
赤松ファンである私は、竹田城跡に「登城」しながら、何故か誇らしい気持ちになった。